《SAO》サービス開始マジでおめでとう ~SAO、コードギアス、ギルクラ、Charlotte~(liang)

※当然ネタバレに満ちています。作品の核心に素手で触っていきますので、未見の方はご注意ください。

 ――これはゲームであっても遊びではない。
 もはや言うまでもありません。ライトノベル『ソードアート・オンライン』(以下SAO)の一節です。
 大変喜ばしいことに、今日、2022年11月6日は、作中でMMORPG《ソードアート・オンライン》のサービスが開始された日です。それに合わせて、ライブや展覧会などさまざまなイベントが企画されています。
 となれば、一介のSAOオタクである筆者としても便乗せざるを得ません。
 同じ「無力な主人公が力を持つ」系の作品であるコードギアス、ギルティクラウン、Charlotteにも踏み込みながら、キリト(敬称略)の強さと孤独について考えてみたいと思います。

 とりあえずシリーズを二分割しましょう。
 つまり、八巻までと九巻以降(アリシゼーション)に分けて、前者を初期SAO、後者をアリシゼーションと呼ぶことにします。

 初期SAOにおけるキリトの強さは……うん、言うまでもないですね。強いです。めちゃくちゃ強い。
 第一巻では世界のヒーローとして、第二巻以降でもそれぞれのヒロインにとってのヒーローとして、キリトさんは大活躍なされます。
 しかしもちろん、キリトは自分で望んで英雄を引き受けたわけではありません。デスゲームにおいてソロプレイヤーが生存するために鍛錬を積み重ねた結果、あそこまでの強さを手に入れたのです。その背景にはもちろん、ソロプレイヤーという自らに課した業や、ビーター(ゲーム《SAO》のβ版プレイヤーで、作中では『チーター』的な扱いをされています)であるという業があります。
 ただしこの強さは、一言でいえば孤独と裏返しの強さです。強いから孤独になるし、孤独だから強くなる。
 一方、第一巻中盤以降では、アスナへの愛情がキリトを強くします。
 つまり、《SAO》プレイヤーを救うきっかけとなったのはキリトの孤独でしたが、結果的に《SAO》プレイヤーを救ったのはキリトのアスナに対する一途な思いだったわけですね。純愛すぎる。

 それではアリシゼーションではどうか。
 言うまでもないですね。キリトさんは一クール以上お眠りになっています。
 キャラ・読者・視聴者が全員「キリト起きろ!!!」と切望するなか、それでもキリトは目覚めません。
 そこで我々は逆説的に気づきます。今まで、どれだけキリトの強さに頼っていたかということに。
 キリトは強い。けれどその強さには、いつも代償が伴ってきました。そのことを忘れて、我々はキリトを神のように思いなしてはいなかっただろうか。
 その問いに至ったとき初めて、我々は「力を持つ者」の懊悩に気づけるのです。

 それでは関連作品を年代順に見てみましょう。
 まずはコードギアス。
 ルルーシュほど孤高の王という言葉が似合うキャラもいないでしょう。「仲間」にすら素顔を隠し、復讐を果たそうと王道を突き進みます。彼の唯一の理解者としてC. C.が設定されていますが、C. C.は不老不死ですから、人間界に真の味方はいないとすら考えられます。
 ルルーシュは最後、「圧倒的な力を持った存在」(ゼロ)という仮面を被って人々の前に倒れます。直後のエピローグでは、ルルーシュの死のおかげで世界にはある程度の平穏が訪れたというような内容が語られます。これには思わず涙せざるを得ませんでしたよね(強制)。
 ルルーシュの例から考えると、「絶対的な力を持つ」ということはイコールで「絶対的な期待/憎悪を背負う」ということでもあるのでしょう。キリトに当てはめても納得できます。しかし結局のところキリトもルルーシュも人間なわけで、力と人間性との折り合いが問題になってくるわけですね。

