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訪れた国

Episode 3 – Hong Kong 1

 

 1976年に羽田空港から日本航空のDC-8で約4時間飛行して初めて香港へ行った。ビルをかすめるようにして着陸した啓徳空港は薄暗くドブ川の臭いがした。市街地の真上を飛ぶ航空機の安全のために、建物には高さ制限(約60m)がありネオンは瞬かない。どのビルの窓も白熱電球の黄色い明かりで蛍光灯はなかった。

 空港にはハイヤーがあるが、普通はタクシーを利用する。街中のタクシーは2種類あり一つはメーター付き(基本料金はHK$1)で、多くは日本車だが運が良ければメルセデス・ベンツ(D200)のタクシーに乗れた。もう一つは乗車前に料金を交渉する白タクだった(1977年頃?に廃止)。

タクシーは自動ドアではなく(自動ドアのステッカーがある中古車が多かった)、タクシー乗り場にいる子供がドアを開けてくれた。チップ(10セント)をあげて乗り込むとドアを閉めてくれる。街中でタクシーを止めて乗ろうとすると、反対側のドアを先に開けて乗り込む図々しい輩があり、せっかく止めたタクシーを取られることがよくあった。

英語人の多い香港島ではタクシーの運転手に英語が通じたが、九龍側では広東語が必要だった。だから、左右に曲がって(左折ツォチン、右折ヤウチン)、まっすぐ行って(一直去ヤッチクホイ)、ここで(呢度ニド)などを最初に覚えた。数字も買い物のために覚える必要があった。スーパーでは言葉はいらなかったが、普通の店ではいくら(幾多銭ゲドチン)と聞いて店員が独特の口調で答える数字を理解しなければならなかったからだ。

貨幣は香港ドル(HK$)と百分の一ドルのセント(HKC)で、為替レートは1香港ドルが60円だった。日常に使われていた最小コインは小さな黄色いHKC5(ンホウ、タウレン)だ。HKC1は表だけ印刷され裏は白紙の紙幣があったが、決済専用で一般には通用していなかった。波型で小さな真鍮製のHKC20や銀色で100円玉くらいの大きいHKC50コインがあった。HK$1以上のコインも銀色で大きく、HKC20と同じふちが波状のHK$2や10角形のHK$5コインがあった。

紙幣はHK$10以上で、最高額紙幣のHK$500(¥30,000)は普通のお札の倍くらいの大きさがあった(HK$1,000札ができたのは1980年頃?)。街の店で500ドル札を出すと思わず顔を見られる程なので、500ドル札を使うには時と場所を選ぶ必要があった。平均的な給料は1日HK$30くらいで月給HK$1,000くらいだった。

中央銀行のない香港では民間の銀行(3~4行?)が紙幣を発行していた。お札の絵柄はそれぞれ違うが、HK$10(600円)札は緑、HK$50(3,000円)札は青というように金額ごとに基調の色合いが同じなので間違うことはなかった。HK$20(1,200円)札もあり、HK$2コインと共に非常に使い勝手がよかった。HK$100(6,000円)札は赤色で、強盗にあったとき赤い血の代わりに出せば助かると言われていた。

7月(旧暦6月13日)に魯班(ローパン、春秋時代の名工、大工さんの神様)のフェスティバルがあり、建設業者は大きなレストランを借り上げて労務者を含む全従業員(1,000人にも及ぶ)を招待して大パーティを開催していた。夕方から麻雀、トランプなどの賭け事がレストラン中で始まり、夜9時になるとボーイがチャイムを鳴らしながら回る。チャイムを合図に賭け事をやめて食事が始まる。労務者たちがHK$500(給料の半月分くらい)を当たり前のように賭けて、親方連中がベンツの車を賭けていたのには驚かされた。

 香港の朝は早い。公園では暗いうちから年配の人が三々五々集まって散歩したり、太極拳をしたりしている。薄暗い中をごそごそ蠢いているという感じだ。夜が明けて明るくなると、ネグリジェやパジャマにヘアーカーラー姿のご婦人がたが朝食を買いに出歩き始める。明るくなった早朝の街で見る夜具姿は強烈な印象だった。

