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適塾  緒方洪庵 2  駒敏郎

さそとしはき

かつて塾は日本と日本人の知性をつくりだす精神的な基盤だった。はるか遠くに消え去っていく我らの国をつくった塾を、改めて追跡してみよう。ここから新しい地平が開かれるかもしれない。

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 適塾  緒方洪庵  2   駒敏郎

 塾生の多かったわりに、どういうわけか塾の日常生活を書きのこした記録は少ない。長与専斎の「松香私志」と福沢諭吉の「福翁自伝」があるのみだが、その「松香私志」をみると、「塾中畳一枚を一席とし其内に机夜具其他の諸道具を置き此に起臥することにてすこぶる窮屈なり。なかんずく或は往来筋となり又壁に面したる席に居れば、夜間人に踏み起され、昼間燭を点して読書するなどの困難あり」と書いている。

 食事のときがまたすごいことになる。「食事のときにはとてもすわって食うなんということはできた話でない。足も踏み立てられぬ板敷だから、皆上ぞうりをはいて立って食う。一度はめいめいに分けてやったこともあるけれども、そうは続かぬ。おはちがそこに出してあるから、めいめいに茶わんに盛って百鬼立食」(福翁自伝)というありさまだっだ。

 塾生の大部屋は、天井なしで屋根軣がむき出しだから、かなり広く感じられるが、二十八畳は二十八畳だ。そのうえ、こうした多人数の共同生活の場として設計された建物ではなくて、北浜にあったふつうの商家を買い取ったものだから、窓がきわめて狭いいわゆるむしこ造りになっている。本を読むのに昼間から灯がいるのはもちろんのこと、風とおしがはなはだ悪いわけだ。

 「大坂はあったかい所だから冬は難渋なことはないが、夏は真実のはだか、ふんどしもじゅばんもなにもないまっぱだか。もちろん飯を食うときと会読をするときにはおのずから遠慮するからなにか一枚ひょいとひっかける。中にも絽の羽織をまっぱだかの上に着てる者が多い」(福翁自伝)。すっぱだかの青年たちが数十人、目ばかりギョロギョロ光らせて、わけのわからぬオランダ語の単語を呟いている光景は、何のことはない精神病院の一室みたいなものだ。伝馬町の牢屋のほうが、よほどめぐまれていたかもしれない。

 福沢が酒をひっかけて寝ていると、階下でしきりに女の声で福沢を呼ぶ。「うるさい下女だ、いまごろなんの用があるかと思うけれども呼べば起きねばならぬ。それからまっぱだかで飛び起きて、はしご段を飛びおりて「なんの用だ」とふんばたかったところが、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。どうにもこうにも逃げようにも逃げられず、まっぱだかですわっておじぎもできず、進退窮して実に身の置きどころがない」(福翁自伝)というような失敗もあったらしい。

 窓ぎわと部屋のまんなかとでは、あんまり差がありすぎるというので、毎月末に一回、席換えをやった。この換えかたがいかにも適塾らしい。「輪講の席順に従ひ上位の者より好み好みに席を取ることゆえ、一点にても勝を占めたる者は次の人を追退けて其席を占むるを得るなり」(松香私志)。あくまで実力優先。風とおしのよい場所が欲しかったら、勉強しろというわけである。

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 先日訪れたとき、私は窓ぎわの垂木の一本におもしろい落書を見た。ところどころうすれ消えているのだが。年月と姓と「領之」という文字が繰りかえしあらわれる。「……文久元年‥‥領之、同二年二月西氏領之、同三月……」この垂木の下の場所を獲得した塾生が、やっとここへすわることができたぞ、という思いをこめて筆を走らせたのだろう。

 洪庵は成文化した塾則といったものはつくらなかったらしいが、その温厚な人柄のおのずから規制するなにものかが、塾全体を温かく包んでいた。塾生のほうでもまた、時にはハメをはずすことはあったが、とめどもなく逸脱することはなかった。どんな場合も、蘭学修業の妨げになる種類のことは、本人も自戒したし、まわりの者も黙ってはいなかった。他人に迷惑をかけることも同様である。そして、蘭学修業という至高の目的達成を大前提として、不文律のようなものが塾生のあいだにできていた。適塾の特色の一つだった輪講の制度なども、そのようにして生まれたものである。

