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手ごわい稲の大敵  帆足孝治

 
 梅雨が過ぎて田植えが終るころになると、水を満々と湛えたあたりの田圃は、周囲の山々を水面に怏し、高い所から見ると、まるで玖珠盆地全体が大きな水溜まりになったように見えた。道路沿いの家並みがちょうど水辺に浮かんだ島のようで、それはそれは美しい景色になった。まさに豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国の美しさである。
 
 稲を育てる百姓にとっては、これから夏になって水抜きをするまでは全く油断することのできない期間である。絶えず田圃の水の張り具合を監視し、田の草取りをしながら、稲に混じって伸びてくる稗取りをしなければならない。田圃の水取りは百姓たちにとっては生命線である。水の権利をめぐってイザコザが起こることもしばしばだった。夜寝る前に、水口の石を自分の田圃に十分水が入るように組み直しておいたのが、翌朝行ってみるとすっかり様子が変わって自分の田圃は干し上がりかかっており、水は隣りの田圃にばかり滔々と流れ込んでいる、といったようなことはよくあった。
 
 一度、うちのおじいちゃんも近所のおじいさんと田圃の水のことで激しく口論したことがあり、口論の揚げ句に水を掛け合ったとかで頭からずぶ濡れになって帰ってきたことがあった。おばあちゃんは、「たかが水くらいのことで、そんな子供のような喧嘩をしなくてもいいのに!」といって笑ったが、おじいちゃんはその近所のおじいさんの汚いやり方がよほど腹に据え兼ねたと見え、悔しさにいつまでも興奮がおさまらないようだった。
 ずっと昔から、この山間の田舎でも水は百姓にとっては大事な命線だったはずだから、その水をめぐっていろいろな争いごとがあったにちがいない。
 
 稲の苗に混じっているヒエ(稗)は、植えた時は稲と同じように見えて区別がつかないが、田植えから十日もたつと稲よりもグンと背丈が伸びて急に目立つようになる。放っておくと田圃の養分をとってしまうので、稲を丈夫に育てるためには面倒がらずに丁寧に抜かなければならない。この時期に畔道を歩くと、あちらの田圃でもこちらの田圃でも、田の草取りの機械を押すカラカラという音が聞こえ、あちこちに抜いて捨てられた稗の苗が横たわっていたものである。
 
 こうも田圃に稗が多く生えるのは、昔まだ日本に米が普及する以前、皆んながまだ稗や粟を主食にしていた頃に植えていた稗の名残りだろうか。それでなければ、毎年毎年抜き取って捨てている稗がこんなに執念深く発生する道理がない。
 コイが水草を食べるというので、いつのころからか田に稚鯉を放つことが流行って、浅い田圃の中を真鯉や緋鯉が泳いでいるのがよく見られた。
 
 稲の大敵はイナゴ、イモチ病、ニカメイチュウといろいろあるが、子供たちの手が一番役立つのはイモチ病にかかった稲の抜き取りとニカメイチュウの駆除である。夏がきて、稲が育つ時期になるとニカメイチュウが発生するが、この小さな蛾は目立たないため駆除が厄介なわりに、稲の髓を吸って育つので、これに取り付かれた稲は十分育ち切れずに途中で枯れてしまったり、稲穂が実らなかったりする。百姓にとってはなかなか手強い稲の大敵である。
 
 農協かなにかの協力要請でもあったのかどうか知らないが、戦後は私たちの学校でも積極的にその駆除を奨励していた。小さな瓶と折り畳みの釣り竿くらいの長さの竹を手に水田に入って、その竹竿で青々と育った苗の頭を撫でていくのである。さらさらと苗をなでていくと、緑の絨毯の中にチラっと小さな茶色い蛾が見えることがある。よほど気をつけていないと見逃してしまうほどだが、苗が竹竿にまげられた一瞬だけそれが目にとまるのである。
 
