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承久記  6 

院宣を泰時に下さるゝ事 28


 十五日巳の刻、泰時雲霞の如くの勢にて、上河原より打立ち、四辻殿の院の御所へ寄すと聞えけり。一院、東西を失はせ給ふ。月卿・雲客前後を忘れてあわてさはぐ、責めての御事に院宣を泰時に遣はされけり。その状に曰く、

 秀康朝臣・胤義以下徒党、追討令む可し之由、宣下既に畢。又先の宣旨を停止、解却の輩、還任令む可し之由、同く宣下せ被れ訖る。凡そ天下の事、今に於干者、御口入及ばざると雖ども、御存知の趣、争かでか仰せ知ざる乎。凶徒の浮言に就きて、既に此の沙汰に及び、後悔左右に能はず。但天災之時至る歟。抑も亦悪魔の結構歟。誠に勿論之次第也。自今以後に於いては、武勇に携はる輩は、召し使ふ可からず。又家を稟さず武芸を好む者、永く停止被るべき也。此の如き故に自然御大事に及ぶ由、御覚知有る者也。前非を悔ひて仰せ被る也。御気色此の如し。仍て執達件の如し。
  六月十五日                   権中納言定高

 武蔵の守殿

 かくこそ遊ばされけれ。院宣を召次ぎに持せて、泰時に遣はされたり。詞を以ては「各々申すべき事あらば、それより申さるべし。御所中にやがて罷向かはん事、人民の嘆き、皇妃・采女の畏れ畏るゝ事の、余りに不便に思召さるゝなり。ただまげてそれに候へ」と仰せられければ、泰時馬より下り、院の御使に対面して、院宣を開いて見て、高き処に巻納めて、「畏まりて承り候ひをはんぬ。親にて候義時、帰り承りて何とか申し候はんずらん。先づ泰時にあてゝ院宣を拝領候条、辱く存じ候。この上に左右なく参り候はんことも、その恐れ候へば、後斟(ごしん)を知り罷止まり候ふ」とて、叔父相模の守時房に申し合されければ、「左右に及ばず」とて、六条の北南に陣を取りて居給ひ、大勢みな六波羅にうち入けり。


胤義自害の事 29



 胤義は「東山にて自害せん」と思ひけるが、便宜(びんぎ)悪しかりければ、「太秦に小児あり。それを隠し置きける所へ落行かんが、先にはまた大勢入乱るゝと申しければ、是に隠れ居て日を暮し、太秦に向かはん」と、西山木島(このしま)の社の内に隠れゐて、車の傍らに立て、女車のよしにて、さうの車(?)をぞ乗せたりける。

 胤義が年来の郎党に、藤の四郎入道といふ者、高野に籠りたるが、軍をも見、主の行方をも見んと、都へ上りけるが、ここを通るを森の内より見て出で合ひたれば、藤の四郎入道如何にともいはず涙を流す。「さても何としてかは、かくて渡らせ給ふぞ」と申しければ、「西山に幼き者どものあるを、一目見て自害せんと思ひて行くに、敵既に乱入ると聞く間、ここにて日を暮し、夜に紛れて行かんとて休むなり」と言ひければ、

 入道、「敵さきに籠り、御あとにまた満ち満ちたり。いつのひまに公達のもとへは着かせ給ふべき。平判官は東寺の軍は能くしたれども、妻子の事を心にかけて、女車にて落ち行くを、車より引き出だされて、討たれたると言はれさせ給はんこそ口惜しく候へ。昔より三浦の一門に疵やは候。入道知識申すべし。この社にて御自害候へかし」と申しければ、胤義「いしくも申したるものかな」とて、「さらば太郎兵衛先づ自害せよ。心やすく見おかん」と言ひければ、嫡子太郎兵衛、腹十文字にかき切りて死ぬ。

 胤義追ひつかんとて形見どもを送り、云ひけるは、「藤の四郎入道は、父子の首取りて、駿河の守が元へ行きて、『この首どもにて勲功の賞にほこり給はん事こそ、おしはかられて候へ。度々の合戦に、三浦の一家を亡ぼし給ふをこそ、人くちびるを返し(=悪口を言ふ)候ひしに、胤義一家をさへ亡ぼし給ひ候へば、いよいよ人の申さんところこそ、却つていたはしく候へと、ただ今思ひ合せ給はんずらん』と申せ」とて腹かききる。首をば取りて森に火かけて、骸をば焼にけり。

