見出し画像

鮫が追撃してくる

 車は用賀のインターチェンジで降りる。高速を降りると瀬田の大きな交差点に出るが、青信号ならばノンストップで右折して環状八号通りに入っていくことができるが、この夜もまた赤信号で一時停車だった。
 そのとき、今朝、局長室の壁面に、警視庁の管理官が暗殺者たちの映像を映しだしたときよぎってきたシーンが、ふたたびもっとリアルによぎってきた。窓が叩かれ、ヘルメットをかぶった若い男が、彼に向って拳銃を打ち込むしぐさをしたシーンが。
 洋治は手にしていたファイルを閉じて、なにやらその男が車の窓を叩くのではないかとちょっと身構えていたが、やがて車は発進した。警察車両が彼の車を前後に挟んで護衛している。これでは暗殺者は近づくことはできない。

 帰宅すると、いつもの通りフィットネスバイクにまたがって、テレビのニュースショーを眺めながらペタルを漕ぐ。彼の身辺に確実に暗殺者たちが確実にしのびよっている。彼は全身でその気配を感じている。その気配を振り払うように激しくペタルを漕いだ。
 寝室に入ると、ベッドの脇においてあるロッキングチェアにすわり、サイドテーブルに置いてある本を手にする。このところ彼が手にするのはメルビルの「白鯨」だった。分厚い原書をぱらぱらとページを繰ると、その長大なストーリーもあと十数ページで閉じられるあたりのページを開き、その英文に目を這わせた。エイハブはモビィデックと遭遇する、その最後の戦いに突入していく場面である。

In due time the boats were lowered; but as standing in his shallop’s stern, Ahab just hovered upon the point of the descent, he waved to the mate,--who held of the tackle-ropes on deck—and bade him pause.
“Starbuck!”
“Sir?”
“For the third time my soul’s sail from their ports, and afterwards are missing, Starbuck!”
“Aye, sir, thou wilt have it so.”
“Some ships sail from their ports, and ever afterwards are missing, Starbuck!”
“Truth, sir; saddest truth.”
“Some men die at ebb tide; --some at low water; some at the full of the flood;-- and I feel now like a billow that’s all one crested comb, Starbuck. I am old;--shake hands with me, man.”

 やがてボートかおろされることになった。しかし自分のボートの舟尾に立っていたエイハブはボートがおろされようとする間際になって、ふとためらいをおぼえたものか、甲板で滑車のロープの一本をにぎっていた航海士にむかって腕をふり──おろすのをまつように合図した。
「スターバック!」
「はい、船長」
「これで三度、わが魂の船が旅立つことになった、スターバックよ」
「そうです、船長、あなたがそうお望みになったのです」
「母港を出て、二度とふたたびもどってこない船もあるのだがな、スターバックよ!」
「そうです。このうえなく悲しい事実ですが」
「人間には、潮の引きはじめに死ぬ者もいれば、潮が底をついたときに死ぬ者もいるし、反対に、満潮のさかりに死ぬ者もいる──わしはいま、まさに崩れなんとする波頭みたいな気がするのだ、スターバックよ! わしは年をとった──わしと握手をしてくれ」(八木敏雄訳)


Their hands met; their eyes fastened; Starbuck’s tears the glue.
“Oh, my captain, my captain! –noble heart—go not—go out! –see, it’s a brave man that weeps; how great the agony of the persuasion then!”
“Lower away!—cried Ahab, tossing the mate’s arm from him. “Stand by the crew!”
In an instant the boat was pulling round close under the stern.
“The sharks! The sharks!” cried a voice from the low cabin-window there; “O master, my master, come back!”
But Ahab heard nothing; for his own voice was high-lifted then; and the boat leaped on.
Yet the voice spake true; for scarce had he pushed from the ship, when numbers of sharks, seemingly rising from out the dark waters beneath the hull, maliciously snapped at the blades of the oars; every time they dipped in the water; and in this way accompanied the boat with their bites.

 


二人の手と手が重なった。二人に目と目が見つめ合う。スターバックの目に涙があふれ出てくる。その涙が、二人の視線を固定する強い膠となった。
「船長、おお、船長、我が船長よ! 気高き魂よ! 思い止まるのです。行ってはなりませぬ。勇敢なる男が、あなたの前で男泣きに泣いて諌めているのです。こうして泣いて引き止めることで、いかに男が自分自身を苛んでいるか、それが分からぬというのですか!」
「ボートを下ろせ!」エイハブはスターバックの手を振り払った。「さあ、漕ぎ出すのだ!」ボートは、一瞬にして本船の船尾の真下をくぐり抜けて行く。
「鮫! 鮫ダ! 鮫ダ!」船尾の真下に位置する船長室の窓から声がする。「鮫デスヨ! オイラノ船長サン、オイラノゴ主人サマ、イカナイデヨ!」
しかし、エイハブの耳にはその声は届かなかった。すでにかれは自身が高らかに雄叫びを上げていたからである。すでにかれのボートが飛ぶように疾駆していたからである。 
だが、その声が語るところは真実だった。エイハブが本船から離れるが早いか、船底真下の闇にでもたむろしていたのであろう、無数の鮫が泳ぎ出して跡を追い始めたのだ。オールを漕ぐたびに、オールの先にうるさく噛りついてくる。そしてオールの先端に牙を剥きながら、どこまでもまとわりついてくる。(千石英世訳)

 
 そうだ、鮫が追いかけてくる。おびただしばかりの鮫が。いまおれを食いちぎらんと牙を剥きだしにして襲撃してくる。いってみればモビィデックは学習指導要綱の改革ということになる。エイハブはついにモビィデックを追い詰めた。しかしエイハブの放った銛は、モビィデックの心臓に届かず海中に引きずり込まれていく。おれもまた最後の一撃を放つ前に、海の藻屑となって消えていくことになるのか。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?