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佐渡島が好きだから

「佐渡島に行こう」
「フォトエッセイを作ろう」
 

Instagramでたまたま出会ったフリーランスの水田さんと共に、昨年の11月に新潟県にある佐渡島へと旅に出た。
 
勢いと感覚に任せて向かった小さな島で、たくさんの自然や文化、そしてあたたかい人たちとの出会いがあった。
そしてその旅のすべてを一冊のフォトエッセイ「佐渡島が好きだから」に綴った。
 
 
人生で初めて自分のことばをひとつの形として残したこの一冊を通して、本当に有難い感想や言葉をたくさん届けてもらっている。


 
 
「文章を書く」ということを始めたきっかけは、大学生最後の年に起きた世界的な感染症の拡大だった。
大学もバイトもなく、なかなか友達と会うことも出来ない。

先の見えない就職活動と自分の将来に、心は重くなる一方だった。
時間はありすぎるほどにあった。
 
そこで始めたのが、このnoteだった。
誰かに届けるとか読んで欲しいという気持ちはなく、ただ自分が日々考えていたことや心の曇りを吐き出したかった。
企業に向けた形式ばったエントリーシートではなく、ただ自分のことばを自由に書きたかった。
 
いざ始めてみると思っていたよりも楽しくて、今日は何を書こうかとぼんやりと考えながらパソコンに向かうことがしばしの日課になっていた。
 
自分の中にあることばを文章にするのはなんとなく恥ずかしいような気持ちもあったが、前向きな気持ちで「どうせ誰も読んでいない」と思うことで飾ることなくありのままを書くことが出来た。
実際、殆ど誰の目にも留まらない文章ばかりだった。
それでもたまに来る、全く知らない人からの「いいね」にはいつもドキッとする嬉しさがあった。
 

文章を書く。ことばを紡ぐ。
誰の目に触れなくても書き続けられる自分が「ことばが好き」という気持ちを証明していた。

これなら、自分にもできるという気持ちが少しずつ強くなった。


学生の頃はただ気持ちさえあればどこにでも飛び込めた。
その肩書を取られたら、「何がしたいか」ではなく少なからず「何が出来るか」を求められる。
 
でも、「自分らしく」とか「自由」とか。
そんな言葉も違うなと思う。
昔は何も分からなくてそんな言葉をノートに書き殴った時もあったけれど。
歳を重ねるにつれて、そんな言葉ばかりを使う大人は、人が大切にしているものを見てくれないと感じることが増えた。

 
自分が自分であればいい。
自分も、自分の大切な人たちも。

 
生きるには、どこかに属したりあてはめられたりしなくちゃいけない時がある。
でも折角生きるなら、自分は自分の形でありたい。
それは何種類あっても、何色あっても。
 
今の私が見つけたその手段のひとつが、ことばだった。
そういうことなんだと思う。
 
初めはただの自己満足。
それでも少しづつ、受け取ってくれる人が増えて。
あたたかいことばまで届けてくれる人も増えて。


「届くんだ」


人生で初めて形にしたフォトエッセイを通して改めて、本当に本当に強く感じた。
 
 
自分のワクワクを止めたくなくて、折角なら何か楽しいことがしたくて「フォトエッセイを作ろう」と勢いに任せて向かった佐渡島。

何者でもなく、ただ勢いだけに任せて来た自分たちを、佐渡島の人たちはとてもあたたかく迎え入れてくれた。
たくさんの人と出会い、大自然に包まれる中で大袈裟ではなく確実に、生きていると心が叫んでいた気がした。
 
私は私でしかなくて何者でもない。
なんの影響力も持ち合わせていないけれど。
 
「楽しそうだからフォトエッセイを作ろう」
という気持ちから
「フォトエッセイを通して感謝の気持ちを届けたい」
という想いに変わった。
 
佐渡島で出会ったすべての人たちへ。
そしてことばを紡ぐこと、旅をすることを後押ししてくれた大切な人たちへ。
 

私が「ことば屋さん」でありたいのは、
ことばが好きだから。
これなら自分にもできそうで、自分の時間を注ぎたいと思えたから。
「届く」瞬間を知ったから。

 
ことばは
心と頭の感覚を表現する、
想いを形にのせるもの。
 
ことばが、時に思いもよらない場所へと連れて行ってくれる。
 
先が見えなくて、楽しくて、好きなもの。
これからどんどん、楽しんでいたい。
 
想いが届く、その瞬間
心が鮮やかに踊る、その瞬間
 
その一つひとつは、私ひとりでは決して出会えない。
受け取ってくれた人がいて、届けてくれた人がいる。

出逢いが感謝と想いをどんどん大きく強くしていく。

宝物はきっとそこにある。
 


くしゃくしゃな顔で笑う、かっこいい大人でありたい。

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