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2021年買ってよかったものリスト 本・漫画編

 2021年に読んで印象的だった書籍を紹介する。

瑠璃の宝石

 (渋谷圭一郎 ハルタコミックス 既刊2巻)

 JKとJDが地球科学の知識を駆使して鉱石を採集する漫画。鉱物学版ヤマノススメといった雰囲気。しかし披露される知識はガチだ。

 われわれがふだん何気なくみている石は「動いている」。
 たとえば町を流れる川の底に溜まっている石は、もともと山中に露出している岩石が風雨を受けて崩れ落ち、重力にしたがって山中の川に転がり、川の流れに乗って下ってきたものだ。下流に届いた石はいずれ海にたどり着く。しかし移動はそこで終わりではない。海底の砂礫も、プレートの活動に巻き込まれて沈み込めばマグマとなり、火山の噴火にともない空を飛び、地層を形成する。
 ところがこの循環は数万年、数十万年をかけて行われるため、一般人がそのへんの石をみただけでは止まっているように感じられてしまうのだ。
 この漫画では鉱物採集を通して、人間をはるかに超える行動範囲やタイムスケールをもつ自然、すなわち地球を相手どることの壮大さ、されど理解可能なものとして解き明かしていく知的営為のおもしろさを伝えている。

 とくに2巻は珠玉の出来栄えで非常に読みごたえがある。
 川で採取した砂に混じっていた微量のサファイア粒をきっかけにサファイアの産出地をつきとめるお話なのだが、川をさかのぼって分岐に当たるたびに川砂を採取・観察・検証し、地道に探索範囲を絞っていく工程は研究者のフィールドワークそのもの。
 話は鉱物学の領域だけにとどまらない。採取地の地名や伝承、昔の地図をもとに採掘のヒントを集めていった結果、現在解明されている自然現象がまだ知られていなかった昔、人々が不可解な自然現象を龍や天狗などの超自然的な存在と結びつけて理解していたのではないかという民俗学的な考証にまで触れており、一つの学問分野が他の思いもよらない分野とリンクする、知っている人にとっては病みつきな、しかし知らない人は一生知らないままかもしれない知的興奮を、漫画という媒体で門外漢の読者にも伝えようとしているのだ。
 
 はじめて表紙を見たときはゆるふわな雰囲気の漫画かと思ったがいやはや、これは大人のまんがサイエンスだ。
 作者の渋谷圭一郎先生は大学で鉱物学を専攻し、理科の教師もしていたというアカデミックな経歴を持つ。本書は渋谷先生の専門知の深さ広さと、学問の面白さを伝える教師としての経験が随所に反映されている。素人にも楽しくわかりやすく研究者の活動風景を伝えてくれる渋谷先生の丁寧で誠実な仕事ぶりに脱帽だ。

宝石商の新人

 (まりむぅ 電撃コミックスNEXT 全3巻)

 鉱物モチーフの作品をもうひとつ。
 宝石のもつエネルギーを活用する都市で宝石の採掘・管理を行う省庁に入省した新人の田舎少女の奮闘記。
 表紙の雰囲気がきれいだったので前情報なしに買ってみたところ当たりだった。表紙買いで当たりを引くと嬉しいよね。

 近年のよくあるゲームを下敷きにしたようなファンタジーではなく、人々の生活面から発想を広げて丁寧に世界観を構築しているのが好感が持てる。
 本作の舞台となっている都市のモデルはおそらくロンドンで、蒸気機関の代わりに宝石のエネルギーを使うようになったらどうなるかという発想から作品を創造しているように感じられた。
 (第1巻巻末の設定資料にも「蒸気機関で産業革命が起きた後、新たなエネルギー源として宝石が各地で注目を集めるようになる」と書いてある)
 世界観萌えの僕の嗜好に非常にマッチしている。

 さてこの作品、とても絵がうまい。とくに背景に曲線的なデザインの構造物が多く、風景画の名画を織り込んでいるかのようだ。これがファンタジーな世界観と親和性が高い。緻密な書き込みとはまた違った方向で作画カロリーが高そうだ。
 人物作画についても男女の別なく受け入れられる絵柄で、過度に萌えに傾きすぎない程度のかわいらしさを保ちつつも、くっきりとした描線で読みやすくまとまっている。
 世界観に合った絵柄でなおかつ読みやすい作画というのはなかなかできるものではなく、本当に作者新人さん? と思うくらい、読めば読むほどすごみが感じられる。

