短編「COUNT」

 この度、去年9月の文フリ大阪で頒布した会誌「WORKBOOK114」の電子版をBOOTHで販売する事となりました! 怪獣をテーマにした創作4篇に加え、文フリ大阪時には掲載しきれなかった2冊を加えた円城塔単著全レビュー、新入生レビューと盛り沢山な内容です。

 それにあわせて今回、お試しとして、収録されている創作の中から一篇、茂木英世作「COUNT」を無料で公開致します。この作品を読んで気になった方はぜひ、下記リンクからお買い求めください!https://kusfa.booth.pm/items/3648075

 

COUNT

 カチ、コチとどこかから時計の音がする。人が少なくなった世界では、所在不明の音がいろんなものに反響して届いてくる。風が橋げたを震わせながら、マスク越しでもわかる錆びたにおいを運んでくる。
 菓子パンやカップヌードルが詰まったエコバッグを担ぎなおす。ふと空を見上げてみようとしても、目に映るのは網目のように広がった高速道路の裏側だけだった。
 重くのしかかる高架が空を覆い隠している。
 交差する立体道路の隙間、区切られた空の一角に怪獣の頭が見えた。
 出現からはや数か月。今や世界中に林立している怪獣の威容はいまだに動く気配を見せなかった。
ゾーニングされた空のかけらを埋め尽くすそれはピクリともせずに街並を睥睨している。 
ビルを薙ぎ払いも口から火を吐きもしないのにそれを怪獣と形容しているのは俺の前を歩く男の影響だった。
「どうしたの」
 そいつ、宮高は振り返って言った。俺はずれたマスクを直し、問題ないと示すためにもう片方の手を掲げる。
 俺たちは肩の痛みをこらえながら路駐した外車に向かう。宮高が不慣れな手つきでキーを弄って後部座席のドアを開ける。最後のひと踏ん張りと荷物を持ち上げ、席に押し込んだ。
「おかえり」
 後部座席で留守番していたミツキの柔らかな声が汗をぬぐう俺たちにかけられる。
「ブランケットも取ってきたから。使えよ」
 ありがとうと微かな声で返してくるミツキに頷き、助手席にドカッと座った。
「遅かったね、なにかあったの」
「あいつが道を何本も塞いでたんだ。おかげで随分遠回りさせられた」
 車内の時計を見れば想定の何倍も時間が経っていた。
「昨日の夜まではいなかったやつだよ」宮高はキーをさしながら言った。「どっかから来たのか、新しく現れたのか。どちらにせよ、あのサイズだと遠近感狂って面倒だね」
俺は車窓からそびえ立つ怪獣のその威容を目にする。自分がどうしようもなくちっぽけな存在である事なんて高校入学時にはよく理解していたけれど、それをこんな形で改めて認識させられるとは思っていなかった。
「あれ、あ、サイドブレーキこれだこれだ」
「おい大丈夫か」
 運転席に座った宮高はブツブツと呟きながら周りにある機器を弄っている。
「やっぱり外車は難しいよ。見てよこれ、ウィンカー左についてるんだよ」
「それは前も聞いた。変わるか……」
「運転は僕の方が上手いでしょ」
 無免許のくせに、とは言わなかった。人の事を言えた義理ではなかったからだ。俺たちのなかで唯一免許を持っていたトウジが数週間前に消えてからは宮高が運転を担当してくれていた。暇なときに教えてもらっていたのがまさかこんな風に役立つなんてね、と宮高は初めて運転席に座った時に笑っていた。
「ウィンカーとかさ、日に日に交通規則なんて機能しなくなっていくから覚えなくていいし、楽だよ」
 鍵を挿したままの車は探す必要もなくそこらじゅうにあったし、車はガス欠になるたびに乗り換えてきたから、たまに車種による操作の違いに悩まされる事を除けば大した問題はなかった。
「最近さ、見ないよね」不意にミツキが口を開いた。「死んでる人」
「そうだな」
 そして車は発進した。人気のない街並みを走っていると、今どれだけの速度で走っているのか分からなくなる。電柱にぶつかってスクラップになった車、鍵を挿したまま放置されている車、そんなものが流れていく景色はもう見飽きていた。
 鉛色の雲が重くのしかかる空の下、墓標のようなビルが立ち並ぶ色彩が抜け落ちた灰色の世界を俺たちは走り抜けていく。
 雨も降っていないのにワイパーが規則的に視界の中に入ってくる。拭っているのは灰だ。かつてのポンペイのヴェスヴィオ火山の噴火の時は一昼夜火山灰が降り続けたそうだが、この灰はすでに数か月間休みなく降っている。
 降り始めたのは、怪獣が現れた日。
 俺は黙って運転している宮高がいつの間にかマスクを外しているのに気づいて、自分もマスクを外して大きく息をした。この灰が人体に有害なのかどうかは分からないが、吸わないに越したことはないだろうと外に出るときはマスクをつけるようにしていた。
 晴れる事のない曇り空。降り積もる灰、
 遠くで微動だにせずにそびえたつ鮮烈な赤色の体表を持つ怪獣だけが、この世界で生きているもののように感じられた。
「消えちゃうよりいいのに。まだ、死体がある方がさ」
「やりがいないし、嫌気さしちゃったんじゃない。死体もさ」宮高がハンドルを切りながら答える。「せっかくそこにあっても誰にも数えてもらえないんだから」
「そうかもね……」
 そして車内から会話は消えた。疲れの後押しに任せて眠ってしまえばよかったのに、俺はなぜか目を開き続けていた。
 ミツキが死体も残さずに忽然と俺たちの前から姿を消したのはそれから三日後の事だった。俺と宮高はミツキの消失が間違いない事を確かめた後、彼女に割り振っていた分の食料を改めて等分した。

