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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ  第一章




           第1章
               
 朝から降り続いている雨は、夜になっても止む気配はなかった。冷たい雨だった。何十年ぶりの寒波が襲いかかったと新聞は伝えていた。しかしこの背後にはあたたかい春があるのだ。あと三日で暦が変わる。万物が一斉に芽を出す三月だ。西川信之の全身も徐々にこの地上に現れてきたが、さっぱり変わらないのはぼくだった。
 地下鉄のホームに降り立ち、階段を上がり地上に出ると、冷たい雨はみぞれになっていた。傘を持つ手がすぐに痛くなる。傘を持ち変え冷たくなった手をあたためながらその会館に向かった。足が重かった。人の出世や栄光を心から祝福するとはどういうことなのだろう。荒涼とした気分では妬みに似た思いしかわいてこないのだ。
 大学構内に立つ記念会館の一室に入ると、西川の論文集の上梓を祝う会はもうはじまっていた。貧乏学者のことだからごく内輪の集りと思ったが、その部屋には百人近い人々が集まっていた。老教授がマイクを握って西川を祝福していたが、西川は上を向いたり下を向いたりで幸福の雲にのっているようだった。彼の横に華子が立っていた。たかが駆け出しの講師にすぎぬのに、こんな盛大な会になるのは彼女のおかげなのだとぼくは卑しい想像をした。彼は前学長の娘を妻にしたのだ。
 ぼくは一人の女を見ていた。紺のセーターに白い襟をだし女学生のように楚々としていたが、その美しさは真紅の薔薇か白い百合のように人の目を奪うのだった。なぜあんな女がこんな所にいるのだろう、いったいなにをしている女なのだろうと思いながら一人でグラスをすすっていると、
「やあ、きてくれたね」
 西川がぼくのところにまわってきた。
「退屈らしいな、だれかを紹介しようか」
「いや、いいんだよ。シルクロードクラブの連中はだれも呼ばなかったのか」
「あいつらには猫に小判だと思ってね」
「まあ、そういうことになるかな。そうだ、おれは大事なことを言うのを忘れていたぞ。処女作、おめでとう」
「いや、ありがとう」
 彼は目がなくなってしまうような笑いをつくった。
「素晴らしい本だと言いたいところだが、まだ読んでいないんだ」
「君の感想を楽しみにしているんだがね」
「無理言うなよ。もうあんな難しい本を精読することなんかできないよ」
「あのなかの社会保険試論だけでも読んでくれよ。あのなかでまだだれも言っていないことを書いたんだ」
 若い男女がつくる輪から弾けるような笑いがおこった。その騒ぎの渦のなかであの美しい女が片方の靴を脱いだのだ。彼らはなにかのゲームをしているようだった。
「きれいな子だな」
「気になるかね」
「気になるな」
「彼女はまだ学生だがね。あと二、三年もすれば講義を持つよ」
「あんな美人を大学の先生にしちゃいけないと思うがね」
「美人が先生になっちゃいかんってことかい?」 
「あんな美人を象牙の塔にしまいこんじゃいけないぜ」
「あそこに背の高い男がいるだろう。あの男が残念なことに彼女の婚約者なんだ」
「彼も大学の先生ということか?」
「うん。文学部の助教授だよ」
「いよいよ学者たちが鼻持ちならぬ人種にみえてきたな」
 また爆笑がおこり女はもう片方の靴を脱いだ。彼女がまた負けたらしい。
「大学の先生があんな遊びをするなんて大発見だな」
「楽しくていいじゃないか」
「ちょっと子どもじみているぜ」
「それだけ純粋ということかな」
「そんなものかね」
 すると、その女がこっちに向かってきたのだ。ぼくらの前に立つと、グラスのなかの氷をカタカタと鳴らしながら、
「今夜の主役が、こんな隅っこにいちゃいけないわ」