朝の早い人たちがいる代わりに、子供たちは夜の10時ころまで外で遊んでいた。小さな部屋に大人数で暮らしクーラーも普及していなかったので、宵のうちは暑くてとても部屋にはいられないからだろうか。

 休日の繁華街は歩道からあふれるほどの人出だった。夜になると道路に突き出た瞬かないネオンが街を明るくしていた。しかし、当時の香港に陽気に明るいという感じはなかった。借り物の賑わいのような気がして、何となく危険と背中合わせの繁栄のように見えた。繁華街を通り過ぎるとすぐ場末になって、裸電球のともる裏通りは薄暗く、暗黒街のイメージがあった。少なくとも夜間に観光して歩きまわるような街ではなかった。

 暗い香港を明るい国際都市香港に引き上げたのは、当時のマクルホーズ総督(1971-1982)だ。彼は警察を含む役人たちの汚職を徹底的に取り締まったし、地下鉄路と公共住宅の建設を推進したので香港市民は彼を熱烈に支持した。

1982年5月に4期にわたる総督職を終えて帰国するとき、多くの市民が香港島中環の波止場と九龍尖沙咀の広場に集まった。彼は警官が並んだ通路を外れ人波に分け入って、別れを惜しんで熱狂する群衆と握手を交わしながら去っていった。

 彼は1997年に期限を迎える99年間の租借契約を見据え1979年に北京を訪問し、サッチャー首相が訪中(1982年9月)する道筋をつけたともいわれている。その後、1984年の英中共同声明で1997年の英国からみれば香港返還、中国からみれば祖国復帰が明らかになった。

 九龍半島東端の西貢から西端の屯門まで100kmの尾根伝いの山道に彼の名前は残されており、毎年11月にこのマクルーズトレイルを4人一組で48時間以内に歩きHK$100,000を寄付するというチャリティウォークが開催されている。

1997年7月1日以降の香港が具体的にどう変わるのか誰もが案じていた。しかし、声明が保障している「香港の現状は50年間変えない」という港人治港の一国二制度のお陰で何も変わらなかった。香港政庁から香港特別行政府になって、政府の高官は英語人から香港人に代わったが社会の運営手法は全く変わらなかった。

社会運営の責任者はすべて香港人になったが、香港市民は以前と全く同様の生活を続けることができた。変わったと言えば、テレビで広東語を話す政府高官を見ることが増えたこと、教育現場でマンダリン(普通語)が必修になったこと、中心部で人民幣(元)が使えるようになってきたことなどであろうか。

新しくできた香港特別行政府の立法会は直接選挙と間接選挙による独特の形態でできている。具体的には直接選挙枠と間接選挙の職能団体枠と選挙委員会枠である。直接選挙枠の選挙は一般市民が投票権を行使できるし、職能団体枠では団体理事に選挙権があるので、団体理事に就いている外国人も投票権が行使できた。香港政庁に7年間税金を払い続ければ、外国人も「香港永久性居民身份證」がもらえたので、香港人以外にも選挙権が与えられることは当然なのかもしれない。選挙委員会枠は中国共産党の意向をくんだ委員1200人によって選出されていた。

当時、返還(復帰)から20年くらい後には普通選挙ができるのではないかという希望的観測があった。しかし、2020年の国家安全維持法の施行によって一国二制度は大きく変わったようだ。

かつての仲間たちにはカナダやオーストラリアなどのパスポートを取得してから香港へ戻ってきた香港人と、もとよりどこへも行く気のない(あるいは行けない)香港人とがいる。彼らは香港で働く同じ中国人として仲良くしている。国籍がどこであろうと、どこのパスポートであろうと彼らが気にする様子はない。みんな元気に働いており、職場がばらばらに分かれた今も時々集まって会食をしている。

しかし、わたしが香港へ行くことはもうないような気がする。

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