腐れ縁というわけではなかった。出会ってから精々一年と数か月の関係。しかしその一年と数か月を過ごすのには最適なメンバーであることは間違いなかった。
 深見ミツキ、城戸トウジ、一ノ瀬アマネ、そして、———あぁ、いつも下の名前を忘れてしまう———宮高。
 たまたま第二外国語の中国語の授業で同クラスだったことから形成されたこの五人組は、何をするにもどこへ行くにも一緒というわけではなかったが、その分各々の過ごしやすい距離感を全員が尊重して時間を過ごすことの出来る、居心地のいい関係ではあった。
 本当なら四年間、ひょっとしたらその先も続いたかもしれないこの関係性は、あまねく他の全てのものと同じようにある日突然不安定なものとなった。
 あの日の事は鮮明に覚えている。夏の暑い日だった。甲子園開幕まであと十日とニュースで報じていたはずだ。あの速報が流れる前までは。
俺たちは大学の大食堂の角に置かれた一台のテレビに視線を釘付けにさせられていた。俺たちだけじゃない。食堂にいる全員、いや、きっと世界中の全ての人がそうであったはずだ。
 一機の飛行機が羽をもがれた鳥のようにフラフラと揺れ、地上に近づくにつれて大きくなるキーンという飛行音をマイクが捉えた直後、轟音と爆炎が海を越えた遠い国の街並みを駆け巡る。
 その映像がテレビで何度も何度も、繰り返し流されていた。
 俺たちは言葉を発するどころか、動くことすらできなかった。ひたすら繰り返されるその映像をとり憑かれたようにずっと眺めていることしかできなかった。
 かけられていた呪縛をといたのは、チーンという誰かが動かしていた電子レンジの音だった。静まり返った食堂中にその音が響きわたった瞬間、全員がどかっと息を吐いた。同時に喉の異常な渇きを意識した。手元にある水分をむさぼるように飲み、ようやく人心地つけた気がした。
「いや……、しかしなんだあれは」
 ぽつぽつと各テーブルに声が戻り始めたのと同様に、ちょうど俺の隣の席でカレーをスプーンですくっているところだったトウジは絞り出すように言葉を口にした。
「事故……。もしくはテロか」
「ハイジャックてわけ」
「いや、わかんないけど……」
 持ち上げられたスプーンがトウジの口に運ばれることはなかった。とにかく水を飲んでいた。グラスが空になると、トウジはちょっと水取ってくる、と立ち上がった。アマネは割り箸を袋に戻してから、私も行く、とついていった。
 俺は食べかけの親子丼をひたすらじっと見つめていた。喉の渇きはなかった。怖いとすら感じていなかった。ただ、爆音の残響がからっぽな体の中で乱反射していた。
 ミツキは何をしていたのか知らない。トウジ達と一緒に水を取りに行っていたのだろうか。
 ただ唯一、対面の席に座る宮高の姿だけが俺の視界に入っていた。
 テレビの音声は誰かの手によって切られていた。電源ごと落とさなかったのは、その映像を俺たちの世界から切り離すほどの勇気が出なかったからかもしれない。
 宮高はまだ繰り返され続けているあの飛行機墜落の瞬間の映像をずっと見続けていた。まだ何かの力に囚われているように瞬きもせず、感想も述べずに、あらゆる思考をその画面の中に注いでいた。
 だからこの映像に秘められたもう一つの違和感に最初に気づいたのは宮高だった。
「なんだあれ」
 俺は反射的に宮高の顔を見た。その目は一定間隔で爆炎の赤に染まる。宮高は俺の視線に気づかず、もう一度呟いた。
「なにかいる」
「は」
 数舜遅れて俺はようやく、視線をテレビの方向に向けた。映っているのはさっきと変わらない、何十万もの命が刹那にして失われる光景。
「ビル群の奥。黒煙の向こう側」ぽつりぽつりと目標に近づく為の単語が述べられていく。「大きい。とてつもなく」
 そして俺は見つけた。
 最初俺はそれを一枚の絵画のように感じた。遠近法を知らない子供が描いた風景画。見るものの意識まで揺らがせてしまうような、いびつな世界。
 もしくは、精巧な風景画の中に、突然アニメ調のキャラクターが描かれているような、そんな違和感。
 そう思わせてしまう程に巨大ななにかが、その画面の中には確かにいた。
「なんだあれ」
 さっき宮本が口にしたのとまったく同じ言葉を俺は呟いていた。
 それは、黒煙が立ち上り、赤く染まっている空の中でさえ際立つ血のような色合いをしていた。
 まず初めに目についたのは、長い首の上に鎮座する巨大な鰐のような顔。それには目があった。一本一本が巨大な剣のような牙が並ぶ口があった。巌のように隆起した筋肉が、家を何軒も掬いとれそうな程に大きい手が、ビル群をまとめて薙ぎ払えてしまいそうな尾があった。
 それらの部品を持つものを、人は。
 生物と呼称する。
 しかしその事実をこれまで十九年間生きてきた中で獲得した様々な認識から構成されてきた自我が受け入れる事を拒否していた。
 画面に映っているものが全て真実なら、それは隣に立つ数十階建てのビルよりも大きい事になる。
 呆然としている俺の横で宮高はぽつりと呟いた。
「あれはきっと」
 それは正式に観測された中で最初の。
「怪獣だよ」
 怪獣の出現記録だった。

 その日を皮切りにして、様々な姿形の怪獣が世界中に姿を現した。
最初の怪獣の出現から数週間、それについて分かったことはあまりに少なかった。皆無と言ってもいい。
 それでも何とか人が生活を続行できていたのは、どの怪獣も出現以降一切動く気配がなかったからだ。
 瞬きした隙に現れる巨大な怪獣の発生原理とその生態について、数週間かかってなんの情報も得られなかったのは世界中の学者が無能だったからではない。
 そもそも世界中の学者を含むあらゆる人間が連日姿を消していたからだ。
