グリーン・アルバム

 以前に住んでいた部屋のことを、最近になって、ふと思い出す時がある。記憶の中のその部屋は妙にがらんとしていて、物音ひとつせず、人や生活の気配は全くない。たった一ヶ月程度の短期的な滞在だったが、私が退去した後、新しい入居者は現れたのだろうか。今も入居者が見つからず、管理会社は手を焼いているかもしれない。あるいは、すでに取り壊されて更地になっているかもしれないが、どうも確かめる気は起きない。

 その部屋に住むことになったきっかけは、管理会社を経営していた叔父の提案だった。進学にあたって、東京に住む部屋を探すことになり、叔父が私のために条件を満たした部屋をいくつか見繕ってくれた。どれも悪くはなかったのだが、一つに絞るのが難しかった。私が悩んでいると、「五月になれば、かなり良い条件の物件が空く予定なんだが……」と叔父が言った。五月では遅すぎる、と私が言うと、叔父は続けて、

「そこでだ。とある物件があるんだが、ちょっと曰く付きでさ、入居者が全く見つからないんだ。お前さえ良ければ、一ヶ月程度、そこを間借りすることもできる。家賃は格安にしておくし、退去費用もいらない。こっちも持て余してる物件なんだよ。ひとまず、四月はそこで過ごして、五月にさっき言った良い条件の物件を紹介してやることもできるぞ。あくまで、お前さえ良ければの話だがな」

 どういった点が曰く付きなのか、と私が聞くと、彼は言い淀んだ。

「二人、過去に自殺してる。ただ、それ以上に……、うまく言えないな。なんというか、瘴気みたいなものを感じることもある。それに長いあいだ触れていると、どこかおかしくなってしまうのかもしれない。だから、あくまで、お前が気にしないのであればの話だ。まあ、一度見てから考えるのでもいい」

 そして数日後、私は新幹線で東京に行き、担当者と一緒にその部屋を内見した。担当者の若者はひどくおどおどしていて、その物件には近づきたくない様子だった。案内されたのは中野区の木造のアパートで、外観はかなり古びていたが、内装はリノベーションされて綺麗になっているらしかった。担当者が鍵を開け、われわれは部屋に入った。まず狭い玄関があり、廊下の左右にキッチンと浴室のドアがあった。その奥がリビングだ。窓から差し込んだ光が埃を浮かび上がらせていた。担当者が私の後ろをついてきた。スリッパを履き、廊下のフローリングや、ユニットバスの状態をじっくりと検分した。どこも清潔に保たれている。叔父が言うような奇妙な点は特に見当たらず、少々手狭ではあるが、一ヶ月生活する分には申し分なかった。しかし、奥のリビングに足を踏み入れ、部屋の四方を見回した時、壁に一枚の小さな紙片が貼られていることに気づいた。近づいてよく見ると、それは私と担当者が写ったプリクラだった。こんなものを撮った覚えはない。全く意味が分からず、何これ、と担当者の方を振り向くと、彼は私の背後で、悪魔に取り憑かれたように激しくヘッドバンキングをしながら、一心不乱にデュエル・マスターズのデッキをシャッフルしていた。びっくりした。私は履いていたスリッパを片方だけ脱いで手に持つと、それを思い切り振り下ろし、狂気じみた動作を続けている担当者の頭に力強く叩きつけた。小気味よい音が響く。彼は一瞬静止した後ではっと意識を取り戻すと、この部屋にいる恐怖に耐えられず、私を残して大慌てで外に逃げ出していった。

 結局、私は最初の一ヶ月をそこで暮らすことに決めた。担当者の行動は確かに奇怪だったが、部屋そのものは新築同様で、一見、曰く付きの物件には見えなかった。それに、過去の入居者がそこで首を吊っていようが、二〇〇錠の精神安定剤を胃に流し込んでいようが、私にはあまり気にならなかった。それがその人物の決断だというのなら、それを尊重し、こちらは深入りをせずにいるのが正しい態度のように思われた。

