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市民としての反抗 2  富田彬

 1860年の11月、彼は深い雪の中で樹木の年輪を数えている時、風邪を引きこんで気管支をいためたのがもとで、とうとう、肺をおかされた。翌年の春、医師の勧めで、彼はミネソタに転地した。1861年、ちょうど南北戦争勃発の年である。しかしこの転地も、彼の病勢をとめる役には立たなかったと見え、翌る年、すなわち1862年の5月6日、それは大そうよく晴れた朝だったそうだが、ある友人の庭から運ばれた香りゆたかなヒヤシンスの花束を、力なくふかぶかと嗅いでから、何の苦痛の色もなく、静かに息をひきとった。日本流の数え方で46歳であった。

 おそらく一日一日、一時間一時間に、誠実さの全部をかけて生きたソーロウは、彼の希望していたとおり、死に臨んで、よく生きなかったことを発見するようなことはなかったであろう。彼よりは15歳も年うえのエマソンが、彼の死後十年も生きたのに比べると、46年の生涯は、短命と言えば短命だが、しかし、もし徒然草の作者が言ったように、「四十ぐらいで死ぬのが、見ぐるしくなくてよい」というのが本当だとすれば、彼こそ、祝福された死期を得たと言うべきかもしれない。まして、エマソンも言ったように、「彼は、その短い生涯において、この世の才能の限りを使いつくして」死んだとすればなおさら、そうである。

 1854年に『ウォールデン』一巻を出版してからは、彼は一冊の本も出版しなかった。雑誌社に送った原稿は、主として彼の宗教観が異端的だったため、編集者から送り返されたり、また掲載されても、部分的削除を受けたのが彼の憤激を買ったりして、ジャーナリズムのうえでは、彼はいつも不遇だった。しかし『ウォールデン』一巻に集約され圧縮されている彼の「よく生きる術」の実践の足跡は、貴重な人間記録として文学的古典として、永久につたえられる幸運をになった。時のジャーナリズムが滅びた後に、それが無視した作品を、時の備が古典として残すということは、人間精神の歴史というものの皮肉な働きであり、ありがたい不思議である。

 本の製造者としては大へん不遇だったソーロウは、晩年に、行為の人としてすばらしいエピソードを一つ残した。1857年に、彼は、急進的奴隷解放運動家のジョーン・ブラウンに始めて会ったが、1859年にブラウンが捕えられるにおよんで、ソーロウは、10月30日の日曜の晩、町の公会堂で、ブラウン弁護のため演壇に立ったのである。この晩の演説、「ジョーン・ブラウン大尉のために弁ず」は、聴衆に多大の感銘を与えたと言われているが、しかしその演説そのものの目的は果されず、政治的には、全く無益な努力に終った。

 始めからブラウンが処刑を免れようとは、誰一人として、期待するものはなかった。12月2日にソーロウは、ブラウン処刑の報を受けとった。彼は、どうしてもそれが信じられないと言っている。多分彼は、またしても世間の常識に破砕された人間真実の破片を抱き、演説会場での自分の声をうつろな頭の中でくりかえしながら「これが演説というものだ」と、自分に言って聞かせたことであろう。

 尤も、国家や政府に依存するいわゆる「政治」に対する彼の不信は、すでに、1849年の「市民としての反抗」にも、露骨に示されているし、更にさかのぼって彼が森の生活を始めた1845年に、アメリカがメキシコに対して戦端をひらいた時、戦費をまかなうために国民に課せられた人頭税の支払いを拒んで、監禁された事実に徴しても明かである。その時、刑務所に彼をたずねたエマソンが「何だってこんな所にはいっているのか?」とたずねたのに対して、「あなたはまた、何だってここにはいっていないのか?」とたずねかえしたという話は、有名である。

 またもっと前の1838年に、彼が教師生活をしていた頃には、教師が牧師の生活を保証せねばならぬなら、牧師もまた教師の生活を保証する義務があるのではないか、と言って、教会税を拒んだ。世間が習慣として安易に是認している事柄でも、彼の人間的誠実の前を素通りするわけにはいかなかった。いや、世間に通用する事柄であればあるほど、彼には通用しないのである。世間でいう善は、彼にとっては悪であった。