 忽然と、綺麗さっぱり、一切の痕跡も残さずに。
 消失は平等に人々に訪れた。立場も貴賤も問わず、ランダムに。それゆえに世界の運営は瞬く間に立ち行かなくなった。
 世界はいまや一隻のマリー・セレステ号になろうとしていた。
 逸話通り、食べかけの食事や湯気の立ったコーヒーの杯が、もしくは開封されたが寝台の上に残されたままの未使用のコンドーム、水を出しつづける蛇口、鳴りやまない目覚まし時計を残したまま、人々は次々に消失した。
 暴動は不思議と起きなかった。アメリカでは異変が世界中を覆った最初の一週間は各所で強盗騒ぎが続いたようだが、警察の手もかからずに自然に鎮火したらしい。それが再燃したのかどうかは知らない。海外からの情報は早くに手に入れられなくなった。
 混乱はあった。錯乱もした。混迷を極めた。
 けれど人はいつの間にか元の生活に戻っていた。もちろん多くの人が消えて、次の瞬間は自分もその仲間入りを果たしているかもしれないけれど、それでもなるべくいつも通りの生活を続けようとした。
 二重の衝撃が人をおかしくさせたのかもしれない。怪獣という身じろぎだけで容易く命を刈り取る物理的な脅威が機能せず、突然の消失という実感の湧かない終わり方が迫ってきているというギャップが、恐怖を麻痺させたのだろうか。
 俺たちもその例外ではなかった。大学に行くのをやめ、一人の家に五人で身を寄せていた。やがて持ち寄った食糧がなくなると、唯一の免許持ちのトウジの運転で行くあても定まっていないその日暮らしの旅を始めた。
 道中見つけた誰もいないコンビニで食糧を漁って生き繋いだ。サバイバル系の映画だと途中で仲間割れが起こったりするんだろうが、実際には起こる気配もなかった。別に生きていたかったわけじゃないんだろう。ただ、何が要因で死ぬとしても、その時までなるべくいつも通りに暮らしていたかっただけだった。
 だから俺たちは、夏と言えばこれだろうと特に誰が言い出したわけでもなく、花火をしていた。
 それまでずっと同じトーンで行方不明者の名前を言い続けていたラジオから突然なんの声もしなくなったと同時に俺たちは海に着いた。ラジオキャスターの不在なんて気にならずに、今思えばひどくびくびくした態度でスーパーからかっぱらってきた花火セットを取り出して浜辺に向かった。あぁそうだ、あの時はまだ五人いたんだ。
 潮風が浜辺に届ける夜闇を吸い込んだ海の冷たさを、歩くたびに素足の裏を撫ぜる砂の感覚を、タールのような漆黒の海が立てる波音を覚えている。
 立ち入り禁止の柵を乗り越えて、遠くに怪獣がたたずんでいる浜辺で俺たちは花火をした。
 怪獣発生からこっち、ずっと降り続ける灰もその日はなぜか気にならない程度の量で、強い潮風がどこかへ吹き払ってくれたから、俺達はマスクを外して騒いでいた。
 手元から生まれる煙と色と熱は瞬く間に夜闇に溶けていって、俺たちは誰も消えていないことを確認するように次から次へと絶え間なく花火に点火していた。
 だからその騒ぎの場に宮高がいないことにも割とすぐに気づいた。俺の花火から火をもらっていたミツキも、ほんの少し不安の色が混じった表情を照らしながら周囲を見渡していた。
「あ、いた」
 ミツキの視線の先には、一人ポツンと十数歩分離れたところで座っている宮高がいた。
「ひたってんのかな」
 軽く笑って流そうとした俺の声に、ミツキはううん、と返した。
「何かを見てるんじゃないかな……」
 そのままミツキはじっと宮高を見続けていた。俺は何となくそれが気になって、ちょっと行ってくるよ、と気づけば口に出していた。
近づいて分かったが、宮高の手には缶ビールが握られていた。まだ成人はしていないはずだ。一回生のころから酒を飲むやつなんてごまんといたが、これまで宮高が飲んでいるところを見たことが無かったので少し意外だった。
「あれ、こっち来たんだ」
 こっちから話しかけるより早く、宮高が俺の接近に気づいた。
「心配してくれたのかい」
「馬鹿言え、一人でひたってるやつがいたからからかいに来たんだよ」
 俺はズボンが汚れるのも構わず、宮高の隣に座った。
「怪獣をね、見ていたんだ」
 そもそもあれを怪獣と呼び始めたのは宮高だった。公的な名前がつけられるより早く世界中の政府は機能しなくなったし、あんな未知の存在を何と呼べばいいのか誰にも分からなかったので、皆はあれ、とかあいつ、とか指示語であらわしていた。
 宮高と俺だけが、あの巨大な生物を怪獣なんていう子供のころ観ていた特撮の中でしか聞いた事のないような言葉で呼んでいた。
「見てもなにも面白くないだろ、動かないし」
「動いたらもっと面白いだろうけれど、今でも十分さ」
「分かんないな、俺には」
「あれだけじゃないんだよ」そう言って宮高は地平線の先にたたずむ怪獣の左、立ち並ぶ山の方を指さした。「あっちにもいるんだ、ほら」
 確かに、二足歩行で屹立する巨大な怪獣の姿があった。月が隠れていて見えづらいのに、よく見つけたものだ。
「怪獣の数え方ってさ、分かるかい」
「は」
 前置きなしの質問に俺は思わず硬直した。言葉が出ない俺を見て、宮高はビールを一口すすってから続けた。
「怪獣の数え方さ。一頭か、一体か、一匹か、一人か、もしくは一座なのか」
「なんの話だよ」
「さっきから言ってるだろう、怪獣の数え方さ。ねぇ、どう思う」
 俺は思わず宮高の手から缶ビールをひったくって一息で飲み干したくなった。その衝動をぐっとこらえて、俺は首筋を掻きながらとりあえず浮かんできた言葉を返した。
「さぁ……、怪獣なんて架空の存在だし、分からないな」