 その後駿河守の所へ行きて、最後の有様申しければ、「義村兄弟ならずば、誰かは首を送るべき。義村なればとて、世の道理を知らぬにはなけれども、弓矢を取る習ひ、親子兄弟互に敵となる事、今に始めぬ事なり」とて、弟・甥の首、左右の袖にかゝへて泣き居たり。京より尊き僧請じ奉り仏事とり行ひ、太秦の妻子呼び寄せて労り慰めけり。


京方の兵誅戮の事 30


 山田の次郎重忠は西山に入りて沢の端に本尊をかけ、念仏しける処に、天野の左衛門押寄せければ、自害すべき隙なかりけるに、嫡子伊豆守重継支へつつ、「この間に御自害候へ」と言ひければ、山田は自害して伏せにけり。伊豆の守は生捕られぬ。

 秀康、同じく秀澄、生捕られて斬られぬ。下総の前司盛綱も生捕られて斬られぬ。糟屋、北山にて自害す。天野の四郎左衛門は、首をのべて参りたりけれども斬られにけり。山城守・後藤の判官、生捕られて斬らる。後藤をば、子息左衛門元綱申し請けて斬りてけり。

 「他人に斬らせて、首を申請けて孝養せよかし。これや保元に、為義を義朝斬られたりしに恐れず。それは上古の事なり。先規なかりき。それをこそ末代までの誹りなるに、二の舞したる元綱かな」と、万人つまはじきをぞしたりける。

 近江の錦織の判官代は、六波羅武蔵の守の前にて、佐野の小次郎入道兄弟三人承て、侍にて手取り足取りして斬られぬ。六条河原にて謀反の輩の首を斬るに、剣をさすにいとまあらず。駿河の大夫の判官維信、行方も知らず落ちにけり。

 二位の法印尊長は、吉野十津川に逃げ籠りて、当時は搦め取られず。清水寺の法師鏡月房、その法師弟子常陸房、美濃の房三人搦め取らる。既に斬らんとするところに、「暫く助けさせ給へ。一首の愚詠を仕り候はゞや」と申しければ、「これ程の隙は給はるべし」とてさしおくに、

勅なれば命は捨てつ武の八十宇治川の瀬には立たねど

 このよし武蔵の守に早馬をもて申したりければ、感懐の余り、「赦すべし」とて師弟三人ながら赦されけり。「人は能芸を嗜む可きものかな。末代といひながら和歌の道も頼みあり。泰時やさしくも赦されたり」と、上下感じけり。熊野法師、田辺の別当も斬られにけり。


京都飛脚の人々評定の事 31


 武蔵の守、早馬にて関東へ注進す。合戦の次第、討死、手負ひの交名注文(=書状)、並びに召し置くところの交名、斬らるゝ武士の交名、このほか院々宮々の御事、月卿雲客の罪障、京都の政あらため、山門南都の次第は、泰時が私に計らひ難し、急速に承りて治定(ぢじやう)して、帰参すべきよし申しけり。

 早馬関東に着きたりければ、権大夫殿・二位殿・その外大・小名面々に走り出で、「軍は如何に。御悦びか何とかある」と、口々に問はれけり。「軍は御勝利候。三浦の平九郎判官、山田の次郎、能登の守秀康以下みな斬られぬ。御文候ふ」とて大なる巻物差上げたれば、

 大膳の大夫入道取りあげて、一同に「あつ」とぞ申されける。中にも二位殿、あまりの事に涙を流し、先づ若宮の大菩薩を伏し拝み参らせて、やがて若宮へ参らせ給ひけり。それより三代将軍の御墓に参らせ給ひて、御悦び申し有りければ、大名・小名馳せ集つて御悦びども申しあはる。その中にも子討たれ、親討たれぬと聞く人、悦びにつけ嘆きにつけて、関東はさざめきののしりあへりけり。

 評定あるべしとて、大名どもみな参りけり。一番のくぢは大膳の大夫入道取りたりければ、申しけるは、「院々宮々をば遠国へ流し奉るべし。月卿雲客をば板東へ召し下すべし」と披露して、「路にて皆失はるべし。京都の政は、巴の大将殿御沙汰たるべし。摂籙をば近衛殿へ参らせらるべしと存じ候ふ」と意見を致す。

