読破のあと(あるいは世界の終わり)

ひとり暮らしを始めてから、俺の「あばばば」の頻度はあきらかに増えていた。盆栽で本物のパンクを表現しようと苦心しているときや、すべての法律を破りながらラジオ体操をしているとき、内職でどぶろっくの歌詞を点字に訳しているときなど、その他さまざまな場面で、俺は唐突にあばばばばばばばと声を発して、そのまま横に倒れていくのである。

その日はアマゾンから段ボールが届いた。開くと、新品の体重計が入っていた。俺はそれを持って脱衣所に行き、以前からそこに備えられていた体重計の上に、先ほどの体重計を乗せた。体重計の体重は一・五キロだった。俺はあばばばばばばばと声を発しながら、膝から崩れ落ちた。限界だった。

「あばばば」が顔を出すのは部屋の中だけだ。俺は手ぶらで街に出た。当たり判定のない雨のため、傘をさしている人はひとりもいない。雨脚の一粒一粒が歩道を跳ねることなく透過していく。街は乾き切ったままで活動を続けている。

あてもなく都市を散策することで俺が得られた感情は、金銭とそれに付随する快楽への羨望、そして無力感のみだった。あらゆる店内へと、行列が光の束のように続いている。大型の液晶ビジョンが、スマホを買い替える、あるいは新しいプランに変更することを勧めてくる。ショーウィンドウに並ぶブランド品の効力は絶大で、それはぎらきらとした恒久的なエネルギーのように思われる。

俺は中心から逸れる道を選び、郊外の住宅地を歩いた。その横を通り過ぎていったトラックは、荷台の扉が開け放しになっていて、その隙間からおかゆがどぼどぼとこぼれ落ちていた。後から走ってきた軽自動車が、おかゆまみれの車道で派手にスリップし、茶道部の部室へと滑り込んでいったまま二度と帰ってこなかった。

郊外の住宅地を抜けて坂を登ると、大きな川が見える。俺はまっしぐらに河川敷に降りていった。川は隅々まで静寂を湛えており、水面をすり抜けて行く雨粒は、そこに一切波紋を広げようとしない。川の向こうで子どもたちが缶蹴りをしている様子が、ぼんやりと見える。

自分は子どもが好きだ、と俺は思った。彼らは俺を怒鳴ったりしない。たとえば、俺がカマキリだとする。彼らは俺の鋭利な鎌、月光さえも断ち切るようなその冷ややかな前脚に、目を嬉々として輝かせることだろう。しかし、相手が面接官となると話は変わってくる。「あなたはカマキリとして、弊社にどのような利益をもたらすことができるのですか?」男の陰湿な表情を前にして、俺は返答に窮する。カマキリであることは無意味の極致だ。世間が俺に侮蔑の眼差しを向ける。少しずつ、俺は自分がカマキリであることに嫌気がさしてくる。

子どもが大人たちを圧倒し、勝利を収めることができる能力といえば、それはとりもなおさず芸術面だけだ。それ以外のどんな能力を見ても、彼らに勝ち目はないだろう。しかし、今となっては芸術に何の意味がある? それは完全に効力を失っている。芸術が人々の生活と密接に関わり、そこから精神的な幸福が生まれていたのは、もはや数世紀も前のことだ。いや、芸術が本当にその真価を示していた瞬間なんて、古代ギリシャ以降一度もなかったのかもしれない。どちらにせよ、それらの時代には、子どもたちはその人権を認められていなかった。あまりにもすべてが遅すぎた。タイミングが悪かったのだ。この世の悲劇のほとんどは、ただ一言、タイミングの問題で片付けることができる。

俺は自分の気分が沈んできていることに気づき、この場から離れようと、億劫な身体をようよう橋の下に運んだ。コンクリートの壁には、何も完成しない一筆書きが描かれていた。

この辺りにはいつも多数のホームレスがたむろしているはずだったが、二〇二〇年の東京オリンピックに向けて、その排除が着々と進んでいるようで、人影はひとつも見受けられなかった。すべての稲を刈り終えた田んぼのように閑散としている。

感傷に浸りながら歩いていると、堤防の近くの茂みに、一冊の書物が落ちているのを見つけた。俺はそれを拾い上げてじっくりと検分した。赤と緑の幾何学模様が張り巡らされた装丁で、題名や著者名などはどこにも書かれていない。こいつは一体何だろうと思い、俺は頁を開いた。

