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承久記   5

信綱・兼吉宇治河を渡す事 24


 武蔵の守、陸奥の国の住人芝田の橘六兼吉を召して、「軍は止めつ。河を渡さんと思ふぞ」と、仰せられければ、兼吉畏まりて承り、「先づ瀬踏仕りて見候はん」とて河を見れば、夜の雨に昨日の水より三尺五寸増したり。総じて常よりも一丈三尺ぞ増さりける。

 兼吉如何思ひけん、「検見を賜はりて瀬踏を仕らん」と申しければ、南条七郎時貞を差遣はさる。兼吉即ち時貞を伴ひ、刀をくはへて渡りけるが、安き所も大事顔に渡りけり。槙の島に上がりて、あなたを見れば安げなり。渡るに及ばずとて帰り参りけり。「河を御渡し有る可き事、相違有る可からず」とぞ申しける。

 武蔵の守悦び給ひて打ち立ち給ふ。佐々木の四郎左衛門思ひけるは、「この芝田がそそめき申すこそ怪しけれ。この河の先陣せんとするござめれ。この河をば代々我が家に渡したるを、今度人に渡されんこそ口惜しけれ。信綱(=自分)これを知りながら、生きても何かせん」と、兼吉打ち出でければ、佐々木馬に打乗りて、芝田が馬に我馬の頭擦る程に歩ませて行く。

 安東の兵衛尉忠家も心得打ち並べ、佐々木に連れて打ち出づる。四郎左衛門信綱、芝田に「此処は瀬か」とぞ問ひける。橘六打笑ひて、「御辺こそ近江の人にておはすれば、河の案内をば知り給はめ」と言ひければ、信綱「ことわりなり。幼少より板東に在つて、この河案内知らず」と申せば、その後兼吉音もせず、こここそとて河の中へ打入る。水波高くして兼吉が馬ためらふ所に、佐々木は二位殿より賜はりたる板東一の名馬に、鞭も砕けよと打ちて、「近江の国の住人佐々木の四郎左衛門源の信綱、十九万騎が一番駈けて、この河に命を捨てゝ名を後の世に止むるぞ」と、喚きて打出だす。

 兼吉が馬もこれに連れて游がせけり。これを見て安東の兵衛も打入りけり。兼吉が馬、河中より三段ばかりぞ下がりける。信綱、向ひへするすると渡して、打上げてぞ名乗りける。兼吉幾程なく打上がりて名乗る。佐々木が嫡子太郎重綱十五になるは、裸になりて父が馬の前に立ちて瀬踏しけるが、敵、向ふより雨の如くに射る間、裸にて叶はずして取りて帰りけり。


関東の大勢水に溺るゝ事 25


 二番に打入る輩は、佐野の与一・中山の五郎・溝の次郎しけつき・臼井の太郎・横溝の五郎祐重・秋庭三郎・白井の太郎・多胡の宗内七騎打上がる。三番に小笠原の四郎・宇都宮の四郎・佐々木の左衛門太郎・河野の九郎・玉の井の四郎・四宮の右馬丞・長江の与一・大山の次郎・敕使河原の次郎、これも相違なく打上ぐる。

 安東の兵衛、渡瀬に臨んで見けるが、「身方は多く渡しけり。下頭(くだりがしら)にて渡瀬も遠し。三段ばかり下、少し狭(せば)みにさしのぞき、爰の狭み渡すならば、直ぐにてよかりなん」と、三十騎ばかり打入れけるが、一目も見えず失せにけり。

 河の狭きを見て、安東が渡しければ、先陣の失するをも知らず大勢打入れけり。阿保の刑部の丞実光・塩屋の民部家綱、「今年八十四、惜しからざる命かな」とて、打入れけり。一目も見えず失せにけり。

 関左衛門入道・佐嶋の四郎・小野寺中務・若狭兵衛の入道、これも又とも見えず。この中に佐嶋の四郎は馬も強し、死ぬまじかりけるを、帯刀の関入道、弓手の袖に取付くと見えしが、二人ながら見えず。

 四番に布施の左衛門次郎・太山の弥藤太・秋田城の四郎・周防の刑部の四郎・山内の弥五郎・高田の小次郎・成田の兵衛・神崎の次郎・科河(しながは)次郎・相馬の三郎子供三人・志村の弥三郎・豊島の弥太郎・物射の次郎・志田の小次郎・佐野次郎・同じく小次郎・渋谷の平三郎以下二千余騎、声々に名乗つて渡しけるが、一騎も見えず失せにけり。