 ギルティ・クラウン(ギルクラ)はどうでしょうか。
 主人公・桜間集は、はじめ無力な存在として登場します。そんな自分を変えたいと一歩踏み出した先で得たのが、「王の力」でした。
 「友達を武器にする」というきわめてスリリングな設定のおかげで、力を持つこと(あるいは王たること)の代償としての孤独が描かれています。具体的には、過大な期待と憎悪を背負うだけでなく、身近な人の死にも接しなければいけませんでした。
 それでも唯一の理解者はいます。楪いのりさんです。しかし彼女も(集が言うように)「化け物」寄りの存在で、人間界とはかなりマージナルな位置を占めていると言って良いでしょう。
 最後、集は力を失うだけでなく身体機能の一部すら失って、それでもいのりとの思い出を胸に生きていく姿が描かれます。「力の喪失とその後」という点では後述するCharlotteと共通していますが、Charlotteと違い、唯一の理解者までも喪失してしまうのがギルクラの罪深い点でしょう。力を失ったまま終わる二点とSAOとの違いは追って検討します。
 喪失の後を生きていく桜間集の姿は、弱く醜いものに映るかもしれません。ですが、「力」にまつわる栄枯盛衰を描いた作品としては第一級でしょう。
 ギルクラ、好きです。
 EGOIST、超好きです。
 いのり、ありがとう。

 最後に検討するのはCharlotteです。
 主人公・乙坂有宇は無力でクズな高校生です。一部の思春期男女に「能力」が発現するという世界観のもと、「相手の能力を5秒間だけ奪える」という能力を使って生徒会メンバーとの日々を送ります。
 しかし中盤、その能力をもってしても最愛の妹を救えなかったことに慟哭し、逃避行にまで及びます。こういうのギルクラでもありましたね。ていうかCharlotteとギルクラが大分似てるんですよね(もちろん違いはあります。パクリなんて言うのは浅はかです。たとえばCharlotteでは世界を救わなくとも主要登場人物の生存が可能でした)。

 さて、コードギアスでルルーシュは、世界を救うのと引き替えに自分の命を失いました。
 ギルクラとCharlotteでは、世界を救ったあと主人公は力(+α)を失いつつも、かけがえのない何かだけは失っていません。
 では、アリシゼーションでのキリトはどうでしょうか。キリトは死闘の末力を失い、最終的にはまた復活していますが、その果てには大いなる代償がありました。キリトとアスナの二〇〇年分の時間です。
 「現実世界」に帰ったのち、その記憶は当人の懇願のもと魂から消去されます。それで確かに見かけでは「なかったこと」になるのです。ですが、確かにキリトとアスナの二百年は、「現実」に存在しました。リアルワールドとは違う現実に。
 ここでは、魂と「現実」の分裂が問題になります。編集可能な魂に刻まれた内容と、リアルワールド・VRMMO・アンダーワールドすべてを含む「現実」に起こった内容とが一致しないわけです。
 つまりキリトたちは、ある意味で現実世界から周縁化されてしまったのです。もともとSAOというデスゲームをくぐり抜け(てしまっ)たことで周縁化されてしまっていたのが、さらに深化したという形です。

 いやぁ、アリシゼーション、深すぎますね……。

 そろそろ話をまとめましょう。
 力には代償がともないます。たいていは孤独という代償です。
 そして、その力でもって世界を救うとなると、さらなる代償が必要になります。時に自らの力、時に最愛の人、時に記憶、時に時間……。
 ですが、力を持つほどの強さを持ったキャラクターは、そういった代償を支払ってもなお生き続けるだけの強靱さがあります。君のいない世界でささやかな日常を送るにしても、君と一緒に新しい世界に出かけるにしても、主人公たちは立ち止まってはいません。

 というわけで、キリトさんのますますのご清祥をご祈念して筆を置こうと思います。
 SAO十周年、おめでとうございます!!

※こうして見てみると、全作品で主人公に理解者がいるのが不思議です。この事実をもって「こいつらは本当の意味で孤独じゃない!」と言い張ることはできますが……うーん、やっぱり孤独なんじゃないでしょうか。

【著者紹介】
liang
1回生。SAOは原作から入った。1巻は小学校の昼休みを使って読破。キリトさんがアスナさんとイチャチャされるシーンには胸を高鳴らせ、最終シーンには思わず涙をこらえた記憶がある。当時はキモオタを隠していたので、ブックカバーをつけて「難しい本読んでますよ、お前の持ってる青い鳥文庫とは違いますよ」アピールをしていた。キモすぎる。あ、SAOではユウキとシリカ(とGGOのキリトさん)が好きです。


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