その瞬間、頁と頁の間に折りたたまれていたがちゃがちゃしたものが、秩序立った構造で一気にめまぐるしく組み立てられていき、洋風な一軒家へと変貌して書物の外に飛び出してきた。俺は子どもの頃にもらった飛び出す仕掛けのあるクリスマス・カードを想起した。どすんと土埃を上げてその家は居を構え、煙突からそれぞれファミコン、ファミコソ、ファミコヌの形をした三つの煙が浮かび上がった。それらが橋の底に触れて破裂したところで、がちゃり。扉が開き、中から白髪のおじさんが現れて、「こんにちは」と言った。

こんにちは、と俺は反芻するように言った。

「どうかこのことは内密にしておいて欲しい」とおじさんは出し抜けに言った。「市役所の奴らにバレたら面倒なんだ。たくさんいた友だちも、みんなどこかに追いやられてしまった」

俺は住居&おじさん出現の拍子に後ろに退いていたのだが、彼は構わず近づいてきて、

「それでその代わりといってはなんだが、これを受け取ってくれ」

と、丸めた何かをこちらの手の中に押し込んできた。紙幣のような感触がした。

「ひぃ。え。あ、いや、困りますよ。こんなの渡されても」

「まあまあ、あんたにとっても悪い話じゃないだろう」

俺は自分の手の中を確かめた。それはメモ帳を一枚破って丸めたもので、紙幣ではないようだった。何だこれは。小首を傾げてそのくしゃくしゃの紙屑を開くと、そこには、達筆な文字で「アスナは俺が守る」と書いてあった。

俺が呆然としていると、ふたたび家の扉が開いて、おじさんの妻らしき年齢の女性が現れた。彼女は不機嫌そうな表情で煙草を吸いながら、横目でちらと俺を見た。

「あんた、誰にも言わないだろうね」と彼女は言った。「あたしらは昔からここで、誰にも迷惑をかけず平穏に暮らしてきたんだ。このことが世間様に知られちゃ厄介なことになるんだよ」

「はあ、すみません」と俺は言った。それ以外に何も言えなかった。

「ちょっとこっちに来なよ」

おじさんの妻らしき女性は煙草を靴で踏み消すと、こちらに背を向けて家の裏手に回った。おずおずと後ろをついていくと、彼女は急に立ち止まって、家の壁を指さす。その煉瓦造りの壁面には中型のレバーが備わっていた。

「ここにレバーがあるだろ?」と彼女は言った。「レバーがあるということは、レバーを引く人がいるということ。レバーを引く人がいなかったら、レバーも必要ないわけだからね。レバーを引く人がレバーを引かなければ、それはレバーを引かない人。レバーを引かない人がいるということは、レバーは必要ないということ。分かる? そういうとこに気づくのが、主婦の役目なわけ」

「あ、主婦の方なんですね」

「違うけど」

「えっ」

あばば。自分の部屋に帰りたかった。部屋に帰って、エッチ・スケッチ・ニンテンドースイッチと声を出しながら、キチガイのマリカーをしたかった。キチガイのマリカーは、クッパが駅のホームで『犬夜叉』全巻セットを売っている。

「世界とは一冊の本である」とおじさんが言った。彼はいつのまにか背後に立っていて、先ほどこちらが拾ったものとは別の書物を手にしている。「私はありきたりなアフォリズムを口にしているわけではないんだ。うだつの上がらない作家が使いそうな戯言で、君を言葉巧みに薫陶しようとする気も毛頭ない。分かるかい?」

分からなかった。

「私と彼女は読者なんだよ」とおじさんは続ける。「そして、世界は一冊の本だ。これは大胆な隠喩などでもない。地球は一日一回、精密に自転する。そして、私たちは頁をめくる。私たちは最初の頁からこの世界と付き合ってきた。ここでなるべく人目につかないようにしながらね。私たちがすべての頁をめくり終えたとき、それに呼応して世界は終焉を迎える。今は何頁目だったかな?」