 五番に平塚の小太郎・春日の太郎・長江の四郎・飯田の左近将監・塩屋の四郎・土肥の三郎・島の平三郎・同じく四郎太郎・同じく五郎・平の左近の次郎、都合五百余騎打ち入れて、二目とも見えず。

 六番に覚島(さめじま)の小次郎・対馬の左衛門次郎・大河戸の小次郎・金子の与一・同じく小太郎・讃岐の左衛門の太郎・井原の六郎・飯高の六郎・斎藤の左近・今泉の七郎・岡部の六郎・糟屋の太郎・飯島の三郎・肥前坊、三百余騎も沈みけり。

 七番に荻野の太郎・尾田の橘六・宮の七郎・岡部の弥藤太・城介三郎・飯田の左近・飯沼の三郎・櫻井の次郎・猿沢の次郎・春日の次郎子二人・石川の三郎、都合八百余騎渡しけるも、またとも見えず失せにけり。

 武蔵の守これを見給ひて、「泰時が運既に尽きにけり。帝王に弓を引き奉る故なり。この上は生きても有る可からず」と、手綱掻い繰り馳せ入らんとし給ふ処に、信濃の国の住人春日の刑部の三郎さだゆきと言ふ者、子供二人は先に流れて死ぬ。我身も失す可かりつるを、弓をさし出だしたるに取付きて助かり、二人の事を思ひて泣き居たりけるが、武蔵の守殿、既に河に打入れ給ふと見て、「あな心憂や」とて走りより銜に取付きて、

 「こは如何なる御事候ぞ。身方の軍兵、今河に沈むといへども三千騎の内外なり。十が一だにも失せざるに、大将命を捨て給ふことや候べき。人こそ多く候へども、大夫殿頼むと候ひつるものを、若しこの大勢を置きながら、この大悪所に打ち入れて、みすみす死なせ給はん事、実に口惜しかりぬべし。幾千万の勢候ども、君死なせ給はゞ、皆京方につき候ひなん。これ却つて御不覚なり。さこそ心細き人候らめども、君の御旗をまぼりてこそ候らめ」と、馬の口に取付くを見て、武蔵の守の者ども一二千騎、前に馳せふさがりて控へたり。

 義時、この事後に聞き給ひて、「春日の刑部、子共二人失ふのみならず、泰時が命をつぎたるものなれば、今度の第一の奉公の者なり」とて、上野国七千余町賜りけり。

 武蔵の守泰時の子息小太郎時氏、父渡さんとするが、人にとめらるゝと見て、河に打入れんとするを、「安房国の住人佐久目(さくま)の太郎家盛なり」と名乗りて、馬の銜にむずと取付き、大力の者なれば馬も主も動かず。「大夫殿人こそ多く候へども、見放し申すなと仰せ給ひし」と申しければ、太郎殿腹を立て、「何条去る事有る可き。親の控へ給へるだに口惜しきに、二人この河を渡さずしては、板東の者、誰を見て渡すべきぞ。悪(にく)い奴かな」とて、鞭を以て佐久目が面(つら)、取付きたる腕を打ち給ひける。

 「家盛、さかしき殿の気色振舞かな。ゆるすまじ」とて指しつめたり。いよいよ腹を立ち打ち給へば、「家盛、わ殿の事を思ひ奉りてこそすれ。さらば如何に成果て給はむとも、心よ」とて、馬の尻を礑(はた)と打つ。何かは堪るべき、河に打入れけり。佐久目腕(かいな)は打たれて痛けれども、「見捨つるに及ばず。続くぞよ」と打入れ進み渡しける。

 万年の九郎秀幸「同じく参り候」とて打入れけり。「相模の国の住人香河(かがは)の三郎生年十六歳」と名乗りて打入る。武蔵の守これを見て、「太郎討たすな。武蔵・相模の守の殿原は無きか無きか」と宣へば、一騎も残らず打入れける。廿万六千余騎声々に名乗りて渡しけり。一騎も沈まず向の岸に打ちあがる。

 さる程に駿河の次郎泰村これを見て、「今まで下がりけるこそ口惜しけれ」とて、小河の右衛門取付きて示しけれども渡しけるを、泰時使者を立てゝ、「これにこそ候へ。これへ渡り候へ」と宣へば、泰村も一所に控へけり。