「そう、架空の存在だった。つい数週間前まではね」
 俺が返答したからか、宮高は嬉しそうな顔を浮かべた。
「しかし今怪獣は確かに現実に存在する。架空の生物の単位は曖昧にだが存在する。しかしその定義を当てはめていいものだろうか」
 そういえば昔読んだ絵本では竜は匹で数えられていたな、とぼんやりと思い出した。
「では実在する生物の数え方は……。一般的に人が抱きかかえられる程度の大きさのものを一匹、それ以上を一頭と数えるが、それも曖昧だ。蝶は学術的には頭と数えるし、サイズで可変なら規格外の大きさの怪獣はこれまでの数え方では適さない可能性だってあるわけだ」
 俺は黙ってその話を聞いていた。黙る以外の選択肢がこのときあったのなら、誰か教えてくれよ。
「つまりね。怪獣は確かに存在する。なのに誰にも計数する事は出来ない。誰にもとらえる事は出来ない。誰にも管理する事は出来ない」
 そう語る宮高の眼にほんの一瞬、羨望の色が混じっているように見えた。
「怪獣はね、自由なんだ」
 滅茶苦茶だった。
 彼が話す内容も、この状況も。あらゆるものが滅茶苦茶で、それを必死に拒もうとしない俺もひょっとしたら滅茶苦茶だったのかもしれない。
 それでも俺は僅かながらの理性を総動員して、唯一思い浮かんだ言葉を口にしていた。
「お前、酔ってるのか」
「酔ってる時ってその人の本性が出るって言うよね。君は僕が酔った勢いで変なこと言ってるって思ってる、もしくは決めつけたいのかも知れないけれど、よく考えたらそのほうが怖くないかな。そんな本性を持ってるやつが隣にいるって」
 宮高はズボンから砂をこぼしながら立ち上がった。
「冗談だよ」
 宮高の顔が今どんな表情を浮かべているのか、俺には分からなかった。見ようとも、分かろうともしなかった。
「さっきの話は仮説でこそありさえすれ、冗談じゃないけどね」
 そう言って宮高は不格好なフォームで空っぽになった缶を海に放り投げた。その放物線はすぐに夜闇に塗りつぶされて見えなくなった。
 ポイ捨て。立ち入り禁止の柵を勝手に越えての花火。
 どうして誰も俺たちをしかってくれないんだろう。注意してくれないんだろう。
 そうすればきっと、世界は元に戻るのに。
 なんて、そんな冗談を振り払うように俺は宮高と一緒に三人の元へ戻った。
 
 灰色に覆われた地上からは空の青さも星の輝きも見ることはできない。それがずっと続いているせいで、この星の外にはなにもないんじゃないかと思うようにさえなってきた。
 遠くにそびえ立つ怪獣の姿が、ここが俺たちの終着点だと暴力的なほどに強く伝えてきている。
 人類は終わりを迎えてあとはただ消えゆくだけだとして、では残った怪獣はいったい何をするのだろう。
今日も変わらず灰が降る町の中を走る沈黙に満ちた車内で俺はそんな妄想を思い浮かべていた。
 別に俺と宮高の間になにか確執があるわけではない。ただ単に運転中は必要最低限しか喋らないという宮高のポリシーに基づいているだけだ。
 人っ子一人、なんなら動いている車すら見当たらない景色が続く中で事故を起こす可能性なんて皆無に等しいと思うが、それでも一応ね、と宮高は法定速度を守って車を走らせていた。
 俺は前列左側の助手席に座っている。昨日外車から乗り換えたが、海外旅行もしたことがない身分からすればやはりこっちのほうが落ち着く。
 ミツキが消えてからも俺たちは目的地のない旅を続けていた。俺と宮高のどちらかが消えても、残ったどちらかは旅を続けるはずだ。明確にそう約束したわけではないが、少なくとも俺が残ればそうするだろうし、宮高もそうだろうとなんとなく考えていた。
 一体幾つの街を越えたのだろう、と暇潰しにそんな事を考えてみた。俺たちのこの車旅に明確な目的があるわけではない。ただ一箇所にとどまっていてはいつか食べるものがなくなる。だから動く。それだけの行動原理。
 案内標識を見れば現在地もわかるのだろうが、視線は上がらない。疑問に感じたものの、どうでもいいと本心では思っているからだ。
「お、見つけたよ」
 宮高の声に応じて俺は視線を動かす。律儀に速度をゆるめてから宮高は指をのばした。その先には煌々と不自然なほどに明るいコンビニがあった。
 俺が頷くと、宮高はそのまま速度を落としていき、ハザードランプまで点灯させて教習所で教わる手順通りに駐車させた。単純にマニュアル通りにやらないとごちゃごちゃになってわからなくなってしまうタイプなのかもしれない。
 車を降りた俺たちは荷物を入れるための袋を幾つかもってコンビニへと向かう。その場違いさに思わず吹き出してしまいそうな明るい入店音に迎えられながら、場違いさも明るさもそれ以上な店内で食糧をかき集め始めた。
 コンビニは街角ごとに存在するが、まだ電気が通っている店舗となると少し限られてくる。どうしても見つからなければ電気が止まって真っ暗なコンビニに入ることもあるが、食べられる状態なのが缶詰しかなかったり、中に入るのにわざわざドアを割らなきゃいけなかったりと面倒ごとが多いので、コストパフォーマンスの点から考えると電気が通っていて食品も冷蔵されたままの店に入る方が圧倒的に効率が良かった。
 万引きのコストパフォーマンス。
 馬鹿な話だ、と思いつつ、よくよく考えればこんな状況自体馬鹿げている。誰もそれを馬鹿にしないのがおかしなくらい、馬鹿げている。
 俺たちは無言で食糧を袋に詰め込んでいた。栄養価なんて考えている余裕もなければ、気にする必要もなかった。こんな世界で長生きしたところでどうなる。選定基準はもっぱら“とりあえず手が進んで胃に入るもの”だった。
