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月の分身                       - 命の大切さ なぜ悪がある 戦争をなくす

 月が物心ものごころついた頃には、地球はたっぷりの水と大気に包まれ青々としていました。

 地球には、草木が茂り、色とりどりの花が咲いては散り、また咲きました。小さな虫が地をい、大きな虫がその上を飛びました。水中に、地上に、空中に、へんてこな生き物が生まれては消え、また生まれました。
 一方、月は、いつまで待っても何の変わりもなく、そのでこぼこの表面は、熱すぎるか冷たすぎて、どんな小さな命さえそこに芽生える気配はありませんでした。

 月は、地球の華やかさとは対照的に、自分が陰気な色合いで、何の役にも立たず、誰からも必要とされていないと思っては、度々たびたびじんわり切なくなりました。まぶしいほどに美しくて、生命の営みがあって、それを、おおむね柔らかな気候で包む地球が、月はうらやましくてたまりませんでした。

 ときどき月は、地球に話しかけてみました。
 「おはよう、地球さん、ごきげんいかがですか?」
 しかし、地球は何も応えてくれませんでした。
 「こんにちは、地球さん、そっちは景色も生き物もにぎやかでいいですね」
 やはり、地球は何も応えてくれませんでした。
 「こんばんは、地球さん、いっぺん月と交代してみない?」
 それでも、地球は何も応えてくれませんでした。

 月がどんなことをいつ何度語りかけても地球はかたくなに黙ったままなので、月も黙ってしまいました。黙ってはいても、月は地球のことが気になりました。わき目もふらず地球に正対する月は、地球がいつも長閑のどかなわけではなく、むごい一面を抱えていることも知りました。ときに猛烈な寒さが、ときに灼熱しゃくねつが、大地と水面を覆い尽くしました。暴れ狂うマグマが噴き出しては有らん限りの地上を一変させました。じりじりと陸地が海に沈み込み海底が山の上に登りつめました。草木は野辺に拡がりかけては葉ごと根ごと枯れ、鳥や魚たちも群れごとしゅごと息絶えることもありました。宇宙から飛び込んで来た巨大なかたまりがほとんどの生命を飲み込んでしまったこともありました。

 それでもたくましく生き残った生き物たちは、形を変え生きざまを変えて、この星に生命をつないでいきました。月はポツンと浮かんで相変わらず話し相手もなく、見つめるその先の地球もまた、黙々と自転しながら太陽の周りを回り続けるばかりでした。
 太陽も満天の星も銀河をめぐり、銀河は大宇宙を巡り、時は曜日も祝日も刻むことなく延々と流れ、……やがて命のゆりかごが一揺れし、地表に彼らや彼女たちの営みが静かに始まりました。

 月は人間の営みを見て、ドキドキしました。
 人間は洞窟どうくつに住み、洞窟を離れ、木や石で家を作って住みました。
 人間は狩りをしてうさぎいのししを捕まえ、ぶたにわとりを飼いました。
 人間は動物の皮をはぎ、布を織ってまといました。
 人間は石に文字を刻み、紙をきました。
 人間は土に種をき、日照りや寒さに苦心しながら、麦を育て収穫しました。
 人間は、鶏と麦を交換し、米をため込み、やがてお金を発明しました。
 人間は木や土や石で像をつくって、それにお供えをして拝みました。
 人間は人間どうしでいくさをしました。石と、こん棒と、弓や刀と馬で。

 月にとって人間はすぐに特別な存在に映りました。魚のようには自由に水中を泳ぎまわれなくても、鳥のようには体ひとつで空を飛べなくても、人間はかしこく知能を働かせ、器用に手足を使い、何十年も生きて、ものすごい勢いで地表をつくりかえていきました。
 人間は海岸を埋め立て、工場を建て、株式を発行して、議事録を残しました。
 人間は戦争をしました。銃と、戦車と、軍艦や戦闘機とミサイルで。

 戦争で人間は片腕や両足をなくしたり死んだりしました。戦争に参加していない子どもたちもおおぜい死にました。
 戦争をしていないときには、戦争への備えを怠りませんでした。
 人間の仕事の多くは、「ビジネス」として発展しました。それも形を変えた戦争の一面がありました。仕事は人間を成長させることもあれば不具にすることもありました。人間は、次々と新しいことを考え出し、美しいものや楽しいことも地球からこぼれ落ちそうなほどたくさん産み出しました。大人は子どもを、子どもは大人を助け、大人同士、子ども同士でも助け合いました。その逆のこともまた、そこらじゅうにあふれていました。
 月は、人間のすることが難しすぎて付いていけませんでした。どこまでがいいことなのか悪いことなのかも、わかったようでわかりませんでした。
 月は、人間のすることがよくわからないけれど、それでも、何もない月の表面よりは、地球のほうがずっといいような気がしました。
 月はまた、地球に語りかけてみました。
 「もしもし、地球さん。何のためにこんなにかしこい人間が生まれてきたんですか? イルカやチンパンジーまでなら、海も山もずっときれいでいられただろうに。それだけでも聞かせてくれませんか」
 