 とその女は言った。
「いやねえ、二人でにやにやして。ああ、わかったわ。私の悪口を言っていたわけね」
「こいつに訊いてみろよ」
「ぼくはなにも言っちゃいませんよ」
「そうかしら」
 女はぼくの目のなかをまるで古い友人のような気安さでのぞきこんだので、ぼくはどぎまぎしてしまった。
「田島宏子だよ。ちょっと不良だけど」
「不良ですか」
「不良なんだろうな。しかし、まあいい女だよ」
「まあがつくわけね」
「まあ、そう言うことだな」
「ということは、たいした女じゃないってことよ」
 と彼女はぼくに言った。西川がぼくのことを紹介すると、
「ああ、よかったわ。どこを向いても先生ばかり。先生はもうたくさんだと思わない」
「それはちょうどよかった。こいつの相手をしてくれよ。退屈しているんだ」
 西川が去っていくとぼくたちは黙りこんでしまった。ぼくは緊張のために、彼女は遠くをみるために。彼女の婚約者だという男は、なにか刺すような視線をぼくたちに向けていた。宏子がちらりとその男をみた。二人の視線がからみあった。それは一瞬だったが、ぼくにはその瞬間二人の間にはげしい火花が散ったように見えた。愛の深さ、それゆえの憎しみの深さ。他人が立入ることのできない絆で二人は結ばれているのだ。どうせこの女はぼくの手にはおよばぬ他人だと思うと緊張も消えていった。
「いつ靴は返してもらえるんですか?」
「返してもらえるのかしら」
「返してもらえなければ、帰りはぼくがおんぶしてもいいな」
「ああ、それはうれしいわ。そういうことになるといいわね」
「しかし、最高の知性の持ち主たちって意外に幼稚なんですね」
「中身はからっぽだと言いたいわけ」
「純粋なんですかね」
「純粋なんかじゃないわ」
「それじゃ、やっぱりからっぽと言うことなのかな」
「その答案だったらきっと百点とれるわよ」
「本当なんですかね」
「だから糊と鋏でしか論文を書けないのだと思うわ」
「あなたは痛烈な皮肉屋だな」
「本当の学者って、きっと数えるほどしかいないのよ」
「それじゃこのなかには、一人も本物の学者はいないということになるんですかね」
 そのとき宏子の靴を持った若い男がやってきて、彼女を連れていってしまった。ぼくは女の婚約者だという男にちらちらと興味の視線を投げた。あちこちで話の輪ができているのにその男はどの輪にも加わらなかった。談笑がまきおこるなかで一人ぽつりと立ってグラスをすする男の姿は、超然としていてなにか不思議な雰囲気をもった男だった。
 男の目がときおりはしゃいでいる宏子に向けられる。その視線に悲しみといったものが漂っているようにぼくにはみえた。
 一人二人と会場から消えはじめた。ぼくも出口に立つ西川に声をかけて帰りかけたが、彼は二次会につきあえと言って離さなかった。結局ぼくもその会館の灯が消えるまで残るはめになった。
 表通りに出てタクシーをつかまえると、前のシートにぼくと静岡にある短大の先生になった村松、後ろに西川夫妻と華子の友達という女性が乗り込んだ。
「出版パーティなんて貧乏学者には賛沢だと思うがな」
 とぼくは酒の勢いで言ってしまった。すると村松が、
「いや、この世界にも花火を打ち上げておく必要があるんだ」
「そういうことか」
「もちろんそれだけじゃないが、西川はゆくゆくは学長になる男だからな」
「よせやい」
 パイプをくゆらす西川は成功の甘き香りを一杯に吸いこんでは吐き出し、また吸いこんでは吐き出す。そんな彼を茶化したくなって、
「西川先生。にやにやしているが真っ青にならなきゃならんことがあるぜ。君はあの本でちょっと取り返しのつかないミスをやらかしたんだ」
「どんなミスだい?」
「なぜあの本の扉に、愛する妻にと刻みこまなかったんだ?」
「あれはあちらさんの人間がやることだよ」
「そんなことはない」
「寺内先生が面白いことを言っていたな」
 と村松が割って入った。
