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[一語一会の種 #8] Intersubjectivity

Intersubjectivity: 間主観性

もはや信徒と言われても仕方ないくらいであるが,再びハラリ大先生のご著書からの学びの一つである.疑わずにいてはいけないと思うものの,比較的核心をついているな,根本にありそうだなと現時点では感じているので,取り上げておきたいと思う.

間主観性は,もちろん哲学的に議論すると,もっと深いであろう概念である.しかし,その点は今後これをきっかけに深めさせていただくとして,ここでは,ご著書「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」にみられるように,人間が半ば妄想的に主観・想像を共有して,客観と主観に続くいわば第三の現実を作り出しているということ,といった意味で間主観性を取り上げたいと思う.

例えば,私たちは国民として位置づけられ,権威的立場との差は基本的に固定化されている.良いか悪いかはおいておいて,社会保障と罰などのアメとムチによって飼いならされているのだ(これに似たくだりは「ホモ・デウス」の中にあったと記憶している).バーチャルな世界の広がりと力が高まっていくなかで,この傾向はさらに加速していくのではないかとも考えられる.(デジタルの情報は管理と利用が容易であるからだ.)

このことは,私たちが普段暮らしている中では意識することがほとんどなかったことだが,新型コロナの世界的流行やそれに伴うワクチン接種の問題,行動制限の問題,戦争と国民国家の枠組みの問題など,少しずつ身をもって感じた人も出てきた印象はある.もちろん,協力・協調をうまくやっていくための現状ではもっともうまくいく(と思われている)物語として,その国家・民族の間主観的現実は一定機能したのも事実ではあるのだろう.

ただ,幸せの形や多様性などの問題を孕んでいた結果,物語同士の対立が表面化してきている,ということも一方であるように思われる.分断ということもその一つだ.
人々の間主観的に共有する物語の在り方を改めて問い直す,人々が正しい,幸せになれる,と思う方向に大勢を塗り替えていくことは,その仕組みづくりも含めて今後喫緊の問題になっていくのではないだろうか.それが,一定主体的に生きていることの証左になりはしないだろうか,なんてことを考えたりしている.

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