 無言が続く。いっそ何の音もしなければいいのに、ガサゴソというわざとらしい後付けの効果音のような作業音が室内に反響していて、それが余計にマスクに覆われた僕たちの口が一度も動いていない事実を強調する。
 ミツキのいたころはこんな無言は特に気にならなかった。きっと彼女のいる場所に戻れば普段通り話せると思っていたから、それさえあれば安心できていたから。
 けれどもうそれはない。
 俺はついに耐えかねて、二、三度つっかえてからわざとらしい声を出した。
「あれってまだ動いているのかな」
 宮高は俺の視線の方向に目をやった。天井の隅、そこにあったのは監視カメラだった。
「電気はまだ通っているからね、カメラとしては機能しているんじゃないかな」宮高は僕の方に向き直った。「気になるのかい」
「なんとなく、悪い事をしている気分になるんだよな」
 もちろん、平時なら言い訳も弁明のしようもないほどに悪いことを俺たちはしているのだけれども。
 宮高は呆れたように笑った。
「君らしいね」
 そのまま彼は調子を合わせたように話しはじめた。
「監視カメラ、GPS、いたるところで求められるサイン。価値ある不自由を望むものも許すものもいなくなった今、人の人による人のための人を縛るシステムは抑止力としての機能を失ったわけだ」
 俺はポテトチップスを数袋まとめて放り込んで返す。
「その言い方だと人類は皆ドⅯみたいだな」
「大した違いはないさ。快楽を得るか、安全を得るか。相違点はそれだけだ」
 よく喋るな、と俺から話を振ったくせに酷いことを考えた。ひょっとすると宮高も同じ心境だったのかもしれない。
 しかし少なくとも怪獣があらわれる前は積極的に話題を展開するタイプではなかったはずだし、五人で消え行く世界をフラフラしている時もほかの奴らと話が弾んでいるところを見た覚えもない。
 もしかして、いやもしかしなくてもこいつと一番喋っているのは俺なのか。
 そういえば。
 いつだったか、そうだ、怪獣があらわれる数か月前、一年生と二年生の間の休みに皆で免許合宿に行こうという話になった時があった。その時宮高はバイトでいなかった。
「宮高くんも来るかな」
 ミツキがスケジュール帳を見ながら呟くと、アマネが即答した。
「来るでしょ、こいつもいる、って言えば」
 そのこいつが俺のことであると気づくのに数秒かかった。
「え、なんで俺」
「え、だって宮高、あんたのことお気に入りじゃん」
 初耳だった。
 ほかの二人も頷いている。知らないのは俺だけらしい。
「気に入られるようなことしてないし、きっかけも覚えがないんだけど……」
「私も理由は知らないけれど、見てたらわかるよ。なんかウマ合うんじゃないの」
 結局免許合宿に行く話はうやむやになってトウジだけが一人で免許を取りに行ったし、宮高が本当に俺を気に入っているのか、本当だとしてどこをどういう意味で気に入っているのかも分からなかった。
 そんな事を思い出した俺がなんとなく警戒した眼を向けているのにも気づかず、宮高は話を続けた。
「人の本能は壊れているという説を知っているかな」
「壊れている……」
「破綻している、と言い換えることもできるかな」
 唐突な言葉に俺は馬鹿みたいにオウム返しすることしか出来ず、宮高は微笑みながら反射してきた言葉を受けた。
「人は他の動物と違って未熟な形で生まれる。だから親は赤子を保護し、危険な現実をシャットアウトする。しかしこれは子供と現実の乖離、すなわちゆりかごのような安心安全の偽りの環境下で子供は本能と肉体を成長させることに繋がる。そうして獲得した本能は現実では当然何の役にもたたない。安心安全な世界など存在せず、そこで得た本能では現実には適応できないからだ」
 突然はじまった講義に思わず俺は動きを止めてしまうが、それに構わず宮高は適当に五〇〇ミリリットルのペットボトルをエコバッグの中に放り込みながら話を続けた。
「ゆえに人は本能に従って生きることはできない。けれど無視することも出来ない。そんなジレンマを解決するために人は様々なルールを作り上げた」
 ペットボトルの入ったケースのドアを閉めてから、彼は頭上にある監視カメラを指さした。
「監視することもその一部だ」
 芝居がかったそのしぐさに思わず笑いだしてしまいそうだったが、顔の筋肉は動かなかった。眼球だけが、彼の動きを追っている。鼓膜だけが、彼の声をとらえている。
「より正確に言えば監視し、監視される。自由を差し出す代わりに安全を得る。人が本能との折り合いをつけるために作ったルールは複雑化し、発展し、やがて一つの現実を規定する。それをなんと言うかわかるかい」
 俺は何も答えられなかった。
「文化だよ。人によって生み出された現実。人はその現実を構成するルールに準じて生き、思考し、その延長線上にある可能性をつかんで発展させていく」
 宮高は自分で自分の問いに答え、意地悪そうに笑った。
「自然からの発展系であったはずの文化は科学技術の発達により変容し、それは社会、現実のあり方を変えることを意味する」
 人の環境を、人の価値を、人の意味を、人の考え方を、人の在り方を。
変えてしまう。
「その潮流の中に、虐殺、ホロコーストとIBM、システムによる人の管理もあった」
 宮高はささやくように言葉を紡ぐ。今もし誰かが自動ドアを開けて入ってきたら、風に流されてもう二度と見つけることの出来ないような言葉を。
「ホラリスシステムというものを知っているかい」
 俺は首を横に振る。宮高はそれを予想していたように間髪入れず続きを語り始めた。