「あちらの学者がわが妻に捧げるとやるのは、攻撃からわが身を守る楯なんだそうだよ。論敵どもがくそみそにこきおろそうと思っても、愛する妻に捧げるとくると、攻撃の手もにぶくなると言うんだな」
「なるほど」
 ぼくたちはその迷説にすっかり感心してしまった。
 車を降りるともう雨は上がっていたが、吹きつける北風は肌を刺すようだった。ビルの谷間を歩き、汚れた建物に入り、地下におりていった。く巴旦杏〉というバーの扉を押すとどっと拍手や歓声があがった。パーティから流れた人々が店を占領していた。どうやらこの店を借切っているようだった。西川たちが中央のテーブルに着くとシャンパンがポンポンと抜かれた。
 ぼくはカウンターの端に座りウイスキーの水割りをすすりながら連中の騒ぎを眺めていた。その騒ぎのなかにあの女がいたのだ。女は酔っていて若い学者や学者の卵たちを煽動しているようにみえた。狭いフロアーで踊りはじめた。女も踊りだした。彼女のしなやかな体が音楽にのってとてもセクシーだった。彼女はどうみてもソフィアの子ではなくエロスの子にみえる。
 片隅のテーブルに座っている静かな男にも目をやらないわけにはいかなかった。暗いひかりのなかでその男の孤独な姿はより強い輪郭を描いている。そしてその知的な目がじっと踊る宏子にそそがれていた。
 バーテンダーと冗談を言いあっていると、宏子がぼくの横の椅子に座った。
「ねえ、バーテンさん。お水くださらない」
「もう踊らないんですか」
 とぼくは訊いた。
「みんなばかばかしいことをしない主義なのよ」
「ばかばかしいことなのかな」
「ばかばかしいことなのよ、きっと」
「そいつはとても不幸なことだな」
「あなた本当にそう思うわけ?」
 彼女はぼくの目のなかをのぞきこむようにしてたずねるのだ。ぼくはまたどぎまぎしてしまった。
「でもばかばかしいことをするほうが、もっと不幸だと思わない?」
「どういう意味かな」
「意味がわからないことを喋っているのかしら。私はちゃんとしていないってこと?」
「いや、ちゃんとしていますよ」
「ねえ、バーテンさんもう一杯お水くださらない」
 水よりもカクテルという顔をしていますね、とバーテンダーがからかった。
「あら、そんなふうにみえるわけ」
「みえますよ。ピンクレディあたりがいいかな」
「やっぱりね」
「こいつをつくりましょう」
「酔っぱらいにしたいわけね。いいわよ。酔っぱらいになってあげるわ」
「なぜそんなに酔っぱらいになりたいわけですか?」
 とぼくは訊いた。
「あなただって酔っぱらいになりたいときってあるでしょう」
「そういうこともあるけど」
「どんなときに酔っぱらいになろうと思うわけ」
「荒れてるときとか」
「そうなの。お酒って荒れている海を静かにさせることだってあると思うわ」
「もっと酔っぱらいにしてしまうという学説だってあるだろうな」
「そっちの方が正解かもしれないわね」
「たぶん、そうだろうな」
「じゃあ私は酔っぱらいになりたいわけね」
「なぜそんなに酔っぱらいになりたいんです?」
「どうして酔っぱらいになぜなんて訊くのかしら」
「とても興味をかきたてられるんだ。あのパーティから、あなたは酔っぱら.いになろうとしているようにみえたな」
「あなたは誤解しているのよ」
「そうかな」
「そうなのよ。私にはなにもない女なのよ」
「そんなふうにはみえないな」
「あなたの興味をかきたてるようなものはなにもないのよ」
 まるで彼女は近づいていこうとしたぼくの手を払いのけるように言った。所詮この女は行きずりの人間にすぎなかった。ぼくの心はちょっと傷つきもう近づくまいと思った。すると不意に女はカウンターの上にのせてあるぼくの手に手を重ねて、
「ここから逃げだしたいと思わない?」
 と言ったのだ。その意味をさぐろうと、その女がするように彼女の目のなかをのぞきこもうとしたとき、帰ろうかという男の声がぼくたちの背後でした。あの男が立っていたのだ。
