見出し画像

森下 英嗣「地域を守る技術」

1.森の便利屋さん

八ヶ岳山麓のなだらかな傾斜地に広がる高原地帯、長野県諏訪郡原村(はらむら)

林のなかには自然と調和したペンションや別荘などが点在し、この地域は八ヶ岳山麓の避暑地として知られている。

8年ほど前から、森の便利屋さん アットホーム原村という雑事の代行業務を行っているのが、森下英嗣(もりした・えいじ)さんだ。

画像1

木の伐採から蜂の巣の駆除、庭の草刈り、キツツキ除けの対策や穴の修理、そして煙突掃除に至るまで、文字通り「便利屋」として地域で活躍を続けている。

とくに木を解体するように、上の方から少しずつ枝を切って撤去していく「特殊伐採」という高所での木の伐採作業を得意としている。

画像2

「3年前、大型台風が襲来し、たくさんの木が倒れてしまったんです。以来、急激に木の伐採依頼が増えて、いろいろ経験しているうちにどんな木でも切れるようになりました」

現在では、「倒木などの被害が起こる前に敷地内の木を伐りたい」という依頼も多いようだ。

災害のリスクを減らすことはもちろんだが、木を切り倒して日当たりが良くなることで、村の人たちから「ありがとう」と感謝される日々に森下さんは喜びを感じている。

こうした技術は全て独学で学んだと言うから驚きだ。

そして何より、サラリーマンだった森下さんは、脱サラを経て家族5人でこの村へ移住した。

いったい森下さんはどんな半生を歩んできたのだろうか――。


2.サラリーマンとして

森下さんは、1973年に愛知県春日井市で2人きょうだいの長男として生まれた。

小さい頃は、おとなしい性格でミニカーが好きだった。

特にプラモデルをつくることが好きで、夢中になって組み立てていたようだ。

学生時代はバイクに乗るなどして過ごした。

高校卒業後は、金沢工業大学へ進学し、電気工学を学んだ。

卒業したあとは、「地元に戻ろう」と数社の採用試験を受け、22歳から名古屋市内にあるビルメンテナンス会社へ就職した。

清掃・設備管理・警備などのビル管理やビルメンテナンスを中心とした会社で、森下さんは総合職として入社し、設備管理の部署へ配属になった。

画像11

「新規のビルオナーに、『こういう管理をしませんか』と提案をしたり、そのビルに人を配属して労務管理や給料計算、現場のシフトを決めたりしていました。外注業者を手配して電気の点検を依頼するなど、いわゆる設備管理に関する管理業務全般を請け負っていました」

画像12

入社して仕事のやりがいを感じていたが、次第に社内のIT化が進んでいくなかで、5年ほど経った頃、メーカーと協力してIT化を推進していく部署へ異動になった。

新たに機械を設置することで、夜勤の人員を削減するなど会社のIT化に大きく貢献。

森下さんの業績は高く評価され、給料も上がっていったが、心のなかは曇ったままだった。

「自分の仕事によって、いままで一緒に働いていた現場の人たちが急にリストラ対象になってしまうことに、やりきれない思いを感じていました」


3.副業への道

そうした思いを抱き始めた頃、自動車のホイールの整列具合を示す「ホイール・アライメント」を調整する器具を自ら開発し、オークションサイトで販売を行うようになった。

「当時は高いもので、何十万という値段がついていたので数千円で売り出したところ、飛ぶように売れていったんです。最終的には、月給と同じぐらいのお金を稼げるようになりました。でも、昼はサラリーマンとして働いて、夜になると、製作や商品の発送をしていたので気付けば、睡眠時間2時間ほどの生活になっていたんです」

画像13

学生時代から車が好きだった森下さんは、1995年から2013年まで週刊ヤングマガジンで連載されていた人気漫画『頭文字(イニシャル)D』の主人公も乗っていた“ハチロク”と呼ばれる車種「カローラレビン」が好きで、改造しては5台ほどを乗り継いできた。

「いつかサーキットで走りたい」という夢を抱いていた森下さんは、副業で稼いだお金を使って好きな車を購入するだけでなく、29歳からは鈴鹿サーキットのレースにも出場するようになった。

画像5

『遊びにお金を使えば、自分のなかでバランスが取れるかな』と思って始めたんですけど、2年くらいで辞めたんです。仕事や副業の合間を縫ってレースをしていたんで、体力的に疲れちゃって、楽しかったはずのものが楽しめなくなってしまったんです。何より、どんどんお金をかければ良い走りができるという世界でしたからね」