第1巻P133 第5話扉絵より引用

 おじさんはねぇ! ミュシャっぽい構図がねぇ! 大好きなんだよ!!
 この扉絵を見るためだけにコミックスを買う価値がある is ある。
 
 と、ここまではべた褒めなのだけれど、総評的には「すごく惜しい」。全3巻で終わってしまったのがとても残念だ。
 世界観の組み立ても作画も丁寧ですこぶる好みに合っているのだが、ストーリー展開についても同様で、その丁寧さが掲載誌と相性が悪かったのではないかと思う。
 段階を踏んで関係を深めていったり設定がつまびらかになっていく展開のほうが個人的には好きではあるけれど、相方ヒロインをデレさすのに1巻以上かけるのは月刊コミック電撃大王というキャラ萌え嗜好の強い掲載誌では致命的だったのではないだろうか。
 コミックゼノンとかコミックバンチ、あるいはハルタあたりだったら問題にならないと思うので、まりむぅ先生におかれましては丁寧な作品が評価される場所でまた一花咲かせてくださると一読者としてうれしゅう思います。

初代ゴジラ

 (東宝 監督:本多猪四郎 1954年 )

 あまりにも有名な作品で今さら紹介する必要性が薄いうえに本でも漫画でもないけど誤差だよ誤差。
 数世代たった後の怪獣プロレス路線とは違い、初代はゴジラが人類の脅威として描かれているのが良かった。
 そしてちゃんと人が死ぬのも良かった。とくにゴジラに蹂躙され火の海と化した東京で報道のためにテレビ塔に登ったアナウンサーがゴジラからの攻撃を受け、「ものすごい力です! いよいよ最後、さようならみなさん、さようなら」と叫びながらテレビ塔とともに散っていくシーンはこの映画の白眉だ。
 死の間際でもプロフェッショナルとしての仕事をまっとうする立派な人間であろうと死ぬときはあっさり死ぬ。そんな戦争経験者の無常観が鮮明に反映されていて製作陣の自我を感じられた。そう、人は死ぬんだ。
 そこをきっちりと描いているのが僕としてはとても気に入った。初代ゴジラ、傑作です。

戦争は女の顔をしていない

 (原著:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1985年) 訳:三浦みどり 群像社 2008年)

 第二次世界大戦に従軍したソ連の元女性兵士たちへの聞き取りをノンフィクションとしてまとめた2015年ノーベル文学賞受賞作。

 本書は500人にもおよぶ元女性兵士への証言記録を連ねた、オーラル・ヒストリーに近い証言文学だ。
 内容としては、戦争中の酸鼻な光景、戦後に渡って続くPTSD、男性から・あるいは従軍しなかった女性からの差別、戦場における恋愛など、情緒に訴える体験が多く、戦略・戦術の評価をしたり、戦争の政治的意義を論じたものではない。
 しかし、ソ連のイデオロギーに沿った"正統な"作品が軽視してきた感情の歴史、女性の語りに価値を見出し、ひとりひとりの「生」のディティールをすくい上げることに成功している。

 あまりにも胸の詰まるエピソードが多いのだが、そのなかでもとりわけ印象的なのは、戦場で一番恐ろしかったのは男物のパンツを履いていることだと語った元二等兵の語りである。
 さばさばとした口調で語る短いエピソードに、祖国のために命を捧げる覚悟で戦場にいるにもかかわらず男物のパンツを履いている滑稽さ、個性を捨てたはずの兵士になっても女としての感覚が残る矛盾、性別にマッチする下着という当たり前のものすら与えられない状況など、ソ連の女性兵士が直面してきた戦場のリアルがないまぜになっている。

 ひとりひとりの口から語られる生々しいエピソードを呼んでいると、彼女らの苦悩・懊悩、無念・痛痒にじかに触れているような感覚に陥る。読むのにとてもエネルギーがいるのに、ページをめくらずにはいられない、目をそらしてはならないと思わされる本だった。

 本書はそれなりに分量のある本なので、もう少し手軽に読みたい人は小梅けいと先生が作画を手掛けた漫画版にまず目を通すと良いと思う。


「戦争は女の顔をしていない」の文学的意義、アレクシエーヴィチ作品の作風とそのルーツ、大戦当時のソ連の戦時体制について解説しているNHKによる副読本も、本書を理解する上では良質なサブテキスト。

100分 de 名著 アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

 (沼野恭子 NHK出版 2021年)

 通常、証言とは作者の意見を補強するための資料であるが、「戦争は女の顔をしていない」ではあくまでも証言がメインであり、作者自身の地の文や意見はところどころに挟まれる程度にしか書き添えられていない。
 証言とは主観的な記憶によるものであるから当然、思い込みや錯誤はあるのだが、膨大な数の証言(ひとりで行う取材数として500人は相当な人数だろう)を集めることで互いに補正しあい、彼女らの生きた時代の輪郭を浮かび上がらせている。
 このような独創的な手法をもって証言記録が文学であると認められ、「文学の定義」が拡張された点に、本書の文学的意義がある。