「さあ、帰ろう。送っていくよ」
 と男はもう一度言った。男の声は低かったが、なにかぼくのなかにずきりと響くのだった。
「あら、それは駄目よ。この人が送っていくということになってしまったの」
 と女は言ったのだ。女の手はぼくの手から離れなかった。バーテンダーがぼくたちを見ていたがただならぬ緊張にたえきれなくなったのか目をそらして煙草をくわえた。やがて男は扉をあけて出ていった。女の手がぼくから離れた。なぜこんなことをするのだろう。
 急に腹立たしくなってぼくは言った。
「なぜこんな下手な芝居をするんですか?」
「そんなつもりじゃなかったのよ」
「うまくいってないんですね」
 彼女はこたえなかったが、ぼくはさらにたずねた。
「あの人はあなたの婚約者なんでしょう」
「あなたって人のなかに簡単にふみこんでくるのね」
「土足で入っていくのが、ぼくの商売なんだ」
「どんなに深く入ってきてもわからないものがあると思わない?」
 女はまたぼくを払いのけるように言った。もう崩れた喋り方はしなかった。酒など一滴も入っていないようにしゃんとして、沈黙にとじこもってしまった。その彼女がまたこう言ったのだ。
「どこかで飲みなおしましょうよ。どこか連れていって下さらない」
 タクシーはなかなか捕まらなかった。やっと捕まえたタクシーに渋谷までと告げたら運転手は不機嫌に舌打ちした。
 その店のマスターは衣袋というんだとぼくは言った。世のなかには変わった名前があるもんだな。そいつは自分の名がいやでいやで仕方がなかった。オーイ、イブクロなんて遠くから呼ばれると、あたりの人間はゲラゲラと笑いだしてしまうわけだよ。だから二十歳のときに好きな女ができると、さっさと彼女の家の養子になって、衣袋っていう名前を捨ててしまった。ところがその女と三年前に離婚してまた衣袋って名前にもどってしまった。すると今度はその名前がすごくよくなっていたんだ。彼はいまでは実にいい名前だなんて言うんだ。
 そんなことをぼくは話していたが、シートに沈みこんでいる彼女は聞いているのかいないのか鼻をくしゅくしゅさせていた。渋谷が近づくとぼくの腕に手をかけて、なんだか自分を投げ出すように、
「海を見にいきたいと思わない。冬の海を」
 と言ったのだ。なんという感傷家だ。なんという少女趣味なのだ。そんな所までつきあう気などなかったので断ろうとした。そのとき信号で止まった車のなかに外から光がさしこんできて、女の横顔がはっきりみえた。彼女は泣いていたのだ。ぼくのなかに鋭い痛みに似た感情が走り、彼女の投げたカードを拾うように横浜まで行って下さいと運転手に言った。
「つらいんですね」
「気にしないでね。なんだかとてもおかしいの」
「だれでもときどきおかしくなるさ」
「お酒飲むと泣きだす人っているでしょう」
「うん」
「ああいうのっていいわよね。あんなふうに泣ければいいのよ」
「気が晴れるということがあるかもしれないな」
「いつもは泣かない女なのよ。でも今夜はとてもおかしいの」
 女の手をとるとぼくの手を握りかえした。その手は何かにすがりつこうとでもするかのようだった。タクシーは多摩川を渡り、闇に包まれた街道をひた走りに走っていた。前を走る車の悲しげなテールランプが寂蓼のなかにひきずりこむようだった。
「彼っていやなやつなのよ。いつも見張っていて、今夜だってきっとぼくの前に座れというのよ」
「なるほど」
「いやだと言っても駄目だというわけなの」
「いやなやつだな」
「そうなの。でも彼がこわいから彼の前に座るでしょう。するとこう言うのよ。平板で、空っぽで、陳腐だって。失礼だと思わない?」
 ようやく意味がわかったぼくは、
「そいつの言うことをきいていたら前に進めないじゃないか」
「そうなのよ」
「そいつを叩きのめす以外にないと思うな」
