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人恋染めし初めの頃  帆足孝治

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 山里子ども風土記   帆足孝治

 昭和二十五年の梅雨どき、もう少しで楽しい夏休みがはじまろうというころ、朝鮮戦争が勃発した。三十八度線を全面突破した北鮮軍はあっという間に京城(ソウル)を占領して、凄まじい勢いで南下を続けた。当時、東飯田中学校に勤め始めていた叔父は、学校の同僚の先生を家に呼んだ時など、戦況を報じる新聞を前にして、「年末までに釜山まで占領されてしまうかどうか」で賭けをしたりしていた。

 そのころから日出生台(ひじゅうだい)演習地には、当時はまだ珍しかった米軍のジェット戦闘機などもしばしば飛来して、森町全体を驚かすような爆音をとどろかせながら高速で超低空飛行したりした。朝鮮での対地攻撃を演習していたのであろう。 戦争はアメリカ軍を中心とする国連軍が本格的に参戦したにもかかわらず意外に長引いて、私たちには強力な日本の陸海軍を殲滅してしまったほどのアメリカ軍が、なぜ装備も貧弱な北鮮軍に苦戦するのか理解できなかった。

 翌年の春になって、国連軍総司官のマッカーサー元帥率いる連合軍が仁川に上陸してようやく反撃を開始、半島の南から攻め上がってくる地上軍とで共産軍を挟み撃ちにし始めた。国連軍は京城を奪い返すと、さらに平壌を占領、どんどん北上して遂には鴨緑江の南岸まで攻め上った。

 私たちは毎日の新聞が伝えるニュースをめぐって、国連軍の反撃とかウォーカー中将の戦死とか、パットン戦車とかナパーム弾とか、ミグー5戦闘機とか、マッカーサー元帥の解任とかいった兵器や戦況についての用語を、日常の遊びの中でも当たり前のようにつかっていた。

 そのころ東飯田中学の先生たちがある晩、叔父の招きに応じて四~五人、家に遊びに来たことがある。その先生たちが来た時、私は裏で風呂を炊いている最中だったが、出迎えたマル子おばちゃんの声に混じって甲高い女の子の声がするのを聞いた。あまり聞き慣れない声だったから、私は「誰だろう?」と思いながらも風呂の火を燃やし続けた。ちょうど同じところヘマル子おばさんの知り合いのおばさんが娘を連れてきている様子だった。

 風呂も沸いたので私はいつものように茶の閧で晩御飯を食べたが、座敷の方からは叔父たちの楽しそうな笑い声がしていた。そのうちに座敷に出ていたマル子おばちゃんが、「大人の中にいても詰まらないでしょう、こっちにいらっしゃい!」と可愛い女の子を茶の間に連れてきた。さっきから聞こえていた甲高い声はその子のものだったのだ。私はふだん、そんな女の子をあまり側で見たことがなかったから、その黒い髪をたらした色の黒い活発そうな子が、あまり近くに座ったのでドギマギした。

 その子は私なぞ全く気にせずにマル子おばちゃんと楽しそうに話していたが、私は涼しげな彼女の美しい声が心地いいので、そっと覗き見するように彼女の様子を伺ったが、たまたま目が合ったその子の賢そうな大きな黒い目とその笑顔が何ともいえず愛らしいのに驚いた。あのおばさんのうちにこんな可愛い女の子がいたとは、これまで全く気がつかなかったので、私はそのおばさんをすっかり尊敬するようになった。そして内心、あのおばさんが今晩だけでなく、時々この娘を連れて遊びにきてくれるといいなあと思った。

 その頃、私は東京の兄が送ってくれた無着成恭の「やまびこ学校」という本を持っていたが、それは冒険モノでも探検物語でもなかったので余り面白くはなかったから、ただ大事にしまっていた。私はその子が退屈しはしないだろうかと思って、マル子おばちゃんが席を外した隙にその本を持ってきて彼女に貸し与えた。彼女は礼を言ってから長い間黙ってその本を読んでいたから、僕には面白くなかった「やまびこ学校」が彼女にはきっと興味があったのだろう。私はそんな本に興味を持つ彼女が意外に大人っぽいのだなアと感心し、彼女が漫画などでなく、そんなまじめな本を好むのを嬉しく思った。彼女が帰るとき、私は「その本が好きなら持って行ってもいいよ!」と言ったが、彼女は「またきた時見せてください」と言って置いて帰った。

 私はなぜか、その時からその子のことが忘れられなくなってしまった。それはおかしな現象だった。彼女は私より一つ年下だったから、二年後に中学に上がってからも私は彼女がやがてきっとこの学校に入ってくるに違いないと確信していた。

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 中学二年になって、彼女の姿を学校の廊下で見掛けた時の感激は忘れられない。その日、廊下で行き合った二人ずれの女の子の一人が彼女だったのだ。私は思わず声を掛けそうになったが、考えてみればそれほど親しい仲ではないし、あの時からずいぶん時間も経っているから彼女がまだ私を覚えているかどうかさえ定かでなかった。幸い、彼女はひと目で私だということに気がついたようだったが、連れがいたせいか恥ずかしそうに目を伏せて、お辞儀ひとつせずに擦れ違って行ってしまった。

 わたしは、これは容易ならざることになってきたぞ、と感じた。しばらく見ないうちに彼女はずいぶん大きくなり、また美しくなっていたからである。森中学校の一年生は二クラスしかなかったから、調べるまでもなく彼女が梶原先生のクラスに所属していることはすぐ分かった。私は国語の授業が梶原先生のホームルームで行われる時、いつもある期待をもってそっと後ろの壁を見てまわった。そこには梶原先生のクラスの生徒たちの作文や習字、図画などが貼り出してあり、ある時、ついに彼女の作文が貼り出されているのを発見した。もう内容は忘れてしまったが、その作文は薄い鉛筆を使って書かれてあり、賢そうな彼女に似合わず、その字は意外に上手でないのになぜかほっとした。

 そんなことがあってから、私の田舎での生活は自分でもわかるほど急に大人びたものになっていった。鏡を見ることが多くなったし、マル子おばちゃんのクリームをそっと顔につけてみたりするようになった。

 彼女の家は森小学校の上の上谷(かさだに)にあったが、ある曜日の午後、私は角埋山の「焼け不動」まで登ったついでに、わざと彼女の家の方に降りてみたことがある。 「焼け不動」は角埋山の山頂にある古い角牟礼城址の崖下にあって、その昔、薩摩の軍勢が攻め込んできてこの城を包囲した時、戦火で焼けたものといわれ、この不動が焼けた代わりに城は落城を免れたと伝えられている。城の身代わりになった有難いお不動様なのである。

 「焼け不動」を拝み、ひと休みしてから山を下りていくと幾段も耕された畑の中を降りて上谷の部落に至るのである。私は六年間も森小学校に通ったが、その間、この辺りを通ることは滅多になかったので、上谷部落のたたずまいは新鮮な感じがした。私は、こんな間道に彼女がひょっこり出て来はしないか、もしそうなったらどう対応しようか、などと楽しい空想に胸を膨らませながら彼女の家のすぐそばを通って見たが、結局、彼女には会えなかった。彼女の家は皆んな出かけていたらしく、私が通り掛かると開けっ広げの庭の方から留守をしていたらしい白い犬が出てきて、尻尾をふりながらワンワンと激しく吠えたてた。

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