 「足利殿も一所に御入り候へ」と申されければ、家の子・郎等はみな河へ打入れさせて、これも扣へてぞおわしける。香河の三郎、向ひに早や着きて敵におしならべて組んで落ちにけり。十六歳の者なりければ下になる。香河が家人上なる敵の首を取る。「小河の次郎、新手なり。駈けよ」と、武蔵の太郎(=時氏)に言はれて、真先駈けて戦ひけり。「あまり乱れ合ひて、敵も味方も見えず」と言ひければ、「味方は河を渡りたれば、楯濡れたるを印にせよ」と、武蔵の太郎に下知せられて、落合ひ落合ひ組んだりけり。


宇治の敗るゝ事 26

 京方の大将佐々木の中納言有雅の卿・甲斐の宰相中将を始めとして、一騎も控へず落ちにけり。卿相には右衛門の佐、武士には佐々木太郎衛門尉・筑後の六郎左衛門朝直・糟屋の四郎左衛門・荻野の次郎・同じく弥次郎左衛門ばかりなり。

 武蔵の太郎、中将の甲のはちを射拂ひて、後の頚に射立てたり。薄手なれば遁げのぶ。また京方右衛門の佐朝俊、させる弓矢取りて、朝家に忠を致すべき身にもあらぬが、望み申して向ひけり。大勢に向ひて「朝俊」と名乗りて駈けゝれば、取りこめて討つてけり。仕出だしたる事はなけれども、申しゝ詞ひるがへさずして、討死しけるこそ哀れなれ。

 次に筑後の六郎左衛門有仲、敵の中をかけ分けて落ち行く。次に荻野の次郎落行きけるを、渋江の平三郎おして並べて組んで落ち、荻野が首を取る。

 次に弥次郎左衛門落ち行きけるを、陸奥国の住人宮城野の小次郎生年十六歳と名乗りて、弥次郎左衛門と組みけるに、弥次郎左衛門が乗替打つてかゝり、宮城野、「今はかう」と思ひける処に、身方三百騎ばかり馳せけるが、いかなる者が矢とは知らず、耳の根を射ぬく。その間に宮城野の次郎左衛門が首を取る。

 小河太郎、京方より出来たる能き敵を、目にかけ組まんとする所に、敵、太刀を抜いて討つに、目くれて組んで落つ。起き上がりて見れば、我身組んだる敵の首は人とりて無し。「いかなる者なれば人の組たる敵の首取りたるぞ」と呼りければ、「武蔵の守殿の手の者伊豆の国の住人平馬太郎ぞかし。わ殿はたぞ」。「駿河の次郎の手の者小河太郎経村」といひければ、「さらば」とて返す。小河これを請とらず。後にこのよし申しければ、平馬の僻事なり。小河の高名にぞ成にける。

 山城の太郎左衛門駈けめぐるを、佐々木四郎左衛門が手に取りこめて生捕りけり。去る程に板東方の兵ども、深草・伏見・丘の屋・久我・醍醐・日野・勧修寺・吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳せ散らす。或は一二万騎或は四五千騎、旗の足をひるがへして乱れ入る。三公・卿相・北政所・女房局・雲客・青女・官女・遊女以下に至るまで、声を立てゝ喚き叫び立ち迷ふ。

 天地開闢より王城洛中のかゝる事、いかでかありし。かの寿永の昔、平家の都を落ちしも、これ程はなかりけり。名をも惜しみ家をも思ふ重代の者どもは、ここかしこに大将にさし遣はされて、或は討たれ或は搦めとらる。

 その外は青侍・町の冠者原向ひつぶて印地などと言ふ者なり。いつ馬にも乗り軍したるすべも知らぬ者どもが、或は勅命に駈り催されて、或は見物の為に出で来たる輩ども、板東の兵に追ひつめられたる有様、ただ鷹の前の小鳥の如し。討ち射殺し首を取ること若干なり。

 板東の兵、首一つ宛つ取らぬ者こそなかりけれ。大将軍武蔵の守・駿河の次郎・足利殿は、船にておし渡る。信濃の国の住人内野の次郎、宇治橋の北の在家に火を掛けゝり。その煙天に映じて夥し。淀・芋洗・広瀬、その外の渡々にこれを見て、一師もせず皆落ちにけり。駿河の前司・森の入道・野山の左衛門は、或は船に乗り或は筏を組みて押し渡る。淀一くちとう(?)の要害を破り、鳥羽の高畑に陣を取る。

 宇治橋の河端に斬り掛けたる首七百三十なり。これを実検して、武蔵の守・嫡子時氏・有時など親しき人々、僅かに五十余騎にて深草河原といふところに陣を取る。夜に入りて「武蔵の守、これにこそ」と、駿河守のもとへ使を立てゝ申されければ、泰村、子二三人うち具して武蔵の守の陣に加はりけり。