 そのチラを記憶しておいて、ザブザブと早苗の中に分け入って、見かけた苗のあたりをもう一度丁寧に調べると、苗の茎にしっかりしがみついている蛾を見出だす。これがニカメイチュウである。ドロンコになってヒルに吸い付かれたりしながらも、子供たちは先生に教えられた通り、競ってこれを採集し学校へ持ち寄った。学校では、その蛾を数えて沢山採った生徒を表彰するようなこともしたから、わたしも学校の帰り道などに遊び半分で熱心に駆除して、瓶の底三分の一くらい蛾の死骸が溜まったが、それを学校に持って行っても先生はただ褒めてくれるだけで褒美も何もくれなかった。

 

髪染め薬「るり羽」


  初夏になると、家の裏にシュロの木から毎年、黄色いサンゴのような形の鮮やかな芽が出る。焦げ茶色のシュロの毛が生えている中から伸びる鮮やかな黄色い芽は、何にも役に立たないが、あまりに美しいので私たちはよくそれを切り取って遊んだ。あの頃の子供は大抵、小刀を持っていたから、「肥後の守」で芽の根元をサクッと切り取ると、パラパラと小さな粒が散らばった。切り囗はまたたく間に渋い茶色に変わっていくので、また新しく切り囗を入れて、そのすっぱり切れる感触を楽しむのである。このシュロの芽の軸で私たちはよくハンコをつくって遊んだ。せっかくの美しい芽を切り取ってしまうものだから、おばあちゃんはそんな私を見つけると「また、要らないことをして!」とよく怒った。
 
 おばあちゃんは、私が小学校に上がった頃から髪にちらほら白いものが目立つようになり、何時の頃からか髪を黒く染めるようになった。
 一度、私は十文字の大塚薬局に「るり羽」という薬を買いに行かされたことがある。おばあちゃんは私にそれが染め薬であることを言わなかったので、私はそれが何なのか知らないまま、お使いに出た。この難しい名前を忘れないために、私は家を出る時から口の中で「ルリ、ルリ、ルリ」と繰り返していた。上ノ市を抜けてお伊勢様の石段の下を通り過ぎるともう平の部落である。お伊勢様の崖の下には米軍から払い下げられた大きな省営のトラックが二台止まっている。ボンネットの前のバンパーの裏に滑車のような車がついていて、ワイヤがグルグルと巻いてある。
 
 このトラックは日本製のものと違って馬力が強いので、ぬかるみに足をとられた自動車などを引き上げるときにあのワイヤを使うのだろう。そばの高倉鍛冶屋には同級生の女の子がいたっけ、などと考えているうちに、地方事務所の上を通って稲葉の煙草屋から荒木の酒屋の前まで来る。右側は農学校である。
 
 この辺りまで来て、私は{おや?}と考えた。(ろり羽)という名前がそろそろ怪しくなって来たのである。「はて、ルリ」だったっけなア、「ルロリ」ではなかったかなア、あれ? 本当に忘れてしまったぞ」と賢明に思い出そうとするのだが、忘れてしまったものはもうどうやっても出てこない。「やっぱりルロリだったかな、ルロリ、ルロリ、そうだルロリで間違いなさそうだ!」と私はそう決めつけて急に走りだした。
 
 農学校を過ぎ、河野医院の前を通って光林寺入り口をあっと言う間に通り過ぎ、阿部理髪店をチラッと覗いてから梅野屋の前を通って、息を切らせながら十文字の大塚薬局に駆け込むなり、私はおそるおそる小さな声で「ルロリをください」と言った。見覚えのある優しいおじさんが「え、ルロリ?」と聞き返す。私は「やっぱり間違えたようだな」と感じながらも、「はい、ルロリください」ともう一度言った。おじさんは二コニコしながら、
「おばあちゃんに言われたのならルロリじゃなくてルリ羽じゃろうが?」と言った。私は悪びれず、「そう、ルリ羽をください」と言い直す。こうして、無事「るり羽」を買って帰ることができたのだった。



 
 

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