「人々は何の役にもたたぬのに、善人であろうとする妙な欲望をもっている。多分それが、やがては自分たちに対して善(利益)になるだろうと、漠然と考えているからなのであろう。牧師たちが教えこむ道徳なるものは、政治屋どもの政策よりも、はるかに洗練された巧妙な政策なのであって、世間は、大へんうまい具合に、彼等に支配されているのである」世間に通用している善は、彼から見ると偽善なのである。

 たとえば、博愛は、彼も言っているように、「人類がその価値を十分認めたほとんど唯一の道徳である」が、コンコードのある貧民が、ある博愛家のことをほめて、その人は、貧民に親切だと彼に話した時、その貧民というのは、あにはからんや御当人のことだったそうである。彼は、「腐敗した徳行の発する悪臭ほど鼻もちならないものはない。それは人間くさく、神くさく、腐肉くさい」と言っているが、これは古今東西の警句のうちでも、一流に属するかもしれない。

 善の名のもとに、意識的あるいは無意識的に、人間のエゴイズムがその醜悪な触手をのばしている「世の中」を、ソーロウは、もう沢山だ、と言っているのである。村の者たちは、男も女も、いろいろと自分を犠牲にして他人の幸福をはかっているそうだが、彼は「一人ぐらいは、あまり人情的ではない仕事に従事するのがいてもよくはないか」と言っている。彼は、文明生活の虚飾はもちろんいやなのだが、貧乏もまた、だらしなくて、好きになれなかったらしい。「誰もかぼちゃの上に腰かけねばならぬほど、貧乏する必要はない。それは、意気地なしというものだ」と、彼は言っている。トマス・カルウは「気取った貧乏」を語っているが、ソーロウは、それを、「ウォールデン」の中に引用している。

 強いられた節操と不自然な愚昧
 歓喜も悲哀も知らない
 そんな退屈な社会はいやだ。

 エマソンは、ソーロウのことを「彼は人に優しくするには努力がいった」と言い、また「彼は理想のきびしさに邪魔されて、健康な世間づきあいが十分にできなかったのだと思う」と言っているが、世間的には彼はたしかに偏屈者、変り者であった。だが人は、世間さまと芸術の神との双方につかえるわけにはいかない。たとい生きている以上、どこかで世間と妥協しているのは事実だとしても(なぜなら、天使さえも多少の妥協はやむをえないと言われるのだから)いつか一度は、世間か自己か、の二者択一の試練の前に立たねばならぬというのが、選ばれた独創的な人間に不可避な運命なのである。

 単なる偏屈者、変り者は、世間との外形上の差別によって、僅かに自己の存在理由を保証しようとする見え坊であり、したがって、そんな人間のはかりはいつでも世間の側にあり、世間の外にはみだしているように見えても、世間そのものが正面からその人間に対立することはないのである。その種の人物は、独創的な人間が、もし自分の仕えなければならぬ神がなかったら、とびついて行ったであろう世間的幸福を犠牲にしてはじめて得る栄冠を、犠牲なしに得ようとする虫のいい人間に過ぎないのである。

 独創的な人間は、世間との苦しい闘争を通して人間自体に結びつき、機械化された世間を、人間的に還元する。彼は人間を愛するが故に世間から遠ざかるのである。「友よ、僕は君をしたっているけど、君は信頼してはいない、君と僕とでは、信じる神が違うのだ。僕は君ではなく、君は僕ではない。今日二人は信頼しあっても明日は信頼しないのだ。……なぜわれわれは不信頼と憎悪が、愛情よりも強いのかを、僕は知らない」とソーロウは言っている。

 愛するということはむずかしい。世人は、友はいいものだと言う。しかし不信頼と憎悪が愛情よりも強いという当り前の事実の前に立ち止まらずして、愛を口にすることはできないはずだ。愛とは、一つの僧しみとの争いたからである。ソーロウはまた、「自分は友や近親のものたちが死ぬと、同情のために、われわれ自身も一部分が死ぬことを認める……沢山の友だちに亡くなられた人が、なお生きているということが、自分には不思議に思えてならない」とも言っている。彼の愛は、かりそめに口にするような愛ではなかったのである。

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