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村おこしのシェークスピア劇場

 
材木の村を文化の町に変える   渡辺明次
 
 
大通りの裏は草原
 ユナイテッド航空でシアトルの飛行場に着き、難しいターミナル内の地下鉄の乗り継ぎも間違いなく終わり、ようやく、次の空港カウンターの前に出た。その時、目的地まで行けるのか急に不安になった。今まで見たことも聞いたこともない小さな航空会社で、その上、出発間近だというのに乗客は四、五名である。
 私の乗った小さな飛行機はまるでトンボのように風に流され、大きく揺れ、二つの翼の音はそのたびに大きくなったり小さくなったりで、眼下の景色も見すえることができないほどだった。
 途中ポートランドに寄って二時間あまりで、目的地メッドフォードに着いた。私の目指す村、アッシュランドは、そこからまた車で小一時間の所にある。トランクを引きずり夕クシー乗り場まで行ってみたが、一台のタクシーも待っていない。そこは本当に片田舎であった。
 一足先に出発した妻と、彼女が約三〇年ほど前の留学時代にお世話になったカスタ夫人に会ったのは、夏の日の終わり、現地の午後九時頃で、私が成田空港を出発してから二四時間後であった。
 カスタ夫人との再会は二三年ぶりで、久しぶりに夫婦連れ立って訪れる米国であったので、ぜひ会いたいといい出したのは妻の方であった。われわれの日程とカスタ夫人の日程が合うのがこの数日間ということで、われわれはこの見知らぬアッシュランドという村を訪ねることになったわけである。
 二、三日前にヨーロッパ旅行から帰った夫人は、彼女の妹と、その友人夫婦と一緒にこの片田舎で行われているシェークスピア劇を見に来ていた。
 カスタ夫人は子育てが終わってから、五〇歳にして図書館学を学んで大学院を卒業し、シカゴの図書館で定年まで働き、高校の校長を長く務めた御主人を亡くされてからは、農場を売って、現在アリゾナに小さな農園を持ち、快活に老後を楽しんでいる八二歳の婦人である。その日は私も長旅の疲れで、また老人たちは早目の就床と、一同挨拶だけで、すべては翌日からということになった。
 村おこしの中心、シェークスピア劇を行う劇場は、村の中心部にある公園の脇にあった。黄色い長い旗が何本もつるされ、劇場のまわりの雰囲気を清潔に品よくつくり出していた。大通りから建物一つおいて建っているこの劇場は、車の音も聞こえない静かな場所にあった。
 この細長い村のメインの通りへは、高速道路から地名入りの看板で誘導され、村全体は、この大通りに面して建物が建ち並び、その裏側は草原になっている。アメリカならどこにでも見られる平凡すぎるほど平凡な小さな村である。人口は現在増加してやっと一万四〇〇〇人程度、木材が主な産業で、友人から聞いた話では、通称「カウ・タウン」と呼ばれるまったくの田舎である。
 しかし、「車のアクセスは大都市ポートランドから四時間ほど、サンフランシスコやサクラメントからは七、八時間。このアクセスの良さが。このような辺地でシェークスピア劇を長く続けられる原因の一つである」との老夫婦の説明であった。七、八時間かけて見にくるほどの魅力のある演劇が行われているのである。
 これは、この村おこしの商圏がいかに大きいかを示している。私にとっては、カスタ夫人に誘われなければ、たぶん知る機会がなかったであろうこのシェークスピア劇場であったが、アメリカの友人に聞いたところ、その知名度は相当なもののようである。
 