 適塾の方針は、徹底した原書主義で、オランダ語の文法からはじめて、まず基礎をたたきこんでいる。系統だった教授法がとられていたわけだ。まず初めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者にどうして教えるかというと、そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。一をガランマチカといい、一をセインタキスという。初学の者にはまずそのガランマチカを教え、素読を授けるかたわらに講釈をもして聞かせる。これを一冊読み終わると。セインタキスをまたそのとおりにして教える。どうやらこうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読(輪講)をさせる。(福翁自伝)

 輪講は学力に応じて八クラスに分けられていて、各クラスごとに毎月六回行なわれた。十人から十五人ぐらいが一組となり、塾頭や塾監、一級生などが会頭をつとめる。まずくじを引いて席次を定め、順番に原書の数行ずつを和訳してゆく。完全に訳せた者には、会頭が△印をつける。あいまいな点があると、次席の者が質問をして、討論がはじまる。この討論に勝つと○印。負けると●印がつく。こうして一か月間の成績を総合して、優秀なものを首席とし、首席を三か月つづけると一級上のクラスへ進める、というしくみになっている。

 討論で言い負かされることは、青年にとっては最大の屈辱であるうえに、この輪講の成績が、次の一か月間の生活環境にひびくわけだから、みな必死になって勉強をした。「学問勉強ということになっては、当時、世の中に緒方塾生の右に出る者はない」と。自負できたゆえんである。

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 ところで、輪読に使うテキストだが、「緒方の塾の蔵書というものは物理書と医書とこの二種類のほかになにもない。ソレモ取り集めてわずか十部に足らず、もとよりオランダから舶来の原書であるが、一種類ただ一部に限ってあるから、文典以上の生徒になればどうしてもその原書を写さなくてはならぬ」(福翁自伝)
 それぞれ交代で原書の写本をやったのだ。インクはないから墨を使い、薬種屋から手に入れた鳥の羽根を鷲ペンのかわりにして、日本紙に写していったのである。

 このおかげで塾生たちは、洋書の写本に習熟した。一人が原書を読みあげると、それを聞きながら写してゆくということもやれるほどになった。この特技が、塾生たちのアルバイトとしてなかなか馬鹿にならない収入をもたらした。当時はまだ洋書の現物を手もとにおくなどという贅沢は、大名か富商か、よほどの財力のある人でなければとうてい望めないことだった。たいていは写本で間にあわせていたわけである。適塾の塾生たちは、それを、半紙一枚十行二十字詰で何文というふうに決めて請負った。

 福沢のいたころで、白米一石が三分二朱ぐらいだったらしく、塾生たちの一か月の生活費は一分二朱もあれば足りた。銭になおすと二貫四百文あまりで、一日百文にみたない。ちょっと精を出して、一日に十枚も写すと、塾におさめる費用が浮いてなおあまりの金が手もとにのこったのだ。大阪にくらべると、写本の値段は江戸のほうが高い。

「加賀の金沢の鈴木儀六という男は江戸から大坂に来て修業した書生であるが、この男が元来一文なしに江戸にいて、辛苦して写本でもって自分の身を立てたその上に金をたくわえた。およそ一、二年しんぼうして金を二十両ばかりこしらえて、大坂に出て来てとうとうその二十両の金で締方の塾で学問をして金沢に帰った」(福翁自伝)。この鈴木という男は、「写本で金を儲けるのは江戸のほうがよいが、蘭学の修行はどうしても大坂でなければだめだ」と、福沢に語ったそうである。事実このころになると、江戸から大阪へ学びにくる者はあっても、大阪から江戸へ学びに行く者はなかった。適塾の塾生たちは江戸へ行くとすればそれは教えに行くのだ、と思いこんでいたという。

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