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ふれる博物館に行ってきました!③

ふれる博物館に行って、点字図書館の歴史について色々聞いたのを今日はまとめてみました。ふれる博物館企画第3弾です!

酢ジュースが大好きなたくです。独特の酸っぱさと果物の甘さのマッチングした味が癖になります!ただ、一つ欠点がありまして通常の果実ジュースや炭酸ジュースと比べて値段が数倍も高いので、苦学生からしたら容易に手が出せない代物です。安く大量に作れるか思案した結果、リンゴをミキサーに混ぜたらうまく出来るのではないか!?と思いつき、作ってみました。そのお味は…ゲロでした。高校二年生の時、感染性胃腸炎を患ってトイレで吐いたあの何とも言えない酸っぱい味と全く同じ味がしました。作っては、ダメ、ゼッタイ。

☆点字訳本を作る大変さ

点字の本の登場は本の登場と比べたらごく最近のもので、展示訳本作成が始まった当時は想像できないほど労力の要るものでした。そもそも訳本を作る以前に著者や出版社への許諾が必要なため、まず手紙やはがきで許諾書を出さなければならなかったらしいです。そのやり取りのはがきが展示されていました。川端康成さんや志賀直哉さんなど著名な方の直筆はがきが残されていました。(文豪ファンからしたら垂涎モノです)許諾が降りたらようやく作業開始です。以前にnoteで紹介したようにアイスピックみたいな細いやつで打つ機械の登場です。インクと薄い紙があれば刷れる文字の本とは違って点字の本はとても制限が多いです。点字のサイズを必要以上に大きくしたり小さくしたりすることができない、すべてひらがなにしないといけない、ちょっと厚い紙が必要…と制限が多いため、本の冊数が文字の本と比べて3倍以上要します。そのためあっという間に本であふれてしまいます。1冊1冊が広辞苑並に分厚いです。本に埋もれたいと考えたことのある私からしたら本望ですが!

☆点字図書館のスタート

今の日本点字図書館が出来たのは盲者であり、点字訳本の第一人者である本間一夫さんの功労によるものが大きいです。初めは数百部の点字訳本がようやく完成し、盲人の方々に無償で貸し出しを始めました。先ほどもお話ししましたが、一冊当たりの労働コストがすごく高いのでよほど裕福な家柄でない限りできない芸当です。ですが、本間さんは実家の方が裕福であったため家族と共に、訳本の作成に充てることが出来たそうです。「図書館」と名前がついているのですが、木築住宅の家を拡張してそこを図書館にしていました。もちろん、外見が一般住宅のそれと変わらないものだったので見つけるのが大変で、点字図書館に視察に行った人も最初見つけるのが難しかったみたいです。実際の写真を見る限り、ああこれは図書館って一発で分かるわけが無いなと思いました。Googleマップもない時代でしたから、地図を開きながらぐるぐる探し回っていたのかな…と想像しています。いや、目が見えない方だったら棒を指しながらぐるぐる回って探していたのかな…?それほど目が見えなくとも読める本は大変魅力的だったのかもしれません。

☆図書館の発展を支えた方々

図書館運営をするにしては、あまりにもお粗末な部屋割りを目の当たりにして驚いた、株式会社岩波書店会長の小林勇さんがこのことについて記事を取り上げて全国に発信しました。
これが契機となって多くの出版社が協力し、点訳のための許諾の依頼をしなくても発行が出来るようになりました。岩波書店、新潮社、講談社…出版業のドンともいうべき大出版社が牽引して協力していたので、多くの出版社も「うちもやります!」と協力が協力を買い、好循環を招いたのかもしれませんね。そして昭和55年、日本点字図書館の建物が完成されました!外見的にも内装的にも当初の図書館と比べて大きく発展して、来る人はみな大変驚いたと同時に、たゆまぬ努力に大変感服したというお話が残されています。この素敵なお話を聞いて、私は岩波書店出版の本をもっと買おうと思いました。(元々岩波書店何語でも訳したいほど面白い本がいっぱい売ってますよね!)

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