かけめぐる透明

まあなんとかなるやろ、と夜行バスで東京へ。それがそもそもの発端で、ローソンでアルバイトをしつつ、一週間に一度はライブハウスで馬鹿みたいにがなりたてる。余った金は飲みに回す。この前、ベーシストがへべれけの果てに炊飯ジャーを頭からかぶって死んだ。なんとかなってない、なってんですかね? 禅問答を繰り返していたら、風邪をひいてしまった。

旅に病で夢は枯野をかけ廻る、なんて芭蕉は死の直前に詠んだらしいが、現在、おれは木造アパートの一室で病床に伏せ、その夢は地元のシャッター街をかけ廻っている。

埃っぽい空気の匂いを突き抜けて、店舗のぬけがらが視界の横を次々と通り過ぎていく。風が湿っぽい。自分以外に人はいない。この陰鬱な商店街のなかで、一軒だけ、シャッターが開いている店を見つける。

それは小さな古着屋だった。店先に掛けられているシャツの柄はどれも、サーティワン・アイスクリームのフレーバーのような見た目で、辺りの殺風景に馴染んでいるとは到底思えない。こんな店が、この若者に見捨てられた街でやっていけるのだろうか。ふいに興味を惹かれて、おれは狭い入口をくぐった。

「いらっしゃいませぇ、柔(やわ)です」

「はい?」

「柔(やわ)です。店の名前です」

そう言って、レジに立っている男はこちらの顔を見た。男は金髪で、清潔な白シャツを着ており、あらわになった首元には、短いチェーンのネックレスがかけられている。そのどことなく垢抜けた格好から、彼は一度上京して数年間を過ごし、それから地元に帰ってきて、自分の店をオープンしたという部類の人間だろうと思った。地方創生の神話にそそのかされる奴らの数が、未だに減少の兆しを見せないことに、おれはいつも軽い驚きを覚える。

ずらりと並んだ服と服のあいだにある狭い通路を進み、それらの商品を見定めているあいだ、男はおれの後について様々な話をした。久しぶりの客に浮き足立っているようだった。そのなかには彼自身の身の上話も含まれており、大学進学と同時に上京したこと、卒業後も地元に帰らずぶらぶらしていたこと、そしてある時、東京から田舎に移住してカフェをオープンしたブロガーの記事を読み、そのイケてるライフスタイルに感銘、共感、衝撃、虚脱、うかうかしていられないと思ったことなどを饒舌に語った。推測が見事的中したことで、おれは満足感に浸った。

「ここに戻ってきて正解でしたよ」と彼は言う。「東京での暮らしと比べて、まず生活コストが半減されましたね。この店も、都会では考えられないほどの安値で借りることができました。その分、所得も減ってしまうではないかと反論する者もいるでしょう。しかし、地方で東京と同じようにお金を稼ぐことは、誰もがスマホから最新の情報を得られるこの時代、それほど難しいことではないと僕は思っています。商圏の拡大ですよ。地方というのはまさにブルー・オーシャンです。そして、そんな市場で客を引き寄せるには、田舎の他の店舗にはない個性が必要なんです。そこで、東京で見聞きしたものが役に立つというわけですね。この店を中心に、商店街に面白いお店が増えていって、地域の活性化に繋がればいいなと考えているんですよ」

「なるほど」とこちらも話を合わせた。

「東京から帰ってきて、初めて地元の良さに気づかされましたね。食べ物は美味しいですし、親切な人も多い。それに、この地域はあれなんですよ……、あの、ズボンのベルトを通すところに付けるフックみたいなやつ、なんか鍵とかをぶら下げたりするやつあるじゃないですか。あれ何でしたっけ」

「カラビナ、ですかね?」

「あー、そうかも。多分それです。それの生産量が日本一です」

そうなんだ……。

「他にも、ここ数年では、現代アートによる町おこしを推し進めているところなんです。将来的には、街全体を美術館のように巡ることができる、〈アートの街〉としてこの街の魅力を発信していく予定で。実を言うと、僕もそういった創作活動に取り組んでいるんですよ。全くの独学ですけどね」

おれはうんざりしていた。現代アートの効用。キッチュの横行とそれによる弊害が、こんな宇宙の片隅にまで広がっているのだ。気の毒なことではあるが、ジェフ・クーンズはいい加減にけじめをつけなくてはいけない。