「それはいい考えね。きっとそれしかないんだわ」
「冷たい部屋に戻り、孤独の象徴みたいなタイプライターの前に座って、そいつを叩く。そいつを叩くことでしか君の未来はやってこないんじゃないのかな」
「ふむ、なかなかいいお説教ではあるわね」
「ぼくもそう思うよ」
「あなたってお説教屋さんでもあるのね」
「お説教通りにいったためしがないから、お説教屋になるのかもしれないな」
「じゃあ私もお説教屋さんになれるわね。うまくいったことなんてないのよ。でもやっぱりそこに戻っていくってことがあるでしょう。そんなことってないのかしら」
 と彼女はちょっとひたむきな調子でたずねた。
「ぼくは曖昧なんだ。ただ曖昧に生きているんだ」
「でもゴングが鳴ったら戦うだけってことだってあると思うのよ」
「倒すか倒されるかの?」
「そうなの」
「残念ながらぼくはそんな真剣には生きてこなかった。一度だってそんなリングにあがったことはないな」
「それは男の人ってお利口さんだからかもね。毎日リングにあがっているから大袈裟なことをしなくていいのかもしれないわね。私ってばかだからなにをするにも大袈裟になってしまうの」
「なにをそんなに大袈裟にやるんです? たかが論文なんでしょう?」
「そうなの。たかが論文なの」
「論文というやつは糊と鋏ででっち上げるものじゃなかったんですか」
「それもいい手だと思うわ。でもどうやらそんなものではないみたいなのよ」
「本物の学者になる気ですかね」
「私は魔女になろうとしているの」
「どういうこと?」
「魔女が私を魔女にしていくのよ」
「いよいよわからないな」
「でも魔女になれないってわけなの」
「君はわからないように話す人だな」
「わからないでいいのよ。わからないように言ったんだから」
 タクシーは桜木町を通って海岸通りに出た。黒い裸の街路樹が夜の底を包んでいた。ぼくたちはそこで車を止めた。
 ひんやりと沈みこんだ公園のあちこちに立つ街灯が、冷たい光をあたりに放っていた。冷たい風は海から吹いてくるのに海のにおいがなかった。岸壁につながれて海上ホテルとなった白い大きな老朽船が、全身を小さな光で飾っている。海上に停泊している船のあかりが海に投げ出され、その光が波でゆらめいていた。黒い波は力なく岸壁に打ち寄せる。どこからとなく船の起動する音がきこえてきた。すべて生気がなかった。海も、公園も、宏子も、ぼくも。
 並んで歩いていた宏子が立ちどまった。ぼくは煙草をくわえて彼女が歩きだすのを待っていた。しかし海をながめている彼女はなかなか歩きださなかった。コートに手をいれて悄然と立ちつくしている。彼女は泣いていたのだ。
「どうしたというんです?」
 ぼくは彼女の後から両腕を回した。彼女はふるえていた。それは寒さのためではなくなにか生命の底がふるえているような感じだった。ぼくの唇がひんやりとした耳にふれると彼女はすうっと力を抜いてぼくに体をあずけてきた。
「おかしいわね」
「おかしいな」
「もう駄目だなって、そんな感じ」
「どうして駄目なのかな」
「だんだん崩れていくのよ」
 それは海にむかってつぶやいたようだった。この女の悲しみとはこの寂しい夜がみせる感傷などというものではなく、もっと深いもっと救いがたい悲しみのためにふるえているように思えた。
「ねえ、あなたはもう駄目だなんて思ったことないわけ」
「ぼくはそこまで自分を迫いつめたことはないんだ」
「不思議なのよ。どうしてみんなあんなに自信に満ちて生きていけるのかしら」
「そうみえるだけだよ」
「もう駄目だなんて思わないのかしら」
「それでも、一人で歩いていくんだ」
「歩くことをやめちゃった人だっていると思わない?」
「なぜ君はそんなに悲観的になるのかな」
「楽観的になれっていったって無理だと思わない? お説教屋さん」