 勢多・宇治・水尾が崎落ちぬと聞えしかば、一人も軍する者なく、皆落ち失せにける。南都北嶺の大衆も落行きけり。当日の大衆、高声に念仏申して、「哀れなりける王法かな」と、高らかに口ずさび、泣く泣く本山本山に帰りけり。


秀康・胤義等都へ帰り入る事 27


 京方、能登の守・平九郎判官・下総の前司・少輔入道、所々の戦に打負けて都に帰りいる。山田の次郎も同じく京へ入る。同じき十五日卯の刻に、四辻殿に参りて「秀康・胤義・盛綱・重忠こそ、最後の御供仕り候はんとて参りて候へ」と申しければ、一院、如何になるべき身とも思し召れぬところへ、四人参りたれば、いよいよ騒がせ給ひて、「我は武士向かはゞ、手を合はせて命ばかりをば乞はんと思し召せども、汝等参り籠りて防ぎ戦ふならば、中々悪しかりなん。何方へも落行き候へ。さしもの奉公、空しくなしつるこそ不便なれども、今は力及ばず。御所の近隣にある可からず」と仰せ出だされければ、各々の心の内いふも中々愚かなり。

 山田の次郎ばかりこそ、「されば何せんに参りけん。叶はぬもの故、一足(ぞく)も引きつるこそ口惜しけれ」とて、大音声をあげて門をたたき、「日本第一の不覚。人を知らずして浮き沈みつる事の口惜しさよ」と、罵りて通るぞ甲斐もなき。

 各々言ひけるは、「今は二つなし。大勢に馳向ひて戦ひて、もし死なれぬものならば、自害するほかは別の儀なし」と申しければ、各々「この儀に同ず」とて、また取て返す。四人の勢三十騎ばかりなり。

 平九郎判官申しけるは、「同じき宇治の大手に向ふべきを、宇治・勢多大勢に隔てられては、雑兵にこそ打ちあはんずれ。これより西、東寺は良き城郭なり。ここに立て籠り候はゞや。駿河の守は淀の手なれば東寺を通らんずるに、よき軍して死なんと思ふぞ」と言ひければ、また「この儀然るべし」とて、東寺に馳せつき、内院には入らず。総門の外釘貫の中に陣を取る。高畠に控へたる三浦の介・早原の次郎兵衛の尉・甥の又太郎・天野の左衛門・坂井の平次郎兵衛の尉・小幡の太郎・同じく弥平三など聞こゆる者ども、三百余騎喚いて駆く。

 その中に早原の次郎兵衛・天野左衛門は、平九郎判官と見て、眼前親昵なりければ控へてかゝらざりけり。弓矢取る者も礼儀はかくぞある可きに、早原の太郎仔細をば知らず、父控へたるを心地悪しくや思ひけん。名乗りて押寄せたりけり。

 胤義言ひけるは、「さこそ公の軍と言ひながら太郎無礼なる者哉。景義洩すな」とて、高井を始めとして中にとりこめられて、馬手の田中へ駈け落とされけり。馳せあがらんとする所に、弓手・馬手より攻めければ馬より落ち、徒歩になりてぞ戦ひける。景義が甥平兵衛・嫡子兵衛の太郎・角田兄弟命を捨てゝ、景義を後におしなし戦ひけり。叶はずして胤義引返す。

 これを始めとして関東の勢、一面に喚いて駆く。作道(つくりみち)を我先にと押寄せければ、秀康・盛綱は如何思ひけん、矢一も射ず、北を差して落ち行く。山田の次郎ばかりぞ、支へ箭少々射て、それも跡目につきて落行きけり。今は平九郎判官ばかりなり。

 胤義は東寺を墓所と定めければ、「自余の者、それは落ちも失せよ。一足も退くまじ」とて入替へ戦ひけり。されども大勢しこみければ、心は猛く思へども、なまじひに一切れにも死に終らず、東を指して落行きけり。角田の平二祐親すくやか者なり。胤義に目をかけて、押並べて組まんとしけるが、祐親叶はじとや思ひけん。胤義が乳母子上畠、馳せ通りけるに組んで落ちにけり。

 祐親が乗替落合ひて首を取る。胤義これを知らずして、弥太郎兵衛、ただ三四騎になりて東山を心ざして落ちて行く。次郎兵衛・高井の兵衛の太郎、これも東へ落ちけるが、六波羅の蓮華王院に馳せ入り、小竹の内にて二人念仏唱へて、刺し違へて失せにけり。胤義は心ざしつる東山に馳せ入りて、物具ぬき捨てゝ休みけり。





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