 しかし地球は、やっぱり黙りこくったままでした。月はいたたまれなくなりました。
 それならいっそ、地球をじかに確かめてみたい、と月は思うようになりました。

 ある月夜のことです。月は、地球に行ったらやってみたいことを何度も復唱しながら旅支度たびじたく調ととのえると、よいしょと体をゆすりました。
 すると、地球のほうから、かすかな声がしました。
 「来たらあかんで」
 月はびっくりしました。あんなに頑固がんこに黙り続けていた地球が話す気になってくれたのでしょうか。そうではありませんでした。地球本体・・はやっぱりだんまりでした。
 「お月さん、こっちに来たらあかんで。なんでか言うたろか。あのな、お月さんな、自分では何の役にも立ってへんって思てるやろ。それが違うねん。お月さんな、ちょうどいい重さで、ちょうどいいとこにおって、地球を引っ張ってくれてんねん。
 地球は24時間で1回転してるんやけどな、もしも、お月さんがそこにおってくれへんかったら、地球の回転速度や回転軸とかが極端に変わってしまうらしいねん。そしたら、風や温度が落ち着きなくして異常気象どころじゃなくなるらしいねん。そしたら、たぶん人間も動物たちも生きていかれんようになる。だから、お月さんがそこにおるってことは、それだけでもすごいことやねんで。自分で気づいてないだけやで」
 「それにな、お月さんは知らんと思うけど、地球から見あげるお月さんは、けっこうイケてるねんで。雲に隠れたり出てきたり、上弦に下弦、新月に半月に満月と表情も豊かに変化するしな。それやのに、その控えめで素朴なところが、私は好きなんやけどな」

 月はまた一層びっくりして、まばたきして、うれしくもなりました。
 月は、ことばも出ないまま、地球のほうに身をのり出そうとしました。
 「せやから、来たらあかんて。自分がどうしたらいいか、よう考えて行動してみ」
 というふうに、月は、誰かにめられ怒られ、地球が半回転する間(一晩) よく考えてから、月本体はそこに残したまま、月の分身ぶんしんを地球に送ることになりました。

 「こんにちは、僕は月です。これから地球に向かいます。といっても、月ごと地球に行ったらご迷惑みたいなので今回は欠片かけらだけで行かせてもらいます。いいですか?」
 「まあ、ええけど、お月さん、何しに来るん?」
 「それなんですけど、月内部でよく思い出してみたら、僕のねえちゃんが少し昔に地球に行ったことが判明しました。ねえちゃんも月の欠片です。
 ねえちゃんは何しに行ったのかというと、それがはっきりしませんでした。なんでも、ねえちゃんが着陸したところは竹藪たけやぶで、青竹の筒の中にじっとしているところを見つけてくれた親切なおじいさんとおばあさんに大切に育ててもらい、年頃の別嬪べっぴんさんになると、世の人々にさんざん、ちやほやされて、結局何しに行ったかもわからずに、月に出戻りだったみたいです。僕は違います。どうせ行くなら目的をはっきりと持って行くんです」
 「へえー。どんな目的なん?」
 「それなんですけど、今はまだ、はっきりしていません。というか、わかりません。いろいろやってみたいことがあって、何かもやもやしているものもあるんだけど、ことばでは説明できないというか…。これからはっきりさせるつもりです」
 「なんや、結局、わからんのかいな。まあ、いいわ。そんなもんかもしれんしな。無理にはっきりさせんでもええで。無理にはっきりさせようとして自分らの首を絞めてることが結構あるみたいやからな、大人の世界では」
 「それはどうもすみません。ところで、あなたは誰ですか?」
 「私な、盲腸(虫垂炎ちゅうすいえん) が手遅れで、やばそうやねん。『まあ、死にはせんやろ』と、誰かが言うてたようやけど、自分では何かもうあかんような気がしてるねん」
 「私、3日前からお腹が痛くなってな、我慢しとったら、2日前にはもう我慢できんほど痛くなって、家の人に言うたら『我慢せえ』言われて、我慢しとったら、もっと痛くなってきて天井が回って、昨日、診療所に連れてってもらって、そしたら『腸カタルやね』と診断されて、これが間違いやってんけど、もっともっと痛くなって夜通し天井がぐるぐる回って、お月さんの声が確かに聞こえだしたんよ。前からお月さんのひとりごと、気になってたんやけどな。
 それで今朝、もう一回、診療所に行ったら、『盲腸みたいやね、外科のある病院に行ってくれてか』と言われて、この病院に連れてきてもらったら、手術は一杯、病室も満杯で、何かの注射して、こうやって廊下に長椅子で臨時ベッドを作ってもらって、手術を待っとったら、さっきから、お月さんの声がもっとはっきり聞こえてきたんやわ。私、朦朧もうろうとしてて周りの人の言うてることは、ほとんどわからんのに、お月さんの声だけはっきり聞こえるんやわ。やっぱり、やばいってことかな?」

