生きる ~障害と素敵な人々とともに~  ⑴誕生から幼少時代

 誕生

 一九八一(昭和五十六)年七月十六日、父・桑原實と母・和子の第一子として、とても暑い日に世田谷区の某病院に生まれる。

 もちろん当時の記憶はないが、梅雨が明けあまりの暑さに、おかしくなる人も出たという。
 母の話によると、羊水を飲んでしまったために産声をあげずに生まれたそうだ。パシパシ叩かれてようやく声をあげたそうだ。
 あと少しで危なかった。そのため、すぐに保育器に入ることに。生まれた時点で、頂き物のような命だったのかもしれない。

 退院後、調布市の平屋のアパートでの暮らしが始まる。あまりに古いので、出ていくときはおそらく取り壊すとき。のびのびとやんちゃな子供が育つには、もってこいだ。家はイタズラし放題だった。今も部屋にかけられている写真が、それを物語っている。

 障子

 二歳のときに弟・コウジが生まれる。たしかな記憶はないが、初めて弟を抱っこしたとき嬉しかったのは覚えている。子供時代は自分より幼い弟がとにかく可愛かった。成長とともに関係性は変わるが、今でも大切な弟なのには変わりはない。
 弟は輪をかけて元気でやんちゃな子供だった。
 家は今では珍しい造りで、玄関を開けるとすぐに障子戸があった。部屋に入るには、原則その障子を通らなくてはならない。そんなところに障子があって、好奇心の固まりの年頃の男兄弟が、何もイタズラしないわけがない。当然、障子は穴だらけ。
 普通だったらこれまで。ところが、穴だらけにしたり、破っただけでは飽き足りることはなかった。そこまでいったら何をするか。
 さらなる段階にエスカレート。障子の木枠さえも折ってしまった。誰がやったのか?
 実は、当時二歳くらいだった弟なのだ。黙っていたら、まさか二歳の子が折ったとは思わないだろうね。どれだけ元気なんだろうと、思うだろう。相当なパワフル幼児だった。
 そして、そんなボロボロ障子になってしまってからは、大きく開いた穴が、兄弟専用の部屋

への入り口だった。玄関のチャイムなんて鳴れば、ニコニコしてその専用ゲートから身を乗り出していた。子猫のように。

 先ほど、原則障子を通らなくてはと書いたが、天気がいい日など、外で遊んでいたりして縁側から入ることも珍しくなかったからだ。もう縁側なんて、そうそう目にすることはできないけど、それもひとつの遊び道具だった。


 遊びの宝庫

 家のまわりは、遊びの宝庫だった。
 やぶを分け入っていく遊びは、道なき道を行くジャングル探検そのものだった。
 使われていない土管のなかに棲むガマガエルをつっついたり、鳥小屋で遊んだり、おっかなびっくりしながら、動物というものを生で触れる機会があった。ある意味命の勉強になったと思う。
 鉄柵の足元の隙間をくぐってみたり、タイルなどを崩した山やフェンスに囲まれた池も魅力的だった。
 タイルの山は、たしか「宝の山」って呼んでいた。今考えると、何が宝だったんだろう。ただのゴミ山なのに。でも、本当に当時は宝の山だった。気に入った色のタイルがキレイな形で残っていると、海賊が捜しあてた宝石になった。
 フェンスのなかの池は、囲まれているだけに不気味な連想をしていた。巨大ワニが棲んでいるという伝説のような話になっていた。土で黒ずんだ池が囲まれているのは、何かよっぽど恐ろしい獣がいると思ったんだろう。
 これらのワクワクするような遊び場所が、たくさんあった。好奇心や想像力を充分に満たしてくれた。

 秋には、よく落ち葉を拾い集めて焚き火で焼きイモをした。これも、すごく楽しみだった。外で焼いて食べるというのが、たまらなく楽しかった。集めた落ち葉でおいしいものができるのが、魔法のようだったのかもしれない。
 冬は、毎朝ザクザクと地面を踏み鳴らすのが、お決まりの行動。
 どうして地面が鳴るのか? 当時、アスファルト舗装ではなく土の部分が結構あり、寒い日は霜柱が必ず現れるのだ。はっきりザクザクと響くのが、自然の楽器のようで楽しくてしかたなかった。