年間二八万人の客がやってくる
 その発端は今から七〇年も前にさかのぽる。それは村芝居的に始まり、村人に加えて学生、その地域の有志が集まって演じられ、それを一九三〇年代からはチャタクワーの婦人会(チャタクワーとはアメリカ全土にある団体のことで特に夏期休暇の子供たちの面倒を見る会)がスポンサーになり、夏期にI〇日間のシェークスピア祭に仕立て、屋外劇場もつくることになった。そして、一九六一年以降この地域にある南オレゴン大学演劇部の教授、アウガス・バウマー教授が参加することによって、この芝居が単なる村芝居でなくなったのである。
 それは、シェークスピア劇そのものを原形に戻すことを決めたことにある。聞くところによれば、それまでに演じられていたシェークスピア劇の台本は一八世紀の政治的および風俗的な圧力によって変形された台本であった。そこで教授は、原形の台本で行うオリジナルに戻すことを行ったのである。観客の前に、シェークスピア劇の本物を再び鑑賞できるものとして戻したのである。ここにおいて、初めて基金が拡大され、規模も内容も充実し、演劇の期間も長くなったのである。
 現在では、毎日一二〇〇人の観客を呼ぶ一大興行に成長し、村の大きな財産であるばかりか、この村の大いなる力となっているのである。
 また、今ではこのシェークスピア劇は、大スターへの「登竜門」にもなっていて、出演できることは大変な名誉ともなっているのである。
 私が最初にこの村を訪れた時には、劇の行われる期間は夏の三ヵ月程度だろうと考えていたが、パンフレットを見ると、昨年度は二月二〇日から一〇月三一日までの八ヵ月以上の期間で、観客の動員数は延べ二八万人以上である。これは本当に、一つの産業として成り立っていることを示している。
 日本の村おこしは三、四日のイベントのみで、村に根づいた産業になっていない。このシェークスピア劇の期間は、それと比べ大変驚かされたのである。
 しかもこの演劇祭が、すでに説明したアメリカの片田舎で行われているのである。このへんぴすぎる田舎へ、年間二八万人以上の人を呼び寄せる魅力ある興行にシェークスピア劇場を仕立て上げた村おこしに、私は感服するのである。その発端が、夏休みを楽しむために手助けをしたチャタクワーの婦人会の小さな遊び心が始まりで、それを本物にした教授の執念に驚かされるのである。
 
観劇が産業になった
 アッシュランドの人口は、友人から一〇年前には九〇〇〇人だったと聞いたが、調べてみると現在は約一万四〇〇〇人になっている。ここ一〇年で五〇〇〇人ほどふえた計算になる。興行が村に人を呼んでいるのである。南オレゴン大学の学生数を引けば約一万人で、家族数を四人としても二五〇〇世帯である。この数字はすでに拡大した後のことであるから、当時の村そのものは歩けばわかるほどの小さいものであった。現在の村も、老夫婦の車で村全体を眺められる所に行ってみたが、家並みはわずかで、あとは草原と森の続く丘であった。しかしその小さな家並みでも、落ち着いた文化の高さを感じさせる所である。
 実績として、この村において、年間二八万人の観客数があるということは、観劇料を一人一五ドル五〇セントとして単純に掛けると四三四万ドルになり。円が一二五円として五億四二五〇万円が村に入る計算になる。
 毎日一二〇〇人もの観劇客の宿泊施設は、町の中心に小さな普通のホテルが二軒ある。あとは車で来る客が多いということで、七軒のモーテルがある。その他にキャンピングカーの停泊できる場所もあり、それは高速道路に沿ってこの近郊に点在している。
 この観客二人の宿泊費は平均五〇ドル、食事が二人で五〇ドルとしても、一日に一二〇〇人の半分の六〇〇カップルで、一日六万ドル、年間興行日を二四〇日として一四四〇万ドル(約一八億円)がこの地域のサービス産業に落ちる計算になる。
 そしてまたアッシュランドを起点に行う小旅行先の村々は、まさにこのシェークスピア劇の恩恵に浴している。
 アッシュランドのモーテルは、フランチャイズの一流店も一軒あるが、ほとんどは客室二〇室程度の家族的な規模である。
 我々が泊ったモーテルは村はずれにあり、プールつきで一泊二人四五ドルの安さであった。部屋は少し大きめ風呂はなくシャワーである。また、部屋には大きな冷蔵庫と小さな台所がついていて、朝食くらいなら自分たちで作れるようになっていた。我々の友人たちは、朝は自分たちで料理し、昼と夜は外で食べるという具合で、四泊五日の彼らのこのシェークスピア観劇旅行のパック代は、一人二〇〇ドルという安さであった。
 