「かつてアメリカの国勢調査は十年に一度、それも個々人のパーソナルなデータについての記録はなく、ただの人口計測にすぎなかった。しかし集計はすべて手作業で行われ、調査の結果が出る前に次の調査が始まってしまうのではと危ぶまれるほどだった。それを変えたのがパンチカードと、それを利用したホラリスシステムだ。ホロコーストを管理された虐殺に仕立て上げた仕組みさ。何十万にもの人間に番号が振られ、あらゆるデータが打ち込まれたパンチカードがシステムによって識別され、管理された。情報の系統化。その延長線上でそれは起こって、今に続いているのさ」
 この話が一体どこを終着点として走っているのか、俺には分からなかった。
 宮高はそれを察して説明を続けた。
「人は計数されている、ということさ」
「計数……」
「個人の特性という不安定なものは計数可能なデータとして確定させられた。社会の管理と運営という目的の為にはおよそ十分なレベルでね」そこで宮高は一息ついて、「ではこれが人の手以外、仮に神と呼称しうる絶対的な他者によって宇宙全体に対して行われていたとすれば」
 どうかな。
 俺はなにも返せない。すでにこの話は俺の思考の射程距離をはるかに超えていた。
 神。
 神といったのか。
 宮高はそんなからっぽになった表情を浮かべている俺に目線を合わせるためにしゃがみこんだ。おもちゃを買ってもらえなくて愚図っている子供を優しく諭すように。
「……話、飛びすぎだろ」
 俺の言葉を聞いて宮高は笑った。この状況とも彼の印象とも似合わない、快活な笑い声だった。
「いいや、飛躍していないとも。文脈はきちんと繋がっているのさ。三次元存在である僕達が低次の平面的空間を介して自分たちの情報を確定させたのなら、僕たち自身がより高次の存在による記録ではないとする絶対的な論理はない」
「いや……」
 あるだろ、とは続けられなかった。本当にあるのか。一体どこに、どんな形で。
「怪獣の出現、人類の消失。これはきっと一人からはじまったんだ。あらゆる目をかいくぐって行われた、たった一人の記録の抹消から。それが彼か彼女なのかも分からない。もう確かめる術もない。その人物に関するデータは綺麗さっぱり消えてしまったんだから。この世界のあらゆるデータベースから、この宇宙の記述から、アズラーイールのノートからも、死とはまた違う形で」
 彼はこの時間を楽しんでいるようだった。
「世界はきっと慌てただろうね。絶対に消えないインクで書いたはずの情報が、修正液でぬりつぶすでも、二本線を引くのでもなく、突如真っ白になったんだから。空白は確かにある。存在するのならば世界はそれを計上しなければならない、しかしそのために必要なデータがない。起こりうるはずのないジレンマ。几帳面な世界はなんとかそのつじつまを合わせようとして、生み出してしまったんだ」
 そこで俺はようやく宮高が言おうとしていることを理解した。
 これはサービス問題だ。ヒントはすでに与えられていた。
「存在するけれど、計上しなくていいもの。すなわち」
 怪獣を。
「それは特例、一度限りの措置として処理されるはずだった。けれどそんなイレギュラーを抱えたシステムが正常に動くはずがない。小さなズレはやがて致命的なバグとなり、全体に波及した。一人の消失がもうどうしようもないところまで広がってしまったんだよ。正常なデータ、記録、つまり個人はバグに侵され、変容していく。計数されざるもの、あらゆるくびきから解放された存在へと」
「なんだよそれ」
 それってつまり。
「つまり」
 消えた人が。
「怪獣になるということさ」
「信じられるか、そんなこと」
「もちろん仮説さ。けれどこれだけは確かだよ。人が消え、怪獣が現れる。人がこれまで構築してきたシステムはミクロ、マクロ、どちらの視点においても完全に機能しなくなった、ということはね」
 俺は言い表せない不安に身を包まれて、すがるように宮高の眼を覗き込んだ。 
 そこに狂気的な爛爛とした輝きはなかった。
 そこに夜闇を煮詰めたようなうつろな影はなかった。
 その瞳は正常だった。
 どこまでもフラットな彼の言葉と同じように。なんの乱れもなく、日常の延長線上の会話であるように宮高は話し続けていた。
 彼は正気を宿した瞳で俺を見ていた。
正気を宿した声で俺に語りかけていた。
 そうと理解しているのに、俺は彼にこう尋ねようとした。いいや、決めつけようとした、そう思い込もうとした。
 お前イカれてるんじゃないか、と。
 宮高は俺の視線を振りはらうように立ち上がった。もうその瞳の色を見る事はできなくなった。
「そろそろ今日の寝床を探しに行こうか」
 その言葉に促されて俺たちは外の世界へと戻っていく。
 人がおらず、怪獣が跋扈する世界へと。

記憶と判別のつかない、夢と理解できる夢がある。
 今が俺が見ているのがそうで、だからそうと気づいた時、ほんの少し勿体無いなと感じた。
 俺の前には、ミツキがいたからだ。
 背景も曖昧で、空気の流れが感じられない不出来なセットの中で、ミツキの輪郭だけが夢の中の存在なのに妙にハッキリしていた。
 太線で強調されたようなミツキは、小学生の風景画のような杜撰な背景に目をやって呟いた。そこには怪獣が描かれていた。
「あれがほんの少しみじろぎしたら、一体どれだけのビルが倒れるんだろう」
 不意の言葉にも俺は驚かない。それは世界がこんなふうになってからミツキがよく口にしたフレーズだった。
 もしあれが動き出したら。
 そんな妄想を唐突に。
 特別ネガティブだったり悲観的なイメージはなかったけれど、こんな状況ならむしろそんな風に考えるのが当然かもしれないと思って、俺は曖昧な相槌しか返してこなかった。