 入居したその日に異変は起こった。その時、私は床に敷いた毛布に寝そべり(ベッドがまだ届いていなかったのだ)、駅前の本屋で買ってきた『三四郎』を読んでいた。ぴしり、と音がした。顔を上げると、壁の中央にまっすぐな縦線が走っていて、エレベーターのドアのように機械的な動作でそこから壁が開いた。壁の向こうにはMステの冒頭のセットが広がっていた。呆然としてその光景を眺めていると、奥の階段から、手足の生えた仏壇が降りてきた。片手にピザカッターを携えていた。身体が金縛りにあったように動かなかった。仏壇はゆっくりと私の目の前に立つと、こちらの姿をためつすがめつ眺めた。私がピザかどうかを見極めようとしているらしかった。そしてしばらくすると、仏壇はその顔とおぼしき部分を私の耳元に近づけ、お前がピザじゃなくて良かったな、と恐ろしく低い声で囁いた。

 気づいた時には、部屋は元のままの状態に戻っていた。数分前の異常な出来事にまつわる痕跡は何も残っていなかった。スマホで時刻を確認した後、しっかりと歯磨きをしてから就寝した。

 その数日後に大学の新歓があった。新宿の雑居ビルの二階に入っている、チェーンの居酒屋が会場に指定されていた。私はわざと遅れていった。その方がかっこいいと思ったからだ。私が到着した時には、すでに大量のアルコールが注文され、いくつかの集団ができ、男女の声が天井を騒々しく飛び交っていた。二、三人刺してもバレなそうだった。新しく参加者が来たところで、誰も気にする者はいなかった。

 手近にあった枝豆をつまみ続けていると、しばらく席を外していたらしい女が戻ってきて、私の隣に座った。それから、小皿に溢れていく枝豆の殻を不思議そうに眺めた後、私に顔を向けて「飲まないの?」と言った。つり目がちだが人懐っこい笑顔を浮かべ、短めの髪をブラウンに染めて、襟足がうなじの辺りでくるんと跳ねていた。ビッチじゃん、と思った。男友達めっちゃいるじゃん? 俺ともぜひ遊んで欲しいじゃん?

 彼女は生ビールを二つ注文し、運ばれてきたうちの一つを私の前に置いた。かんぱーい、と自分のグラスを勝手に私のグラスにぶつける。勢いよく飲み始める。白い喉仏が上下に動く。何度も似たことを繰り返してきたような自然な動作だった。私が来る前から何杯も飲んでいたらしく、頬にはすでに赤みが差している。一気に半分ほど飲んだグラスをテーブルに置くと、ふたたび私に顔を向け、舌足らずな口調で矢継ぎ早に話しかけてきた。どこ出身? 愛媛? いや、なんか四国っぽいなって。なんとなく。あたし? あたしは東京。そう。シティガール。えへへ。喫茶店とか行く? え、ほんと? 行こう、行こう。案内してあげるよ。

 私はしどろもどろに答えた。東京の女エロすぎるだろと思った。ラインを交換した。クッソ舞い上がった。私は童貞だった。

 家に帰ると、廊下に紅しょうがが散乱していた。私はそれを全てごみ袋に投げ入れた後、きちんと雑巾をかけて床を綺麗にした。ファブリーズも使った。どうせ来月には出ていく部屋なのだから、どのような異変が起きようとも、根本の原因を究明しようとするつもりはなかった。私はまだ舞い上がっていた。 

 昼過ぎ、講義室を出たところで、後ろから声をかけられた。彼女だった。真面目そうな表情でじっと私の顔を見る。このあと暇? 暇。われわれは一緒にキャンパスを出た。俺に好意持ってるじゃん、と私は思った。これもうデートじゃん? ふいにお互いの手が触れ合ったりとかするじゃん?

 目的地は伝えられなかった。彼女は迷いのない歩調でずんずんと先に進んでいき、私はその後ろをついていった。徐々に中心街から離れ、数分後、人通りの少ないのどかな川沿いに出た。春の日差しが柔らかく水面を照らしていた。暖かい一日だったが、列植された樹々はすでに葉桜になっていた。花の名前って全然分かんないんだよね、と彼女は不満げに口を尖らせ、近くの木の枝先に咲いている白い花を指差した。あの花はなんだろ? あれは辛夷だ、と私は言った。ふうん、と彼女は言った。

 そのまま川沿いの道をまっすぐ歩いていき、途中で迂回して、また数分後に駅前に着いた。まだ昼食を取っておらず、強い空腹を感じた。どこかの店に誘おうかと思ったが、なんかキモがられたらなんか嫌だなどうしよと迷っていると、ありがとね、と彼女はそっけなく言い、手を振ってさっと改札を抜けていった。私は一人残された。鳩がその辺を歩いていた。マクドナルドに入り、ベーコンレタスバーガーのセットを食べて帰った。

