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平安時代の幼・少女の服装

『光る君へ』の紫式部少女時代の服装に、ちょっと違和感を感じました。
誰も見ていたわけではないので、こだわることはないかも知れませんが、
ざっと調べた限りではこんな感じみたいです。
(以下は私の落書き。ありあわせの色鉛筆で描いたものなので、適当にイメージとして見てください)

振り分け髪・やや改まった場に着る汗衫(かざみ)

貴族の8歳ぐらいの童女は振り分け髪。
真ん中分けした髪を両側にかき分けて肩の辺りで切りそろえる。昔の博多人形の髪がこんな感じだったような記憶があります。

子どもの衣装は不明ですが、長年の研究によって:
簡単にいうと大人の衣装の裾を切って短くしたものを着ていた。
スケッチの衣装は汗衫(かざみ)。
丈が長く裾を引く。前後の裾を長く伸ばしているので『尻長』とも呼ばれたらしい。
後姿は:

下にはちゃんと袴を着用

この時代は帯はしない。袴の紐が帯代わり。
日常で着用する場合は裾を子供の身丈に合わせて切り、袴は「切り袴」。
つまり、すべて大人の衣装の裾を切って使っている。
私邸での普段着には、「切り袴」に薄物の単衣を短く切ったような「衵」(あこめ)のみ。
衵は袴の下に入れるので短い。
下図は衵と切り袴という普段着の少女


足はほとんど素足。草で編んだルームソックスのようなものはあったらしい

肩に紐を結わえているのは、「ゆだち」といって、肩の袖つけの縫い目をわざとほころばせ(多分、動きやすいように)、組み紐を通して結んでいるもの。

以上、下手な落書きですが、一応、イメージにはなるかと思います。

知っておくべきことはこの時代、というか、ずっと近代まで女性には下着はなかったのです。
つまり、袴は今でいう「下着のパンツ」。薄い単衣や衵を下着みたいに袴の紐の下に入れ、大きな雨合羽みたいな上着(汗衫)を羽織るだけ。

ですから紫式部日記にも書かれているように、強盗にガバッと衣装をはぎ取られてしまうと女性は丸裸状態。
ですから、光源氏は簡単に「空蝉」や「おぼろ月夜」と関係を持つことができたのです。
また風邪で大勢の人が亡くなったのも、そもそも下着すらなかったからだという研究者もいます。

着物に詳しい方からは「違う」と言われるかも知れませんが
平安時代の少女の服装をイメージする手助けになる程度の記事だと思ってください~





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