 けれど俺はこの時、これが夢の中だと分かっていたからか、特に考えもせずに口を開いていた。
「まさに怪獣って感じがするね。今はまだ動いてないし」
「怪獣……」
 一瞬の間。
「怪獣」
「うん」
「あれを怪獣だなんて呼んじゃいけないよ」
 その言葉にはなんとなく、なんて誤魔化すのが躊躇われるくらいには確かな怒気が混じっていた。
「けど、あれを言い表すのには怪獣が一番いいかなと思って」
 俺は軽く答えた。
「やめてよ」
「どうして」
「認めたくないから」
 どうせミツキの出てくる夢を見るのなら、もっと眩しい感じのが良かった。
 そんな思ってもいない願望を誰かへの言い訳として心のどこかに置いてみる。
「認めたくないって言ったって、あれは存在するよ。俺たちの世界に確かにいるよ。日常の延長線上でも内側でもなく、俺たちと同じレベルで」
「それを認めちゃいけないよ」
 聞いたことのない声だった。俺の想像力の豊かさも大したものだ。
「皆日常が大切なんだよ。なのにどうしてそんなに簡単におかしなものを受け入れちゃうの。壊れちゃうんだよ、狂っちゃうんだよ」
 ううん。
「そんな人たちこそ、私達の認識を変えちゃうんだ」
 私達。
 アマネ、トウジ、ミツキ、宮高、そして俺。もしくはその五人を含む人類。
 何の引っかかりもなくすぐにこの定義を想起できるその言葉は、けれど一体誰が保証してくれるものなのだろう。
 俺と宮高を残して他の三人は、人類は消えてしまった。
 なぜかそのことに関して俺は特別な感情を持たない。悲しむべきか、悼むべきか、呪うべきか。いろんな選択肢が思いつくが、それらすべて“そうすべき”ものなのだろうなという想定の上に成り立つもので、道理も論理も倫理もすっ飛ばして感情のままに取ろうとする行動ではない。
 居心地のいい関係だったのは確かだ。
 一緒にいて楽しい関係だったのは確かだ。
 突っ込んでもいいなと思えるラインにまで突っ込み、ここが帰還不能点だと察すれば適当に話を流して、お茶を濁して、残った燃料で次の話題に飛んで給油する。
 特別ではないが、それが出来る関係というものは非常に少ない。多くの場合は見極めをミスって領空侵犯後互いに警戒体制を敷くか、そもそも他人の心に一切踏み入らないかの二択だ。
 個人的には後者の方がより多く感じる。誰がどこに警戒ラインを引いているか把握するのは困難だ。勿論その線引きを完全に理解する、もしくは越えてもアラートがならないほどの交友関係になるという手段もあるだろう。
 けれどそれは、どうしようもなく面倒だ。
 つかず離れず。遠からず近からず。帯にもたすきにも使える長さ。
 それは非常に繊細で、例え一度その距離感を掴んでもふとしたきっかけで位置取りを間違えてしまうことも、そもそものラインが揺れ動くこともある。
 それなら最初から近づこうとしなければいい。どうしようもなく遠くから最低限の言葉だけを風に乗せて伝えていればいい。その人がそこにいるということさえ分かっていれば手間はかかっても問題はない。
 それも面倒な作業かもしれない。けれど面倒以上には発展しない。
 不自由な生き方だ。けれど生きてはいける生き方だ。
 そして俺はそうやって生きてきた。たくさんの人と同じように。
 ただ、不自由に生きることを選んだ。
 そんな俺が、怪獣なんて言葉を使っている。
 理不尽で不条理で非日常的な言葉を僕は受容している。
 望んでいた……。違う。
 俺はきっと、動かされていたんだ。知らず知らず、気づかぬうちに。
 宮高という男が言葉を乗せる風に押されて。
 免許を取ってすぐに、ドライブデートの練習だと僕を助手席に乗せて日帰り旅行に連れて行ったトウジでも。
 僕の想いを知っていて、ミツキと二人きりになれるようたくさん気を回してくれていたアマネでも。
 そして、そう、確かに俺が想いを寄せていてミツキでもなく。
 俺は、下の名前もはっきり覚えていない男との意味も中身もない会話によって、動いていた。俺がいると信じていた場所から遠く離れた、怪獣なんて言葉を受け入れられてしまうところに。
 誰の心にも触れない場所でもない。過度に刺激しない絶妙な場所にでもない。
 そこがどこなのか理解するより早く、俺は目を覚ました。

「よく眠っていたね」
 宮高の声が今俺が認識している世界が現実だと証明してくれる。
 エコバッグから天然水のペットボトルを渡してくれた。一息に半分以上飲み干してようやく意識が鮮明になる。
 廃ビル――そうでない建物なんてもう世界のどこにもなかったが――の屋上に俺たちは寝床をしいていた。
 高所を選んだのは、あの灰は地上にたまりやすく一定の高さを超えると風さえ吹いていればマスクを外しても問題なかったからだ。流石に眠る時くらいはマスクを外して気持ちよく呼吸をしたい。
 そもそも実際はあれが本当に灰なのかどうかも分からずにいる。なんせどこにも火の手が上がっていないのに地上を覆い隠さんばかりの勢いで降り続けているのだ。
 もしくは、とこんな馬鹿な話も考えたことがある。
 つまり、初めて怪獣が現れたあの日、墜落した飛行機の爆発で空に舞い上がった灰がいまだに降り続けている、なんて妄想を。
 ホームセンターからかっぱらってきた災害時用のランタンのLEDの光に横顔を照らされながら、宮高は屋上の柵の前に座っていた。目線の方向を辿れば、そこにはまだ機能している街明かりに照らされたいくつもの怪獣のシルエットがあった。