 その日の夜に、また部屋の壁が開いた。ぴしり、と音がし、壁の中央にまっすぐな縦線が走り、そこから機械的な動作で壁が開いた。何もかもが前回と同じだった。奥の階段から手足の生えた仏壇が降りてきた。片手にピザカッターを携えていた。だが、仏壇は部屋の中まで入ってくると、よっこいしょというふうに床に腰を下ろした。私はその真正面に座っていたので、ローテーブルを挟んでお互いに顔を見合わせる形になった。かなり気まずかった。変に刺激してはいけないと思い、ひとまず、冷蔵庫で冷やしていた麦茶をコップに注いで差し出した。仏壇はそれを両手で包み込むように持つと、ずず、と音を立てて啜った。そしてまた黙った。かなり気まずかった。

「モザイクはこの世に一つしかないって知ってました?」と仏壇が明るい声で言った。

 は? モザイク? 私は動揺し、うまく返答することができなかった。

「テレビ番組なんかで使われているモザイク、あれは全て使い回しなんですよ。低俗なバラエティ番組なんかで出演者の股間を隠すのに使われた後で、ドキュメンタリー番組でのグロテスクな映像の一部を処理するのに同じものが使われていたりするわけです。あ、もちろん一度使用するたびにしっかりと洗濯されていますよ。天気が良い日であれば、テレビ局の外に干され、風にはためいているモザイクを見ることができるはずです。嘘じゃありません」

 沈黙。どう答えればいいのか分からなかった。時間の感覚がなかった。

「モザイクの助数詞知ってます!?」

 仏壇が突然叫んだ。不自然なほど明朗な声だった。助数詞? 何個とか何匹とかの単位のあれ? モザイクに数え方なんてないだろ、と不審に思っていると、「モザイクの助数詞知ってます!?」ともう一度叫ぶように聞いてくる。はあ、いや、知らないです、と私は仕方なく答えた。すると仏壇は急に小声になって、

一輪いちりん……」とか細く呟いた。

 と思うと、仏壇はふわりと宙に浮き、ニコニコ動画の高速コメントみたいな感じで、横滑りに勢いよく移動し、窓ガラスを激しく砕いて夜闇の向こうへと飛んでいった。きらーん、と遠くの空で星になる音がした。部屋には、表面に水滴の伝うコップと、粉々になったガラスの破片と、それらを呆然と眺める私だけが残された。

 そして数分後、前回と同じように、気づいた時には部屋は元通りになっていた。窓ガラスも全く割れていなかった。時刻を確認し、しっかりと歯磨きをして、ベッドの中でしばらく名取さなの配信を観てから就寝した。

 彼女から飲みに誘われた。夕方に講義が終わり、廊下を歩いていると、また後ろから声をかけられた。彼女はブラウンのニットを着て、レザーの短いスカートを履いていた。今から飲もうよ、どうせ暇でしょ? 窓からの夕日がニットの肩と首筋に注がれ、ほんのりと毛糸の匂いが漂った。え、ヤレるじゃん、と思った。てか相手もその気じゃん? 鞦韆は漕ぐべし終電は逃すべしじゃん?

 薄汚い雑居ビルの地下にある居酒屋だった。全席喫煙可で、彼女は席に座るとすぐに灰皿を自分の方に寄せ、ウィンストンを取り出して火をつけた。ゆっくりと煙を吐き、飴細工のように潤んだ瞳で私を見る。煙草吸う? 吸わない、と私は言い、吸わないけど、別に気にしない、と付け加えた。彼女は無言で頷き、指に挟んでいた煙草をもう一口吸った。

 彼女は一杯ごとに別の酒を注文した。生ビールを飲み、青りんごサワーを飲み、ジントニックを飲んだ。アルコールであればなんでも良いのかもしれなかった。その時にした会話はほとんど記憶に残っていないが、音楽の話をしたことは覚えている。彼女はウィーザーが好きだと言った。私は聴いたことがなかった。

「一枚目と二枚目ももちろん最高なんだけど、あたしは三枚目が好きで、すごくポップなアルバムなんだけど、聴いていると胸がギュッとなるっていうか、ポップに振り切ることの切実さみたいな……」そう彼女は言い、ぐっとウーロンハイを呷った。「よく分かんないな」

 二時間後、雑居ビルを出ると、夜の冷たい空気が街に降りてきていた。われわれは駅まで歩いた。無数のLED看板がちかちかと明滅し、ヘッドライトをつけた車が何台も横を通り過ぎていった。彼女はぼんやりと夜空を見ながら歩いていた。触りたかった。あと誰かに線路に飛び込んで電車を止めてもらいたかった。