 「それは、やばいかも。よし、それなら僕が助けてやる」
 「そんなあほな。お月さんに助けられるわけないやん」
 「そうかも。でも、じっとしてても何も変えられないし。
 ところで、あなたは誰なのか、もっと詳しく教えてくれませんか」
 「私な、もうすぐ17歳になる女子で関西南部に住んでるんやけどな、これ以上のことはプライバシーの侵害になるから内緒にさせてもらうわ。何かと物騒ぶっそうな世の中やしな」
 「17歳というと、生まれてから17年生きたってことですか?」
 「そうや、きまってるやん。お月さんは自分の年齢知ってるん?」
 「知らないんです。そもそも生きてるわけでもなさそうだし」
 「45億歳やったと思うで。けっこうお年寄りなんやね」
 「うーん、それほど実感ないんですが。関西南部って何ですか?」
 「それは、地球の中の日本という国の関西地方の南の方ってこと。住んでる場所のことやんか」
 
 「それでは今からそこに行かせてもらいます」
 「お月さん、まあ、ちょっと待ちいな。ほんまに来る気?」
 「はい」
 「あのな、お月さん、こっちに来るいうても、費用はあるの?」
 「費用ってなんですか?」
 「お金のことやんか」
 「お金って?」
 「お金も知らんの!? それやったら、もうちょい恥ずかしそうにしといたらどうなん? お金というのはな、人が品物なんかをあげたり、もらったりするときに、間に入ってその品物の仲立ちをするもんや。大昔やったら漁師さんが獲った魚とお百姓さんが採った野菜を取り換えっこしとったのを、物と物をいちいち取り換えっこせんでも、お金があったらそれで済むんや。わかる?」
 「そのお金って、いつどこから出てくるんですか? 決まった日に決まった量だけ空から降ってくるようなものですか? 月にもひとつ分けてもらえますか?」
 「何をあほなこと言うてんのかな? 空から降ってくるんなら世話ないやん。お金は国が発行するもんや。人が働いた分だけ、そこでお金も動くんや」
 「国って?」
 「国は国や。ここだったら日本や。国の銀行がお金を発行するんや。銀行や政府のえらい人たちがいつどれだけお金を発行するかとか決めるんや、たぶん」

 「それにな、お月さん、こっちに来る言うても格好はどうするん? 首から上だけ月の石頭いしあたまというわけにはいかんやろ。名前かてどうするん? そこらを決めとかんと、これを見てくれる人はイメージがわかんいうてそっぽ・・・向いてしまうで」
 「それなんですけど、『せっかく地球に行くのに石のままでは困るだろうから人間の格好で送り出してやろう』ということに、先ほど、月内部の月例会議で決まったんです。
 僕は『どうせなら、格好良くて健康やいろんな環境にも恵まれて幸せな人生を生きたい』と希望を伝えたんですが、『それでは、ねえちゃんの二の舞になりそうだから駄目。おまえは人間社会の辛酸をなめて、人の痛みもうんと味わって、何でもいいからお役に立ってきなさい』ということで、あまりパッとしない格好にさせられたんです。しかも、地球に向かう途中でこわい夢をみるかもって言われました」
 「年は45億歳というわけにもいかんやろな。年齢不詳の地球外不法滞在者となったら、そら大変やろな。ほんならせめて、私がちゃんとした名前を付けたげるわ」
 「月だけでいいです。ちゃんとした名前がないと駄目なんですか?」 
 「あかんことないけど、月だけでは何かと面倒なことになるんとちゃうかな、お月さんも周りの人も。まあ少々問題あっても、お月さんが自力で乗り越えていけるんならええか。いよいよのときは、月からお迎えが来てくれるんやろ。おねえちゃんのときみたいに。
 それより、お月さん。格好や名前だけじゃないで。こっちに来ようと思うたら、きっと身元保証人がいるで。私は無理やで。未成年やからな。パスポートやビザもいるで。なかったら、その申込み手続きがいるはずやけど、その手数料だけでも払えるの? あと、税金とか何とかややこしいことが山のようにあるで、きっと」
 「何にもないけど、何とかならないでしょうか」
 「甘いなあ、お月さん。やっぱり、じっとしてたほうがええんちゃうかなあ」
 「もう、そっちに向かっています。たぶん、明日には着きます」
 「向かってるって、お月さん、どうやって来てるん? 何かに乗ってるん? エンジンは何で動いてるん?」
 「えっ、何のことですか?」
 「ボディに何か書いてない? ガスの噴射とか、電力とか、原子力とか」
 「これかな? 想像力(または、○○) と印字されてるみたいですけど、○○のところはかすれてます」
 「妄想もうそう ちゃう? 止め方はわかるん? お月さん、お月さん、お月さん、お月さん…」

 

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