画像6

私生活では28歳で1歳下の女性と結婚し、3人の子宝にも恵まれた。

あるとき、睡眠時間を削って利益を追求し続ける自身の姿に違和感を感じるようになり、仕事にも身が入らなくなっていたことから、35歳のときに副業を停止。

収入を減らしてでも、仕事に専念していくことを決めた。

「自分のお尻に火を点けるために、家を購入することにしたんです。大きな買い物をすれば、真面目に仕事を頑張れるんじゃないかと思ったんですよね」


4.そして、転機は訪れた

そんな森下さんに転機が訪れたのは、2010年頃のこと。

長男が幼稚園へ入学したことを機に出逢ったママ友のなかで、自給自足で生活をしている人がいた。

その人の家に宿泊し、ありのままの暮らしを味わう「農家民宿」を家族で体験したところ、森下さんは大きな衝撃を受けたようだ。

画像14

「自分で農作物を育てて自給自足の生活を送っている方でした。自家用車も使用済の『てんぷら油』を使って走らせていたんです。そこに泊まったときに、質素な布団で寝かせてもらったんです。最初は、『宿泊代を支払っているのにひどい待遇だな』と思っていたんですけど、そういう暮らしをしていることを見せるためだったんですよね。その人たちは身なりも質素でしたけど、毎日健康で楽しく暮らしていたんです。お金がなくっても楽しく生活できることに気づいたんです」

その人の紹介で島本了愛(しまもと・のりえ)さんが主催するワークショップに参加し始め、ネガティブな感情を解放する「感情解放®」プログラムに参加したところ、上手く感情を吐き出すことができず、「あなたは重症です」と告げられた。

このことを機に「自分で楽しいことをやらないと、このままでは身体も病気になってしまう」と危機感を抱くようになった。

そんなとき、家を探していた森下さん夫妻は、ある建築士が建てた住宅の間取りを見るため、偶然に長野県諏訪郡原村を訪れた。

画像3

「見学した帰りに牧場へ立ち寄ったら、八ヶ岳がすごくきれいに見えたんです。とても良い地域だなと思って、妻と『こんなところに住めたらアパート暮らしでも、十分に幸せだよな』と話していたら盛り上がっちゃって、『思い切って仕事を辞めるかな』という結論になりました」

1ヶ月後には仕事を退職し、家族で原村へ移住。

村内にある自然を体験できるオーガニックレストランでアルバイトとして働き始めた。

この場所は、4000坪という広大な敷地にはレストランや宿泊施設が点在し、住むところから食べるものまで全て自給自足でまかなっていた。

画像8

いくつもの独創的な建物はすべてオーナーが廃材で制作したものだった。

「農作業を手伝ったり家が壊れれば修繕したりしていました。それが現在の仕事の基礎になっているんですよね。当時はアパート暮らしで、家なんて持てると思っていなかったんですが、土地を手に入れることができたんです。レストランのオーナーから『せっかくだから自分で家をつくってみたら』と言われたので挑戦することにしたんです」


5.地域を守る技術

森下さんは、仕事の合間をみては、仮設の家を少しずつセルフビルドで建てていった。

高価な材料は買うことができないため、そのほとんどは廃材を利用した。

解体業者に話をして、建物が壊される前に建具を外しに行ったり、道路工事業者からは砂利を譲ってもらったりしたこともあるようだ。

「実際、住めるようになるまでは1年半かかりました。いまも未だ完成はしていません」と笑う。

画像9

たったひとりで家を建てるという果敢な挑戦に村の人たちは怪しんだが、次第に建物の形ができてくると、その腕を信頼し「庭の草刈りをして欲しい」「家の木を切って欲しい」など、森下さんに仕事を頼むようになったというわけだ。

「将来は、木に関する困りごとを地域で一番解決できる人になりたい」と夢を語る。

画像4

森下さんの仕事は評判を呼び、幸いなことにサラリーマン時代と同程度の賃金を稼ぐことができるようになっている。

確かに、「管理する」という面では、もしかするとサラリーマンのときと同じ仕事なのかも知れないが、大きく異なっているのは現在の仕事が、人々の暮らしのなかに存在しているということだ。

画像10

村の人たちの声を聞き、顔を向き合わせて、汗を流し、ともに喜びを分かち合う。

その結果として、頂く感謝の言葉が、森下さんの明日への活力になっている。

きっとこれからも、森下さんは地域のために、いろいろな「声」に耳を傾け続けていくことだろう。

画像7

地域の人たちの声を受け止め、そこで生じた問題を解決できるのは、森下さんのように地域のなかで暮らしている人にしかできない使命なのだから。


※5枠完売しました

※10枠完売しました

※10枠完売しました

※15枠完売しました

※25枠完売しました

※25枠完売しました




よろしければサポートお願いします。 取材のための経費に使わせていただきます。