「星座みたいな街があればいいと思うんだよ」と彼女が言った。

 え? と私は聞き返した。

「だってさ、もしも星座から星が一つでも消滅したら、どこかの天文台で観測している人がすぐにそれに気づいて、きっと大騒ぎになるでしょ。でも、都市の灯りが一つ消えても、そこに住んでいる人たちは誰もその変化に気づかないと思うんだ。だからさ、正座みたいに、数えられる程度の光を結んで作られた街があって、そういう街が地平にいくつか点在していて、遠くの天文台には、各地での生活の光をいつも見守っている観測者がいる。そうしたら、なんていうか、生きている、って実感がもっと湧くんじゃないかな」

 私はそれにどう答えればいいのか分からなかった。夜空には月も星も見えなかった。道には、変な体勢で抱き合っている若いカップルがいて、ぼろ雑巾のような毛布を引きずっている髭だらけの浮浪者がいた。駅に到着する。二人で改札を抜けた。じゃ、また、と彼女は手を振って、反対側のホームに上がっていった。

 家に帰ってから、スポティファイでウィーザーの『グリーン・アルバム』をダウンロードした。再生すると、迫力のあるドラムやギターの伴奏と共に、憂いを含んだ、やる気のないような声とメロディーが流れてきた。短いアルバムだった。どの曲も同じように聴こえたが、彼女と話を合わせるために、次の日からは通学の時間にイヤホンで聴くようにした。辛抱強く何回も聴いた。他のアルバムは全く聴かなかった。

 雨の天気が一週間ほど続いた後、光の中に初夏のかけらが混じっているような、快晴の続く季節がやってきた。四月も終わりに差しかかっていた。その日、私は昼過ぎに大学から帰ってくると、ネットフリックスで『13の理由』を観たり、ツイッターやピクシブで「アイドルマスターシャイニーカラーズ」のイラストを漁ったりして、だらだらと一日を過ごしていた。夜の八時過ぎ頃にラインの通知が来た。「今から恵比寿来れる?」と彼女からメッセージが届いていた。私はすぐに家を出た。

 送られてきた住所の居酒屋に行った。彼女は一人だった。黒のタートルネックのニットを着て、ぴっちりしたデニムを履いていた。私を見ると、うい、と片手でグラスを上げた。すでに相当酔っている様子だった。テーブルにはいくつかの取り皿とグラスが並んでいた。最初から一人で飲んでいたわけではないのだろうと私は思ったが、それ以上は考えないことにした。彼女はほとんど私の方を見ずに、様々な酒を淡々と飲み続けた。テリー・レノックスが良い例だが、飲酒の哲学というものを語る人間にろくな奴はいない。そしてもちろん、哲学を持たず、アルコールを摂取することだけを目的に酒を飲む人間にもろくな奴はいない。ウィーザーのさ、と私は言いかけてやめた。彼女はひどく酩酊し、ぐったりとテーブルに突っ伏していた。私の声が届いているようには見えなかった。

 一人で会計を済ませ、ふらふらの彼女を連れて外に出た。店を出てすぐ、彼女は目の前の段差につまずきそうになり、歩道の真ん中で膝から崩れ落ちて、ガードレールの真横にばたりと倒れ込んだ。私はその肢体を上から見た。ニットの下にある乳房の形がしっかりと分かった。大勢の通行人がわれわれを横目に通り過ぎていった。

 タクシーを呼んだ。運転手は酔い潰れた彼女と私を見て、下卑た笑いを口の端に浮かべた。どちらまで? 彼女の荷物を漁り、財布の中の免許証を確認した。その時に初めて知ったのだが、彼女は私より二つ年上だった。私はそれについて何も言わなかった。彼女のアパートの住所を運転手に伝えた。

 免許証の住所には部屋番号まで記載されていた。アパートに着くと、肩を貸して階段を登り、彼女をその部屋の前まで運んだ。インターホンを押してみると、予期せぬことだったが、中から物音がし、しばらくしてからドアが開いた。

「どなた?」

 ドアの隙間の暗がりから、白くて細長い手と、明るい女性の顔が現れた。どきりとした。私がこれまでに目にしてきた中で、間違いなく、最も美しい女性だった。無邪気そうな光をその目に宿らせ、口元には幸福の微笑が常に漂い、背中を流れる長くて黒い髪は運命の旗のようだった。部屋を間違えたのだろうと思ったが、私の肩にぐったりともたれかかっている彼女を見ると、女は全てを了承したような表情で頷いた。