 その距離は今手にしているペットボトルを投げれば当たりそうなくらい近くにも、息を乱しながらどれだけ走っても決してたどり着けないほどの遠くにも感じられる。
「あれが今動き出したら」俺はもう一口水を飲んだ。「俺たちはお陀仏だな」
「そんなに日は経っていないのに、なんだか懐かしいフレーズだね。夢にでも出たかい……」
「出てたとしても覚えてないな、夢のことなんて」
 ランタンを挟んで俺は宮高の隣に座った。無音の街並み。なのに明かりはついていた。そのギャップが俺を饒舌にしたのかもしれない。
「ミツキも、あの群れの中のどっかにいるかもしれないのか」
「かもね……、探してみるかい」
「見つけてもな……、自分より身長が低くないと、なんてこだわりはないけれど、流石にあのサイズは抱けないしなぁ」
 俺の隣で吹き出した声が聞こえた。つられて俺も笑ってしまった。自分の言った冗談で笑うなんて、下の下だ。
「意外だね、そういうジョークも言うのか」
「さぁ、それこそバグったのかもな」
 まだ口角が上がったままの宮高に俺は冷静ぶった口調で返す。貴重な形勢逆転の瞬間だった。
「けどまぁ、もしあいつらが動き出して、踏み潰されて死ぬのなら、ミツキの足が良いかな」
「惚れた女に殺されたいってやつかい……、古風だね」ようやく落ち着いたのか、宮高はいつもの調子で続けた。「けれど残念ながら、怪獣は人を殺さないよ」
「解放している、なんて言うんじゃないだろうな」
 ああ、俺は本当にバグっているのかもしれない。狂った俺は思いつきと等速で言葉を口にしていた。
 宮高はゆっくりとかぶりをふった。
「まさか。そんなのじゃないんだ。怪獣が踏み潰した人は、薙ぎ払った人は、死亡者としても行方不明者としてもカウントされない。実名報道も捜索願いも出されない。死がただのパラメータの変数のうちの一つであり、人の状態の一種なら、怪獣に蹂躙された時、人は新たな変数を得るはずだ。それは最もプリミティブなものであり、そこでようやく人は至れるはずなんだよ。ハイコンテクストの向こう側に」
「そりゃまあなんともおめでたそうなことで」
 俺は肩をすくめる。宮高はさっき受けた講義の感想を話すように、壮大な世界の仕組みの一端について語る。しかしこれも所詮は彼の仮説に過ぎない。すべて全くの間違いで、事態はもっとシンプルな現象な可能性だってある、いやむしろその確率の方が高いだろう。
 そうなれば彼のこの見当違いの仮説は無意味だ。無意義だ。無価値だ。
 けれど今こうして話している時間は、必ずしもそうではないはずだ。
 だから俺は林立している怪獣を顎で示した。
「けれど怪獣はまだまだおねんねしてるみたいだな」
「もちろん」
 宮高は穏やかに応えた。
「何世紀、何万年ぶり、いやひょっとしたら霊長としてはじめて自由な躯体を得たんだよ。あらゆる計数から、管理から逃れた体による真に自由な認識。人の脳、意識のそれを受容するエリアの処理能力も規模も、もうとっくに縮小してしまっているのさ。それなのに突然身にあまるほどの自由を手に入れて、パンクしているんだよ。人の脳を犬にのせてもろくに動かないように、いやこの場合は逆かな。とにかく、人の脳は自由を謳歌できる体になれていないんだ」
 けれどね。
「いつか人の脳は適応する。僕達の思う以上に脳というやつは柔軟だからね。それがいつかはわからない。何十、何百、何万年後かもしれないし、ひょっとしたら数分後かもしれない。その時、怪獣は動き出すのさ」
「けれどもうその時人はいないだろう」
 俺は率直に返した。
「いったい怪獣は何を壊す」これだときっと答えは返ってこないだろうと思って、俺は問い方を変えた。「お前はどう思う」
「さぁ」
 彼は笑った。
「可能性なんて架空のもの、どう数えればいいか分からないからね」
 だから、と彼は続けた。
「僕はずっと待ち続けるつもりだ。答えを得られるその時を」
 静かな宣言に俺はただ一言、そりゃ大変だな、と返した。
「君もつきあう必要はないんだよ」
 俺は思わず吹き出しそうになった。なんだそりゃ。最後の最後でこいつは不安になったのか。
 冷静になって考えればなにがおかしいのか、微塵もわからないだろう。
 けれど今はそんな宮高が見せた隙とも言えない隙がおかしくてたまらなかった。
「つきあってやるよ、じゃなきゃ寂しいだろ」
 俺は笑いをこらえながら続けた。
「俺はお前のお気に入りらしいからな」
 宮高ははじめて驚いたような顔を見せた。
「誰が言ってたの」
「あいつらの共通認識だったらしいぜ。直接言ってきたのはアマネだったけど」
「気に入ってるつもりはなかったけど……」
 宮高は誤魔化すように首筋をかいた。
「気になってたのかもね。君は多分僕と最も遠い人だったから」
「近い人、なんて言ったらキモいって返してやろうと思ってたけど、違うんだな」 
「近い人はそれだけ僕と同じってことだろ。興味はそんなに……」 
 大真面目な返答に俺はついに耐えきれず笑ってしまった。  
最初は怪訝な顔をした宮高も、ついには何がおかしいのか説明もできないだろうに、馬鹿みたいに笑い始めた。
 俺たちは笑い続ける。俺たちは考え続ける。俺たちは歩き続ける。俺たちは生き続ける。
 そうして宮高は待っている。
 そうして俺は待っている。
 その瞬間を。
 これは永遠ではない。カウントダウンはもう始まっているのだ。
 世界のどこかにあるタイマーは、今も時を刻んでいる。
 カチ、コチ、というカウントダウンの音がいつか怪獣の咆哮に変わる日を。
 俺たちはずっと待っている。

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