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千曲川 または明日の海へ おわりに 小宮山量平



千曲川 または明日の海  おわりに

《森のおうち》の友達に


 さて《森のおうち》に集まるみなさんは、時として、私の作品の一部を朗読して楽しんで下さったり、そのつづきはどうなるのか、いつごろ書き上がるのか、などと、絶えず心にかけてくれました。そんな心づかいが、どんなにか作者に対するエールとなったことでしょう! 今年、もうじき八十一歳の誕生日を迎える老骨の私にとって、そういうエールなしでは、到底五〇〇枚からの作品を書き上げるなんてことは不可能だったはずです。

 ところが、いま、一九九七年の桃の節句の日の明け方、ともあれ第十三章のとどめの一行を記すことができました。主人公の「ぼく」は、十七歳の最後の日、「ぼくは、明日十八歳になるんだ、と、つぶやいて見た。ぼくの中に、改めて生きる決意がよみがえったのは、その時である」と、記しております。正にその時、「ぼく」のポケットの中には、あのドストエフスキーの「死の家の記録」が納められておりました。その「記録」の最終の結びには、人間が獄から解放された日のよろこびを語る言葉、当時の「ぼく」の心に刻まれたこんな言葉が記されております。

〈そうだ、達者で! 自由、新生活、死からの復活‥‥ああ、何という栄えある時!〉
 当時の中村白葉氏の訳文をもう少しくだいて、工藤精一郎氏の新しい訳文は、その最後の言葉を、〈なんという素晴らしい瞬間であろう!〉と分かりやすくしているのです。
 この「栄えある時──素晴らしい瞬間」に、いつ、どのようにして、めぐり逢えるか。もしかすると、そんな一しゅんへの目覚めこそが、文学作品というものに課せられた本来の課題なのかも知れません。現に、かのゲーテによる不朽の名作「ファウスト」のテーマは、主人公ファウスト博士と悪魔メフィストフェレスとの間に交わされたいのちがけの賭けでした。この人生において「止まれ、お前は美しいから」と呼びかけるに価する「一瞬──切那」があるかどうか。そんな一瞬を訪ね訪ねて遍歴をつづける人と悪魔と神との緊迫した物語であります。

 幸か不幸か、昭和のはじめ、十代の少年であった私にも、そういう遍歴への誘いがありました。そのために、迷いながら、転びながら、素晴らしい一瞬を、その少年の心のままにつらぬいて、訪ねあるくことができたようです。そして八十一歳にもなってしまった老骨が、改めてそんな遍歴を少し照れながらも語らずにいられないのは、もしかすると新時代を生きる少年たちにとって、今こそより大胆な遍歴への誘いが必要となっているのではないかと思うからです。

 たとえば「ぼく」のポケットに納められていた「死の家の記録」には、こんな恐ろしい指摘がひそめられております。
〈もしも人を圧しつぶして完全にすたれものにしたかったら、もしも人を、最も凶悪な殺人犯すらその罰のためにふるえ上がって逃げ出してしまうような、この上なく恐ろしい刑罰で罰したかったら、そのためにはその労役に、完全な無益と無意味とを与えれば足りるだろう。〉
 その無益とは、無意味とは、どんなことなのでしょうか?
〈もしも彼らを強いて、例えば一つの桶から他の桶へ水をあけさせたり、またその桶から初めの桶へ戻させたり、砂を搗かせたり、土の堆を一つの場所から他の場所へと運ばせたり、またそれをもとへ戻させたりしようものなら、たぶん、その囚人や労役者たちは、数日のうちに首をくくるか、あるいは、たとい身を殺してでも、こうした恥辱や苦痛や堕落をまぬがれようとして、どんな罪でも犯すにちがいない‥‥〉

 ドストエフスキーのこのような指摘は、たんなる小説のための絵空事ではありません。考えようによっては、またその目で見れば、わが二十世紀というのは、このような「人間による人間への加害」の最も深められた世紀であったとは言えないでしょうか。この世紀には科学や文明の進むにつれて、そういう加害はますます深められ、いつしか今日の私たちはそんな加害をこうむっていること自体に気づかぬほど、科学や文明のとりこになっているのかも知れません。恐るべき無益や無意味そのものに馴れっ子になっているのでしょう。

 考えてみれば、この作品の主人公「ぼく」は、そういう時代の始まる前夜、人間の人間に対する労わりや愛が辛うじて保たれていたころに、少年の心のまま、仔鹿のように、当時の日本の心臓部に迷いこんだのでした。そして、ともすれば「暗い谷間」へとのめり込む日本の転向時代そのものを、それこそがわが「出発点」と踏まえることで、あの恐ろしい無益や無意味の押しつけを拒むことができたのでした。