「ああ、ここまで送り届けにきてくれたのね。わざわざそこまでしなくてもいいのに……。まあ、この子に代わってお礼を言わせてもらうわ。ありがと」

 女は私の肩にもたれている彼女を受け取り、自分の肩にもたれかからせた。それは私に人質の交換を想起させた。この女性がどうして彼女の部屋にいるのか、二人はどういう関係性なのか、いくつも疑問が浮かんだが、直接聞くのも憚られた。とにかく、後のことはこの女性に任せよう。私はそう考え、別れの挨拶をしてそこから立ち去ろうとした。

「今日は泊まっていけば?」と女は言った。「もう終電も間に合わないんじゃないかしら。わたしもこの子も一晩くらい気にしないわよ」

 私は辞退した。急いだらまだ間に合いそうだし、いざとなればタクシーを使うつもりだ。心遣いに感謝する。

「全てが満たされるとしても?」

 この女が何を言っているのか分からなかった。

「このドアの向こうには、あなたの求めている全てのものがあるとしても? ねえ、わたしにはあなたの欲しがっているものがちゃんと分かるのよ。なぜならわたしは与える力を持った人間だから。ほら、あなたって空っぽでしょ? それが全て満たされるの。あなたは上手に隠したつもりでも、わたしにはどんな欲望も透けて見えるのよ。恥じることはないわ。だって、今夜、わたしたちはあなたのためにここにいるんだから。それはずっと前から定められていたことなの。あらゆるものが然るべき瞬間にその通りに機能することによって、必然的にあなたはここまで連れてこられたのよ。いや、あなたもそこに含まれている、と言ったほうが適切かもしれないわね。植物の種を運ぶ一匹の鳥のように。あなたはそれを信じたほうがいいわよ。だって、部屋にはあなたのためのスペースも用意されているんだから。今夜のためにずいぶん時間をかけたのよ。いろんなものが犠牲になった。本当に。あなた一人が欠けるだけでこれまでの全てが台無しになってしまう。分かる? これを断るのってはっきりいって馬鹿よ」

 私は背を向け、その場を歩き去った。女は何も言わなかった。アパートの通路は薄暗く、ドアノブが一定の間隔を空けて並び、それらは夜の冷ややかな光を帯びていた。天井の蛍光灯は寿命を迎える寸前だった。地面のすれすれで鼠の皮膚の残骸のようなものが風に弱々しく引きずられていて、その辺りできらきらして見えるのは蛾の鱗粉だったはずだ。それを覚えている。

 次に大学に行った日、私は彼女を探したが、その姿はどこにもなかった。その次の日も同じだった。私が感じていたのは悲しみだったと思う。でもそうではなかったかもしれない。記憶とは過去からやってきた光の反射でありそれを直視した網膜に映るのは借り物の借り物だ。無感覚の回想。知り合いに、そのさらにまた知り合いにと、何人にも彼女のことを聞いた。彼女の評判は芳しくないようだった。誰も彼女と定期的な連絡を取り合っているものはいなかった。いくつかの悪い噂を聞いた。それもどうでもよかった。

 午前三時。私は自分の部屋にいる。それは四月の終わりで、五月になれば、私は新生活にふさわしい新居に引っ越し、彼女をそこに招待することもできた。理性的な量の酒を用意し、観るかどうかも分からない映画を近所のツタヤで借りてきて、新品の柔らかいソファに座って時間を過ごす。途中でコンビニに買い出しに行ってもいい。他のアルバムもちゃんと聴いて、彼女とウィーザーの話をする。でもそれは起こらなかったことだ。窓の外の闇がカーテンの隙間から滑り込み、重苦しい時間の停滞の後で、光がその領域を引き渡していく。私はガードレールの真横に倒れ込んだ彼女を見下ろしている。そのぐったりとした身体は、吐き気や頭痛のような身体的な苦痛とも違う、もっとこう、その人物の尊厳を徹底的に押し潰して過ぎ去っていくようなおぞましい何かに、ぎりぎりの状態で耐え続けているみたいに見える。すでに暗闇の領域は部屋中に広がり、全ての輪郭がおぼろげになっている。ひどく息苦しさを感じる。ぴしり、と音がする。壁が開き始めている。

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