一〇〇〇席の屋外劇場
 偶然に、我々夫婦は老人たちと、アッシュランド三泊四日の旅を楽しむことになった。以下はその老人たちとの行動である。
 一日目、朝食はモーテルの部屋で軽くとり、十一時頃に劇場のある公園にピクニックに行った。小さな山と山のくぼみに小川が流れていて、そこが公園の中心部になっている。我々は車を駐車場に置き、沢をいくらか登り、大木の下で食事をとった。水のせせらぎが聞こえる気持ちのよい場所であった。
 缶ビールで乾杯した後は、彼らの心づくしのお手製サンドイッチとチップス、老人たちは軽い食事である。しかし話題の豊富である老人たちの説明によると、このリシア公園は、サンフランシスコのゴールデンゲイトパークと同じデザイナー、ジョッーマッカーレッの設計であるという。植林や緑化の困難な砂丘を見事な公園につくりあげた人である。この自信に満ちた現在の村おこしの気概は、この地に昔からあったことになる。
 観劇の前のディナーは少々早目に、村のゴルフコースのクラブハウスでとった。そこは団体も受けつけるらしく、我々はバスで来た連中と一緒になって、賑やかな食事となった。朝、昼の軽食の後は、我々夫婦のこの地への歓迎もあってフルコースであった。
 その晩、我々はかろうじて立見席のチケットが買えた。演目は『マクベス』であった。八時開演のところ我々は、一時間前に劇場前の広場に着いた。そこでは、何人かの劇団員がヨーロッパの中世の民族衣装を着て「エリザペーゼン・エンターテインメント」というストリート・パフォーマンスを行っていた。この「エリザベーゼン」は、シェークスピア劇だけに見られるストリート・パフォーマンスで、ドラムとトランペットに合わせて踊ったり、歌ったり、時には喜劇を交えて場の雰囲気を盛り上げるものである。
 これから劇場内で見ようとする劇の雰囲気を前もって観客の中に高め、劇場的気分をいやが上にも高めさせて行く仕掛けである。その音楽と役者のしぐさ、役者の声、そして言葉が、観る人をシェークスピアの時代へ、タイムトンネルさせるのである。
 シェークスピア劇は、客席数約一〇〇〇席の屋外劇場で演じられる。それに隣接し、最近初代の演出家バウマー教授を記念してバウマー劇場が建てられた。そこでは、アメリカの現代劇が演じられ、客席数は二〇〇席である。
 シェークスピア劇は満席で、我々のような急な客には立見しかない。もちろんダフ屋などいない。
 シェークスピア劇場の外まわりは石造りでツタが生い茂り、なかなか重量感があった。舞台はイギリス、スタットフォード・アポンドエーボン、すなわちシェークスピア誕生の地にある屋外劇場のレプリカである。イギリスのバーン建築様式でシェークスピアの演目にはこれしかないという感がある。階段、窓、そして扉の限られた使用が演出の確かさで見事に変化していくのである。
 大方の内容は知っていたが、あの難解な英語は、私には無理であった。時差も手伝い疲れがドッときて、劇の途中で我々は宿に戻った。

観劇にプラスされる村の楽しみ
 翌日は午前一〇時頃から隣村までドライブを兼ねた小旅行とシャレた。老人の運転でスピードはないが、そのため風景を楽しめる。リンゴ畑が草原の中や道路沿いのあちらこちらにあり、洋梨の大きな木が畑の隅に何本か植わっていたり、黄色くペイントされた農家のたたずまいが見えたり、大変美しい田園風景であった。
 四〇分程度でジャクソンビルという村に着いた。村の中心部には骨董品や民芸品を並べた店などが何軒かあり、アッシュランドから来た客でけっこう賑やかであった。
 小さなオープン・バスがこの小さな村の名所を巡回しているらしく、時々歩道の人と大声で話しながら、元気のよい家族を乗せ、走っていた。どうもこの村も、アッシュランドのおこぼれ客で人集めができた村のようであった。この村にはジャズフェスティバルのポスターが貼ってあった。夏の短い期間ではあるが、一流のジャズミュージシャンを呼び、なかなか華やかな祭典が行われるようである。シェークスピアに対して、この村ではジャズである。古い小さな銀行は、今は昔をしのぶ博物館になっているし、小さな家のリビングルームはアンティークショップになっていて、村全体が客のサービスに努めているように見えた。我々は小さなレストランに入り、陽のあたる裏庭でワインを飲みながら、長い昼食をとった。
 帰りには、アッシュランドの村先にある野菜市場に寄り、老人たちは市価よりかなり安く、新鮮な野菜を買った。その品物の豊富さは驚くほどで、三〇〇坪ぐらいの市場の隅々まで、野菜が山と積まれていた。そして大都市では買うことのできない、もぎたての野いちごやラズベリーなどがあり、パイにでもしたらさぞおいしいだろうと思う果物も山積みであった。
 老人たちは小一時間かけて、買い物をした。車の後ろのトランクは、野菜でいっぱいである。これも大切な一つのシェークスピア劇を支える産業である。
 ホテルに着いてからは、元気のよい老人たちに誘われてプール遊びである。妻も久しぶりに水着になって泳いだ。水がきれいであった。村から派遣された検査官によって毎日温度が測られたり、水質が管理されているようで、我々がいる時にも、フラスコのようなものをプールに入れて検査していた。ここまでサービスされていれば、旅行中の運動も楽しめるのである。
 その夜、彼らは「真夏の夜の夢」の観劇。われわれは屋内劇場での観劇となった。われわれの見た劇は現代劇で、サムーシェフアード作「カース・オブ・スタービングクラス」であった。落ちに落ちたある家族の崩壊劇である。後味の悪い劇であった。素裸で歩く息子の身体も、骨ばかりが目立つ痩せた姿で、家族が餓死寸前になる物語である。嘔き気を感ずるような劇であった。観客は、この家族と自分とを比較して、自分の幸福の価値の高さを確認するのだろうか。われわれはそう解釈し、帰路についた。
 