 そう言うと彼女はちょっと軽蔑するような微笑みをつくった。彼女の体に力がもどってきて、ぼくから離れようとしたがぼくは離さなかった。
「もう大丈夫よ。もうちゃんとなったの。わたしの涙腺ってどうかしているんだわ」
「ハートのほうもいかれているという感じだな」
「そうなんだわ。でももう大丈夫よ。だれかさんの楽観的な血が少しだけ流れこんできたんだわ」
「それはよかった」
「私って変な女だと思わない?」
「まったく変な女だな」
「変な女に親切なだれかさんだって変な男だと思わない?」
「そいつは絶対に変な男だよ」
 ぼくは唇を彼女の頬にためらいながらはわせていた。
「あなたの唇はとてもひんやりしているわ」
「君の唇はあたたかいのかな」
「キスしたいわけ?」
「君はしたくない」
「してもいいわよ」
 彼女の唇は冷たく、長いくちづけでも少しも熱くならなかった。目を閉じていたがそれは陶酔しようとするのではなく、なにか苦痛にたえているような表情だった。
「もう止めたの」
「無理しているみたいだからさ」
「そうなの。とても無理しているの」
「なぜそんなに無理をするのかな」
「無理すればうまくいくことだってあると思うのよ」
「もっとつらくなることだってあるだろうな」
「きっとそれが正解かもしれないわ。でも無理することによって、自分を支えていることだってあると思うのよ」
「たぶんそっちのほうも正解だろうな」
 彼女はちょっと笑った。それは無理に笑ったようにみえた。この女は無理に酔っぱらい無理に接吻し、無理に笑う女だった。
「君は無理という人だね」
「そうなの。無理な女なの。ぜんぜん無理な女なのよ」
 それからぼくたちはぶらぶらと歩きながら魔女のことを話した。彼女は十七世紀に西欧に吹き荒れた魔女裁判のことを研究しているのだった。
「あなたの魔女ってなかなか正確なのね。ちゃんと魔女たちが石畳の上を歩いているわ」
「それはちょっといい本を読んだおかげだな」
「どんな本?」
「るつぼという本だよ」
「あんな戯曲を読むなんて、あなたなかなかの読書屋さんでもあるのね」
「魔女というのがどうして生れたか、なぜあんなものを生みださなければならなかったのかがとてもよくわかったよ」
「あなたがなかなか上手なお説教屋さんであるのは、たぶん、なかなか上手な読書屋さんでもあるからなのね」
「君は皮肉の名人だな」
「あら、皮肉で言ったんじゃないのよ」
「いや、いいんだよ。学者が糊と鋏で論文をでっちあげていくならば、ぼくらはあふれる情報のなかからものになるところだけを、素早く切り取ってセロテープではりつけていくんだ」
「そうやって雑誌ってできていくわけ」
「そうなんだ。そういうことだよ」
「それじゃセロテープ屋さんでもあるわけね」
「うん、そういうことだよ」
「と言うことはあなたのハートも、やっぱりセロテープではりつけてあるわけ?」
 彼女はもう元気になっていた。暗い沈みこんだ声ではなかった。やわらかい笑顔をつくってぼくのことをたずねる。それまでぼくは気晴らしのためのキスの相手といったどうでもいい存在だったにちがいない。ぼくたちは指をからませて歩いていた。ぼくのなかに甘い波が打ち寄せてくる。その波は彼女のほうからやってくるのだ。そしてぼくの波もまた彼女のなかに打ち寄せているように思えた。この女と一緒に歩いていったら素敵だろうなと思った。しかしそれは錯覚だということがよくわかっていた。彼女はすでに婚約した女だった。ぼくはこれ以上一歩も近づいていけぬ人間だった。
 タクシーは夜の闇を裂いて高台にあがっていった。そこは港からわずかな距離だった。運転手に道を教えはじめた。そこでいいわと言うと、車はぎゅっと止まった。ぼくが降りて彼女が降りた。
「おやすみ」
 とぼくは言った。
「さようなら」
 と彼女が言った。


 
 

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