見出し画像

威風堂々中宮さま

庭の桃の花が咲き始めた。

霊力を持ち、邪気を払うと崇められてきた桃の花。枕草子に記されている中宮定子は、清少納言にとって、とくべつな花、桃の花のようなお方だったのではないでしょうか。

中宮といえば今の皇后。最高地位のお后。まさに雲の上のお方。でも、定子さまは飾り物ではなかった。権力におとなしく座している人ではなかった。

後宮文化の改革者であり、発信者であり、その時代の最先端を行くクリエイターだったのです。

何事でも、前例がない、とは決して言わない。言わせない。五節の行事で今までにはなかった趣向を凝らして、人をあっと驚かせる。ユーモアがあって、人の間に笑いを起こす。女房たちにとっては厳しい勉強会を催す。

定子その人が、一条帝時代のカルチャーであり、貴族たちの憧れ。神秘の力をもつ桃の花のような存在だったのでしょう。

定子の権勢輝いていたころは、清少納言にとっては宮中はこの世の桃源郷でした。それがもろくも道長に踏みつぶされるなど……。

追憶の定子が現実の定子と同じか違うかは問題ではありません。清少納言はそう感じたのです。そう書くことで枕草子を定子に捧げる鎮魂歌としたのです。

定子は、女性に奥ゆかしさ(心にくさ)を求めるタイプではなかった。知識があるのに大切な場で発信できない女性など、女房失格だと思っていた。男たちと丁々発止、知識で競い合う清少納言をとても好きだったのは、同じタイプだったからでしょう。(長谷川の私見ですが。)

どの章段の定子も魅力的ですが、私は97段(3巻本)『御方々、君達、上人など』の威風堂々たる定子にこのうえなく心惹かれるのです。

皆でおしゃべりしているときに、定子は清少納言に何か投げてよこした。開けてみると「そなたを愛するべきか、どうしようか。愛するとしても、第一番でないとしたらどう思うか」

清少納言は「愛される側に入れてもらえるなら、いちばん下でもいい」とお返事を書いて差し上げた。

定子さまはこう言った。

「ひどく卑屈だ。よくないことだ。第一級の人に第一番に愛されようと思うのなら、その思いを貫きなさい」

実は清少納言は前に「すべてにおいて、一番に愛されないのなら、憎まれたほうがいい。2番手、3番手になるのは死んでも嫌」と言っていたのだ。

中宮はそれを覚えていて、清少納言を鼓舞したのです。

会話の根底にある仏教説話を飛ばして意訳しましたが、全体を読むとこういう訳になります。とても短い章なのでぜひ原文で読んでみてください。

また二人の会話を男言葉で訳したのは、当時は男言葉女言葉という違いはほほとんどなくて、身分差による言葉の違いがあるだけでした。ですから、定子は男言葉を使います。もしも定子の言葉を女らしく訳したら定子の魅力はなくなります。

「ねえ、あなたのこと、愛そうかしら。愛するの、やめようかしら」なんて訳してはいけない!

堂々たる定子の言葉。第一級の人に第一番に愛されることが大事だという定子の持論は私の心に強く残りました。

このようなことを言うと日本では、可愛げがない、とか、傲慢だと思われます。特に女性は嫌われる。あまり意見を言わないのが「オンナらしい」と思われているのですから。

先日の愛子様の会見、私にはまさに中宮定子さまに思えました。自分の意見を自分の言葉で発信する。これぞ文化の発信者、と私は勝手に定子様と重ねてしまったのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?