 証言文学は社会の言論の自由度によって増補・改訂される可能性があり、実際に本書も2004年に増補版が刊行されている。初版が出版された1985年時点では検閲で削除された内容があり、ペレストロイカ、ソ連崩壊など社会の大きな変化を経て言論の自由が広まるにつれ、かつての証言者が証言の訂正や追加を求めたため、加筆の必要に迫られたからである。
 このように、時代の変化とともに成長する作品、アレクシエーヴィチのいう「生きた文学」の形が示された意義も大きいだろう。

 ひとりひとりの証言を丁寧に拾うアレクシエーヴィチの作風はどのようにして生まれたのか。
 直接的には、大戦期にパルチザン部隊で活動したベラルーシ人作家アレシ・アダモヴィチの執筆スタイルを受け継いでいるが、「小さな人間」や「ちっぽけな人間」に焦点を当てるのは、プーシキンやゴーゴリ、ドストエフスキーといったロシア文学の伝統に根ざしており、そこにベラルーシ人の父・ウクライナ人の母をもち、ロシア語で執筆するアレクシエーヴィチの、複数のスラブ文化を横断する出自が重なって形成されたと言えるだろう。
 アレクシエーヴィチという作家は突然変異的に発生したのではなく、地理的・文化的土壌の下地の上に生まれたのである。

 以上のように、原著を読むだけではつかみにくい特徴や考察が述べられており、本書の理解を促進するための良質な副読本になっている。
「戦争は女の顔をしていない」を読むさいの傍らに置いておく、あるいは事前に100分de名著に目を通しておくと、より深い理解を得られるだろう。

 2022年には岩波書店から同じくアレクシエーヴィチ作品の「アフガン帰還兵の証言」の増補版が発売予定だ。30年以上もの時を経てどのように成長したのか楽しみである。

ソフト技術者の反乱 情報革命の戦士たち

 (下田博次 日本経済新聞社 1983年)

 エンジニアの過重労働、客先常駐による自社への帰属意識の希薄化や、一昔前までよく言われていた35歳定年説は1983年刊行のこの本ですでに言及されている。
 その意味とは、コーディングやテストなどの細分化されて誰でもできるレベルの仕事*1であるならば、給料が安く体力のある若手のほうが重宝されるし、単純作業を繰り返すうちに中堅層に達してしまったエンジニアはスキル的にも体力的にももはや続けていけない、ということである。

*1 コーディングやテストが本当に誰でもできるかどうかはさておき

 しかしそんな木っ端作業が発生するのは、自社では賄えない人員数が必要な工程を他社に外注し、外注された会社も自分たちだけでは人数を揃えられないのでまた外注し……というループを繰り返した結果なのだ。
 なんのことはない、35歳定年説は若手を安仕事に縛り付けておいたほうが都合がいい経営側の論理を反映した言説なのである。
 もっとも、多重下請け構造は依頼元、元請け、下請け、末端のエンジニアそれぞれに一応のメリット*2がある。価値の向上には寄与しないが予算の配分をいい感じに融通し合う生態系としては強固に機能しているのだ。
 (そのへんは過去記事「どうして人売りは発生するんだろう」に詳述した)

*2 合成の誤謬を起こすタイプの厄介な利点

 エンジニア派遣(通称人売り)を中核事業として始めたのは1960年代後半のCSK(現CSKK)だと本書では述べられており、それが事実だとすると、SIerの人売り稼業は50年以上続いていることになる。ブラック労働の温床となっているエンジニア派遣業がずーっと前から根源的なところはなにも変わっていない実態がよく分かる。
 現役エンジニアが読んでも技術的に得るものはないが、IT業界への就職を考えている人に対してこの業界の生態系がどのように機能してきたか、そしてその救いようのなさを伝えるのに役に立つ本。

 余談になるが、1980年代はゲーム産業でスタープログラマーが台頭してきた時代で、本書に掲載されている森田和郎さん*3へのインタビューが興味深く、パソコンが単なる産業機械ではなく作り手の自己表現の手段として浸透しはじめた時代を活写しており、資料的な価値が高い。

*3 旧エニックスのホビープログラムコンテストで大賞を受賞し、のちに森田将棋などを作った人

マグメル深海水族館

 (椙下聖海 バンチコミックス 既刊7巻)

 深海生物を専門に展示する架空の水族館を舞台に、職員や訪問客の深海生物にかこつけたドラマが展開される。

 深海生物には変なヤツがいっぱいいる。
 何億年も姿がほとんど変わらないヤツ、硫化水素をエネルギー源にするヤツ、メスに噛み付いてそのまま同化してしまうヤツ、数学的に美しい形をしたヤツ。
 しかしこの"変なヤツ"という印象も、陸上に生息し、周囲の環境を改変して生き延びてきたホモ・サピエンスだからこその印象で、光が届かず、水温が低く、餌も少なく、交尾相手も容易にみつからない厳しい環境に適応してきた彼らの生態的な多様性は、ときにみるものに勇気をくれる。