俺は彼らを狂人だと思った。しかし、その瞳は冷静沈着、冬の湖面のような怜悧な光を湛えており、支離滅裂な思考をしているようには見えないのが不思議で、俺はこう訊ねた。

「つまり、あなた方は神様のようなものですか?」

「あんたらの言葉に分かりやすく当てはめると、そう呼ぶこともできるかもしれないね」とおじさんの妻らしき女性が言った。「でも、その言葉は人間中心主義に走りすぎているきらいがあるよ。ヒューマニズムに蝕まれているとも言える。そのような言葉であたしらを十全に説明することはできない。そして、その欠けている部分を感知することも不可能だろう。あたしらはもっと高次元の存在なんだ。これまでに何冊もの本を読破してきた。あんたらのあずかり知らぬ事象の外側で、あらゆる並行世界を読破してきたってことさ」

彼らの言うことを信用するのか? 「学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を直接読破した人のことである」とショーペンハウアーは言った。とすると、この奇々怪々な二人組こそが、地球上で唯一の、本当の思想家ということなのだろうか。

「あんたが今この瞬間、この場所で私たちと巡り合ったのも、この書物の引力によるものなんだろうと私は推測するね」

おじさんはそう言って、手に持っている書物をこちらに掲げた。周りの空気にはみだして、そのまま滲んでいきそうなほどに真っ黒な装丁だった。

「読者がいるならばもちろん作者も存在する。おそらくだが、あんたらが運命と呼んでいる偶発性はすべて、すでに何者かによって書き記されているものなんだよ。そして、それを私たちが気長にめくり続ける」

川で魚が跳ねたような気がした。しかし、数年前にお昼の討論番組で、とある若手のイケメン批評家が「川魚? 川に魚なんていないんだがw」と言った次の日から、川に魚はいなくなったので、今のはこちらの気のせいなのだろう。

「ただ」とおじさんは続けた。「これも何かの縁だ。君が望むのなら、最後の頁をこの場でめくってやることもできる」

俺は何かを言おうとしたが、何を言えば良いのか分からなかったので黙っていた。この世界は一冊の本である。そして、彼はその最後の頁を今ここでめくることができる。最後の頁をめくると……。その後どうなるかが肝要であるはずだ。肝要って言葉を見ると、幼いころに食べていた肝油ドロップを思い出すなあ。

「心配することはない。世界が最後の頁を迎えたところで、どうせ誰も気付きゃしないんだ。最初の頁がめくられたときと同じだよ。それらが観測されることは永遠にない。ぱたんと書物は閉じられ、埃っぽい棚にしまわれる。そして、私たちがまた別の書物を開くだけのことさ。どうだい?」

俺は無意識に頷いていたが、それは同意のつもりでやったのではなかった。あば。しかし、こちらの複雑な感情の機微的な何かくにゃくにゃしたものを、おじさんは一顧だにしないようで、彼はおだやかに微笑み、必要最小限の身振りで最後の頁に手をやると、ぱっとそれをめくった。

凄まじい風が吹いた。夥しい書物が空を内側から破り、頁を羽のように開いてばさばさと飛び出してきた。地上が地平線から一気に裏返って、でっかい和紙の栞が真下の宇宙に落ちていくのが見えた。真空の中で、完全に合法のミュージックFMから、完全に違法のスマップが流れ始める。ふと、子どもの頃に通っていた学習塾の匂いがして、背後を振り返るとそこにははねトび記念館。二秒間で六億人が来館して全部終わったらしい。その終わった廃墟には数えきれないほどの窓があり、そこからもぐら叩きのような感じで、真っ青な達磨がぽこぽこと顔を出している。そのなかに光彦が混じっていた。「コナソくん! 今日も靴ひも工場に行きましょう!」と叫んでいた。天高くでは三月と八月がセックスをしていて、ぽーんとサチ月という新生児の暦が覆いかぶさるように落ちてくる。サチ月にはプレステ2の日、夜叉の日、エチ電の日といったような祝日があり、最後の日付には銀色のダーツが刺さっている。そのうち、遠くからマリオのスター状態の電車がやってきて、すべてが吹き飛ばされ消滅していった。これが最後の頁だった。終焉だった。世界が終わりを迎えるその淵で、俺はどこからともなくこんな声を聞いた。

「え〜! もう終わっちゃうの〜!?」

「ご静聴ありがとうございました」

いや匿名ラジオとまったく同じ終わり方なんかい。

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