材木の村を文化の町に変える
 パンフレットによると、シェークスピア劇場のほかに、いろいろな遊びが用意されていて、老若男女が何日か滞在していても退屈しないように仕立てられている。まず、ホテルのプール、そして前にふれたゴルフ場、そしてちょっと足をのばせば、という所がたくさんある。老人たちに連れられて行った隣村のジャクソンビルもその一つで、一〇〇年あまりの村の歴史も博物館的に仕立て、その時代的繁栄を強調し、不思議と見学するわれわれを納得させる。新鮮な野菜もこの地の呼び物である。
 また、ポストカードには、ロウ川のゴムボートの川下りもアトラクションとして紹介されていた。これは若い人たちを含む家族に人気があるようであった。また、この川は奥がかなり深く、何日もかけて川下りをするらしく、そのワイルド生活が冐険野郎にはこたえられない醍醐味のようである。
 シェークスピア劇を始めて約七〇年、とくに過去三〇年、この地域が観光のスポットになってきたことは事実のようである。本物が次の本物をつくっていくことをわれわれに教えてくれる。われわれがモーテルのプールサイドで朝食をとっている時に会った人は、サンフランシスコの少し北に住んでいて、そこは夏はあまり日光の当たらない所なので、内陸部のアッシュランドに来て日光浴を楽しむのだといっていた。今ではもはや、シェークスピア劇だけが、この地のアトラクションではないようである。
 このような村おこしをアメリカで見るつけ、たびたび私が感心するのは、地域的に、もしくは都市計画的に人が集まる場所を点的、すなわちスポット的につくり上げていくということである。日本では、一つ成功すると、隣接して次のものができてしまう、またつくってしまうのである。
 したがって、客の目的が不明確になり、性格が不明瞭になる、そしてどこへ行っても同じになってしまう。よく、日本の町は線的であるといわれる理山の一つにこれがある。
 アメリカのようなスポット的な展開は制御しなければできない。したがって村に一つの委員会が設立され、全体を統治する形で企画全体が進行する。
 スポット的展開は絶対に共食いしない。そればかりか、一度存在すると、道理に沿ったコンペティター(競合者)をつくり、その競い合う中に、その内容の充実が促される。
 客側にとっても、不明確なものにはついていけない。そうなれば村おこしの原点は、やはりスポット的な展開において進めなくてはならないということになる。アッシュランドでは、胸が躍動し、純粋に感動する演劇だけだから、ラスベガスにない品位と客層を保つことができるのである。
 われわれが帰る日にシェークスピア劇場の広場をのぞいたら、日本の女子学生の団体がストリート・パフォーマンスを見ながらワイワイ話していた。このオレゴン州の片田舎の村おこしの商圏が、今では日本まで届いているということらしい。
 その強さは何であるかと考えた時、たとえばメールオーダーによってシェークスピア劇場の会員券やギフト券などで観客集めをする努力は当然であるが、本物のシェークスピア劇に加え、もう一つの現代劇でも競い合う十一のプロダクションが内容の充実にしのぎをけずっており、催し物をつねに新鮮に保っていることがあげられる。
 もっと単純に、それは種からいつくしんで育てた植物にも似て、長い年月をかけてパフォーマンスーアート(演劇)とは何かという命題を考え続けてきたからであろう。ともかく、シェークスピア劇場は材木の村を文化を産業とする町に、文化を町の軸に変えた村づくりだったのである。




 
 
 
 
 
 

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