 第3巻に印象的な話がある。
 この話では、児童をうまく御しきれず、保護者との関係に悩み、自らの教師としての資質に悩む若い女性教師が登場する。社会科見学の引率で水族館にやってきた女性教師は、日頃の疲労と懊悩がたたり、倒れてしまう。
 幸い命に別状はなかったが、目を覚ましたとき、救護室に居合わせた飼育員に思わず自分の悩みをこぼしてしまう。
 飼育員はオウムガイとアンモナイトの関係を挙げ、逃げればいいじゃないですかと提案をする。一見突き放した提案だが、ここに深海生物を題材にしたがゆえの説得力のある話が展開される。

 アンモナイトはオウムガイよりも素早く動けるため、捕食面で有利だった。
 アンモナイトとの競争はオウムガイにとって生存面で不利であったため、オウムガイは深い海に逃げ込み、アンモナイトは浅い海に君臨した。しかし隕石の衝突により浅海の環境は激変し、アンモナイトは絶滅。影響の少ない深海にいたオウムガイは絶滅を免れ現代にいたるまで生き延びている。
 生き延びるために、自由になるために、今いるところを離れるのは恥ずかしいことではない。逃げた先にはあなたが思っているより広い海があるかもしれないと飼育員の彼は説く。

 逃げるのが情けないというのは人間の一方的な見方にすぎない。生物界では強いヤツがすごいのではなく生き残ったヤツがすごいのだ。
 とりわけ人間の視点からみると奇異に映りがちな深海生物をみていると、今いるコミュニティになじめなくても、はみ出しものであっても、生きていけるし生きていい。世渡りの下手な人も、不器用にしか生きられない人も、その人を受け入れてくれる場所や生き方がきっとある、と励まされているように感じる。
 
 そんな変わったヤツらを物語とともに愛情たっぷりに披露してくれるこの作品が生まれてきてくれて、僕はうれしい。

New 技術・家庭 技術分野 明日を想像する

 (教育図書社 2020年)

 中学校の技術の授業の教科書。

 時代が変わったと認識するのはいつだろうか。教科書の記述の変化もきっかけのひとつだろう。
 僕が現役中学生だった2000年代半ばの公立中学校の技術の時間では、真鍮パイプとパイン材を加工してCDラックを作ったり、はんだごてを使って基盤とケーブルを接着させて手回し式充電ラジオを作るなど、昔ながらの工業製品の製作について学ぶ授業というイメージが強かった。
 いまでもそういう伝統的な内容も掲載されているものの、情報化時代を象徴するように、ビジュアルプログラミングやネットワークの知識についても学ぶ。TCP/IPについての説明が教科書にあったのを見たときは度肝を抜かれた。時代はこんなにも変化していたのだ。
 学生時代、親が妙にズレたこといってるなぁと思う場面がよくあった。さもありなん、大人は教科書が変わるレベル(つまり多くの専門家の議論にさらされても生き残った確度の高い情報)の変化ですら自ら情報収集する癖がなければ認識する機会がないのだから。
 児童の接するものはいつだって時代の最先端なのだ。

高等学校 改訂版 保健体育

 (第一学習社 2016年)

 高校の保健体育の授業の教科書。

 現役学生だったころは受験に関係のない保健体育の授業は毛ほども興味がなかったが、今になって眺めてみると、非常に実用的な知識が書かれているとわかる。
 運動技能の上達過程(練習曲線という用語を聞いたことがあるだろうか)や運動課題の設定の仕方、体力トレーニングの方法など、下手な筋トレ本よりよほど有用な情報が載っている。
 肉体的な面だけでなく精神面の健康についても、脳と神経の働きから解説しているし、欲求不満と適応機制といった心理学的な分野からの知見にも紙幅を割いている*4。

*4 現代では根拠薄弱として批判の多いマズローの五段階欲求説をいまだに載っけているのは教科書としてまずくないかと思うけど

 また、日本の保険行政の仕組みや国民皆保険制度をはじめとした医療制度、労働と健康のかかわりや労働関係法令などの、むしろ学校を卒業してからのほうが自分事として感じられる情報が多く載っており、かつて思っていたよりずっと有益な本だったのだと思い知らされた。
 まあ要するになにが言いたいかというと保健体育の教科書はえっちな本じゃありません!!


 おそらく年末年始の電子書籍のセールで読書家諸賢は積ん読が増えて頭を抱えている頃合いだと思うが、徳を積むと思ってあきらめよう。良いお年を。

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