 おもちゃを買い与えるより、よっぽど飽きることのない遊びがいっぱいあった。 それでも、一度どうしてもいつもと違うことがしたくなった。
 ある日、親たちが「子供たちがいない」と騒ぎに。
 そんなこととは微塵も思わず、公園で遊んでいた。公園で遊んでいること自体は、何でもないのだけれど、普段遊んでいるエリアから飛び出した公園に行ったのだった。
 ちょっと冒険したかったのだと思う。
 かなり怒られたのか、同じ失敗をすることはなかった。二十年以上経った今でも覚えているのだから、よほど印象に残っているのだろう。


 幼稚園

 のびのびと育った一方、幼稚園ではあまり仲間に入っていけず、友達も少なかった。幼稚園から帰れば、遊び仲間が十分いるし、楽しいことがいっぱい待っていたので、新しい仲間を作る必要に迫られなかったからなのかもしれない。
 人見知りというか、内弁慶ぶりが表れていた。その頃から、積極的に人と親しくなるのが下手だった。慣れてくると、かなり様変わりするのだけれど。
 二十八歳にもなって、今はだいぶ初対面でもリラックスして話せるようになった。それでも、時々もうちょっと気の効いた接し方できないのかな、ということがある。どういうわけか、そんな自分が今は、人前で話したりすることが多い。おかげで、だいぶ更正されたのかもしれない。

 園児の友達ができない反面、先生にはとても可愛がってもらった。昔から、年長者のほうが話しやすかった。経験にも差があり、器が違うからだろうか。まあ、甘えが許されるからなんだろう。というか、要はたんに甘ったれだ。


 骨折

 一九八七(昭和六十二)年 あるとき、家で遊んでいて足を滑らせ、大声で悲鳴をあげる。
 何が起こったかというと、滑らせた足が、一瞬に相撲の股割りのように開いて、バキッ!と音を立て、左脚に激痛が走った。
 普段泣いたり、悲鳴をあげることはないので、ただ只ごと事じゃないと、父の運転する車で病院へ。車のなかで横になり、痛さに悶えた記憶がはっきりある。
 日曜ということもあり、専門医がいなかったからか、「痛い! 痛い!」、「大丈夫、大丈夫」と、レントゲンを撮らずに診察終了。家に帰る。
 次の日、おかしいと、再度病院に。レントゲンを撮り診断結果は、やはり左太ももの完全骨折。その後、苦痛は続く。

 骨がまっすぐくっつくように、太ももにブッスリと針金を刺すという荒療法。大人でも悲鳴をあげるらしい。どんな激痛なんだろうかと、思うはず。
 どういうわけか、痛いには痛かったのだろうけど、あまり痛かったという記憶はない。暗示かどうか。痛みが、半分くらいどこかに飛んでいたような気がする。
 初めて我慢強さを覚えたのかもしれない。たしか「男の子だったら、泣かないんだよ」というようなことを言われたと思う。そのとおり? そのおかげ? 泣き声は出さず、悲鳴をグッと飲み込むことができた。歯をくいしばって痛みを堪えていた。
 あとで「こんな我慢強い子は初めてです」と、先生も驚きを口にしたらしい。

 その後もしばらく、針金が刺さっているから、やはり痛い。吊ってある状態なので、膝の裏側に高さを作るものがあててあるのだけれど、少しずれ下がってしまうと、針金だけで脚を吊り上げられるような感じになってしまう。痛みが強く続き、「痛いよ~」と弱々しい声を出し、眠れないこともあった。

 このあとから、走るのが他の子より明らかに遅かったり、縄跳びが上手くできなかったり、足が疲れやすかったりと、筋力の低下が見えてくる。

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