 義時、「この儀一分も相違なし。この儀に同ず」と仰せければ、大名どもも「然るべし」とぞ申しける。やがてこの御返事をこそ書き、一疋相添へて、翌日京へ早馬を立てられけり。去る程に巴の大将殿に、六波羅より此よし申されたりければ、「我当に将軍の外祖にあらず。義時が親昵にあらざれども、正路(しやうろ)を守りて、君を諫め申すに依て、憂き目を見し故なり。これも夢なり。然しながら山王に申したりし故なり」とて、大将公経、日吉をぞ仰ぎ奉らる。


公卿罪科の事 32



 去る程に、去ぬる廿四日、武蔵の守しづかに院参して、「謀反を進め申され候ひつらん張本の雲客を召し給はらん」と申されければ、院、急ぎ交名をしるし出ださせましましけるぞ浅ましき。

 御注文に任せて、皆々六波羅へ搦め出だされ給ふ人々には、坊門の大納言忠信、預り千葉介胤綱。按察使の大納言光親、預り武田の五郎信光。中御門の中納言宗行、預り小山の左衛門尉朝長。佐々木の中納言宗行、預り小笠原の次郎長清。甲斐の宰相中将範茂、預り式部丞朝時。一条の次郎宰相中将信能、預り遠山の左衛門尉景朝。各々礼儀の公卿を辞して、板東武将の家に渡り給ふ。

 そもそも八条の尼御台所と申せしは、故鎌倉の右大臣の後室にておはしき。坊門の大納言忠信の卿の御妹なりしかば、この謀反の衆にかりいれられて、関東へ下り給ふを知りて、かねて鎌倉へ御使を奉り給ふ。

 「我れ右大臣におくれて、彼の菩提を弔(とぶら)ふよりほか他事なし。光季が討たれし朝より、宇治の落る夕べまで、女の心のうたてさは、昔のよしみ心にかゝり、兄弟をも知らず。君の傾ぶかせ給ふをも忘れて、三代将軍のあとの亡びん事を悲しみて、『南無八幡大菩薩守らせ給へ』と、心の内に祈りて候ひし。この事、忠信の卿を助けんとて偽り申し候はゞ、大菩薩の御慮も恥かしかるべし。数ならぬ身の祈りに答へて、かゝるべしとは思はねども、心ざしを申すばかりなり。然るに慈悲心には、うちたえ(=全く)知らぬ人をも助け哀れむは習ひなり。如何に況やまさしき兄を助けざるべき。罪の深さはさこそ候らめども、これ然しながら我に許すと思召す可からず。故右大臣殿に許し奉ると思ひなして、忠信の卿の命を助けさせ給へ」と、権大夫殿・二位殿へ仰せられたりければ、「許し奉れ」とて御許し文ありけるに、八月一日遠江の国橋本にて逢ひたりければ、預りの武士千葉介胤綱、この二位殿・義時の状を見て、許し上せ奉る。

 按察使の大納言光親の卿これを聞き給ひて、人して御悦び申されたりければ、忠信の卿、「これも夢やらんとこそ覚え候へ」と、返事し給ふも理なり。去る程に八月二日越後の国へ流され給ひぬ。

 同じき十日、中御門の入道前の中納言宗行の卿は、菊川にて、「昔南陽県の菊水の下流を汲み齢を延び、今は東海道の菊川の西岸に宿り命を失ふ」とぞ宿の柱に書付け給ふ。同じき十三日、駿河の国浮島が原にて、

今日過ぐる身は浮島が原にてぞ露の命をきり定めぬる

 同じき十四日の辰の刻に、相沢といふ処にて、つひに斬られ給ひぬ。

 佐々木の中納言有雅の卿は、小笠原具し奉りて、甲斐の国稲積の庄内小瀬村といふ所にて斬らんとす。「二位殿に申したる旨あり。その御返事、今日にあらんずれば、今二時の命をのべ給へ」と宣ひけるを、「ただ斬れ」とて斬りてけり。一時ばかりありて、「有雅の卿斬り奉るな」と、二位殿の御返事あり。宿業力なしとは言ひながら、一時の間をまたずして斬られけるこそ哀れなれ。小笠原も、今二時の命と手を合はせて乞ひ給ふを斬りたるこそ情けなく覚ゆれ。三宝の知恵(しるべ)も知り難く、人望にもうたてしとぞ見えし。

 一条の宰相中将信能は、美濃の国遠山にて斬り奉る。同じき十八日、甲斐の宰相中将範茂は、足柄山の関の東にて出家し、晴河といふ浅き河の堤をせきとめて、沈め奉らんとす。

思ひきや苔の下水せきとめて月ならぬ身のやどるべきとは

 とて自水せらる。六人の公卿のあとの嘆き、いふも中々愚かなり。





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