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 そいう意味で主人公「ぼく」の体験は、たんに私ひとりの少年期の回想ではなく、従ってこの作品は、私の「自伝」そのものではありません。むしろ、現代の深刻な人間喪失状況への警鐘として、二十世紀のほぼ全体を呼吸することのできた老骨から、二十一世紀を生きる若い人びとへのプレゼントのつもりなのです。

 おそらくこの作品を読んで下さる人びとの多くは、いま、二十世紀末から二十一世紀の夜明けにかけての継ぎ目を生きつつあります。ところが二つの世紀の継ぎ目を求めると、意外にも、一九三〇年代まで逆のぼらなければならないのかも知れません。それほど、あの戦争へのめり込んで以来の日本の、敗戦へ、高度成長へ、バブル経済へと歩んだ年月には、二十一世紀に遺すに足るものとては余りに乏しいのです。とりわけこの作品の中によみがえる温もりゆたかな人脈をかえりみれば、あの一九三〇年代の「転向時代」において、雪の下に春を待つようにして温存されていたものにこそ、言いようもない親しさを覚えずにはいられません。

 現に、この作品中に実名で登場した人びとの誰をとってみても、「ぼく」の少年時代だけに限られた一過性の人脈ではなく、やがて私の青春時代から晩年までにわたって、片時も忘れることのできない道しるべのような人脈であり、共に昭和時代を担うことのできた「同時代人」でありました。

 例えば、渋澤敬三さんです。最近の日本資本主義という国柄が救いようもなく腐蝕を示しているとき、その原点に清流を求めるような思いで渋澤栄一以来のこの一族への評価はよみがえりつつあります。けれども私自身にとっては、敬三さんの学問愛の世界にふれつづけることで、南方熊楠や柳田国男の業績などに畏敬の念を覚えるという悦びを得ました。それにも増して、当時の旧制中学以来の学友たち、長谷川光二・市原豊太・渋澤敬三と、名を連ねるだけでも恍惚とするような一時代の日本の青春の環に接し得たしあわせこそが、私を励ましつづけているのです。

 例えばまた、あの留置場という魂の訓練場でめぐりあった「教師」たちとの交流です。千田是也さんとは、のちに「テアトロ」という演劇雑誌刊行の仲間となりました。金玲さんは後に北朝鮮=人民民主主義共和国の文部大臣に相当する地位につき、日本の出版人たちとの交流を実現することとなりました。松本賢三さんには、戦後の農地改革の現場でたっぷりと教えを受けたものです。かの井上靖先生が松本さんの名を挙げて「わが生涯で最も感銘した人物」と、沼津中学時代の駿才ぶりをたたえていたことも忘れられません。粟田賢三さんともなると知る人ぞ知る、かの岩波書店の中の硬質な知脳として、広く出版界の信頼を集めておられ、私自身も、啓発を仰ぎつづけたものです。

 けれども今、八十歳の峠を越えつつある私の毎日の生活の中に、日々必ずよみがえるのは、何と言っても、あの夜学生時代の夭折の友である大谷政雄であり、安井信一なのです。思えば彼らの青春ほど永遠の生命に輝くものはありません。私が老骨であるにもかかわらず、このような創作意欲に燃えずにいられないのは、彼らの青春の無念さに衝き動かされてのことなのでしょう。

 それにしても、こんなふうに作中の諸人物の名をかかげたのは、この作品を自伝的に裏打ちするためではありません。繰り返して言えば、一九三〇年代に生きた「同時代人」たちの織り成した縦糸と横糸の組み合わせの木綿にも似た温もりこそが、二十一世紀を受けつぐ人びとへの最上の贈りものではあるまいか、と、このごろ特に考えさせられるからです。かのハチ公にしても、また、昭和八年十二月二十一日の朝、お生まれになった皇太子明仁(幼名は継宮)親王=現天皇にしても、まぎれもなくわが温もりを形成する「同時代人」であります。共に現代日本という歴史を織り成してきた同胞なのです。この作品の冒頭にかかげたノヴァーリスの詩は、これらすべての同時代人を包んでくれるはずです。最後に、もう一度、この詩をかかげさせて下さい。

  同胞よ、地は 貧しい
  われらは 豊かな種子を
  蒔かなければ ならない

 「森のおうち」の皆さんに、そして、わが読者たちに、どうもありがとう!

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