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演劇による町起こし

 南ドイツにオーバーアマガウという村がある。人口五千五百人の小さな村だが、十年ごとに、五月から十月にかけて連日開催されるキリスト受難劇をみるために、全世界から何十万人もの人々がこの村を訪れる。この史劇は、すべて村人たちの手によって行われる。演出も、舞台装置も、小道具も、美術も、衣装も、照明も村人の手になるものなら、舞台にあがる俳優も、オーケストラも、コーラス隊も村人たちが演じるのである。すべて素人のつくりだす舞台だが、しかし四百年の歴史をもつこの村の演劇づくりは尋常ではない。歴史と伝統で磨かれてきたその舞台は、本物の演劇になっているからこそ、人々はまるで巡礼の旅に出るように、この小さな村に集まってくる。

 村人たちが渾身の力で演じるその劇は、たしかに見る者の魂を激しくふるわせる。それはまた村にとっても、新生と再生の時だった。人々はこの壮大な史劇を十年ごとにつくりだすことによって、過疎に苦しむこともなく、時代の変化に迷うこともなく、悠然たる村の生活を、自信をもって生きることができるのだ。

 あるいはアメリカのオレゴン州にアッシュランドという町がある。アメリカのどこにでもあるような人口九千人の人々が暮らす平凡な町だった。この町に今から八十年ほど前に、学芸会のような芝居を行なうグループが現れる。この小さな演劇活動は、次第に村人たちに広まっていって、やがて町や婦人会がスポンサーになって野外劇場が建設された。そして夏の十日間、そこでシェークスピア祭を組み立てるほどに発展していくのだ。

 毎年くりかえされるこの公演は着実に成長していき、やがてアウガス・パウマーという大学教授がこの活動に加ってくると、この小さな演劇祭はたんなる村芝居的な活動ではなくなっていった。というのもパウマー教授は、この会場で、シェークスピアの原典の台本を使って、本格的な演劇づくりをはじめたからである。それまでのシェークスピア劇は、さまざまな理由から、変形されたものだった。それを教授はすべて原典を使っての劇に仕立てて、この会場の舞台にのせたのである。この活動に大きな資金が投じられ、その祭典の内容も充実していき、現在ではなんと二月から十月まで八か月間、町の野外舞台でシェークスピア劇が演じられる。連日一千二百もの席は埋まり、一年間の観客動員数は二十八万人にものぼるという。この公演が一つの産業として成長し、減る一方だった町の人口はふえつづけ、いまでは一万四千人にもなった。

 このアメリカの片田舎の劇づくりを紹介した渡辺明次さんは、その著書(「世界の村おこし・町づくり」講談社現代新書)にこう記している。
《日本の村おこしは、三、四日のイベントのみで、村に根づいた産業になっていない。しかしこのシェークスピア劇の期間は、それと比べて大変驚かされる。しかもこの演劇祭は、アメリカの片田舎で行なわれているのである。このへんぴすぎる田舎ヘ、年間二十八万人以上の人を呼び寄る魅力ある輿行に、シェークスピア劇場を仕立て上げたのである。その発端が、夏休みを楽しむために手助けをした婦人会の小さな遊び心だったこと、そしてそれを本物にした教授の執念にも驚かされる》

 いまでは演劇というものは、プロか、あるいはセミプロといった特殊な人々の活動になってしまったが、つい百年までの日本の社会では、演劇は人々の日々の暮らしのなかに存在していた。古典的名著である清水三男著「日本中世の村落」(岩波文庫)のなかで、清水は『村人と芸能』という章を、「明治四十年、長塚節が佐渡が島に旅をしたときの紀行文に《漁村の能》というのがある」という書き出しではじめていく。

「木立ちのなかの大きな寺で、村人が能を奉納している。辺境の地にこんな催しがあること自体、大変な驚きであるが、演技者が村の桶屋や石屋や宿屋の主人であり、それぞれが品位と深みをたたえ、見物する村人たちもまた鋭い鑑賞力をもっていることに、驚異の目を見張った」という長塚の紀行文から、清水は日本の演劇の源流である田楽や猿楽が、神事と結びついて農村に誕生したという論を展開していくのだが、それ以前に横たわるは、おそらく演劇のもつ根源的な力にあるはずなのだ。

 人々の暮らしは貧しくつらい。収穫の七割から八割も召し上げられていく。働けど働けど生活は豊かにならない。旱魃が、冷害が、洪水が次々に襲いかかる。飢えに苦しみ、家族が病に倒れ、自分もまたいつ倒れるかもしれない。前途に横たわるのは不安ばかりである。そのとき人々のなかに演劇が立ち現れていくのである。くじけてはならいと、希望をもって立ち上がれと。演劇は人々の精神を屹立させていく魂の道具であり、その魂の道具によって、前方に立ち塞がる闇を切り開いていく勇気や活力を、人々を取り戻していくにちがいないのだ。


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