こちらの沈んだ気分をよそに、男は店の奥へとおれを導いて、雑然とアクセサリーが置かれている棚を慎重にずらした。その後ろにはさらに通路が続いていて、その先にひらけた空間があるようだった。「この奥で創作をしているんです」と言って、彼はその暗い通路に入っていく。そんなものを鑑賞したいとは思わなかったが、仕方なく後についていった。

少し進んでから、彼は手さぐりで照明のスイッチを押した。すると目の前に、窓のない、真っ白な正方形の空間が現れた。どことなく抽象的な部屋だ。その中央には脚立が置かれている。そして、それを登ったあたりの天井にキャンバスが飾られており、そこには虫眼鏡がぶら下げられている。おれは男の顔を見た。

「えっ、これってあれだよね。オノ・ヨーコのやつ。ジョン・レノンが感銘を受けたっていう。『YES』って書いてあるやつ。めちゃくちゃ見たことあるんだけど」

男はあらぬ方向に目を向けて、心の底から素知らぬ振りをしていた。口は完全に「3」の形をしていた。ゴシック体の整然とした「3」だった。そのまま口笛でも吹き始めそうだった。

「えっ、なにその表情。すっごいしらばっくれてるじゃん。オノ・ヨーコのやつでしょ? それは認めましょうよ」

「そういうんじゃないです」と男は急に仏頂面になって言った。「やめてください」

その変貌ぶりと冷淡な口調に威圧され、おれは言葉に窮してしまった。とりあえず作品を鑑賞してみてください、とすぐに彼が言ってきたので、ひとまず脚立に登り、ぶら下げられている虫眼鏡を手に取った。天井のキャンバスは目の先にあり、それは一見真っ白のように見えるが、おれは虫眼鏡を覗いて一面を仔細に観察した。するとキャンバスの真ん中から少し右下の方に、非常に小さな文字でこう書いてあった。

ワカチ粉(こ)

ワカチ粉(こ)……? と戸惑っていると、彼がこちらの足もとに近づいてきた。そして、脚立の脚をむんずと掴んだかと思うと、あぎゃああああっ、と叫びながらおれが乗っているそれを揺らし始めた。ちょちょちょちょちょちょ。おれはどうにか脚立の上にしがみつき、何度もこの奇行を静止するように呼びかけたが、彼はその要求を無視し続けた。やがて、ほとんど転落に近い格好で床に投げ出されたおれは、呆然としながら彼に言った。

「いや、何してんの? 意味分からんでしょ」

「ブラクラです」

「は?」

「精神的ブラクラです」

アトリエはしばし沈黙に包まれた。おれは恐ろしくなって、一刻も早くこの店を出ようと思った。蹌踉と立ち上がり、先ほど通ってきた通路へと向かう。そのとき、外の方からかすかな声がすることに気づいた。それは次第にどよめきと呼べるほどの音量に変化していき、こちらの歩みを止めさせた。何の音だろう、と首を傾げていると、彼が隣にやってきた。

「あれはきっと抗議デモの声ですね」

もうこいつと喋りたくはなかったが、おれはその詳細に好奇心を抱いてしまった。

「デモ? こんなところでデモが起こるんですか?」

「まあ、彼らの活動はデモとは名ばかりの、酷薄なヘイトスピーチに他なりませんよ。ネットで集まった排外主義者たちが、列をなしてこの辺りを行進しているんです。というのも、この地域では数年前から外国人労働者が急速に流入してきていて、彼らはそれを日本の伝統と文化を破壊する、許しがたい邪悪なる移民だと捉えているんです。実際、外国人労働者のなかには家族を呼び寄せて、やがてはここに永住しようとするもの、そしてそれに伴った、日本国民と同等の権利を求めるものもいますが、結局は根拠のないゼノフォビアに過ぎません。そんな品性のないやつらが寄り集まって、在留資格を取り上げろー、なんて喚いてるわけです」

われわれは店の外へ出た。そこでは彼のいう通り、プラカードや旭日旗を掲げた団体が足並みをそろえて行進していた。プラカードには「移民反対」「外国人犯罪撲滅!」といったフレーズが書かれている。その群衆の中央では、街宣車がぐるりの歩調に合わせて徐行しており、その上に立った演説者が、激越な口調で「侵略者を追放せよ」「仮借なく断罪しろ」と舌を振るっている。そして、「美しい日本を守れ!」とだしぬけに怒声をあげると、それに呼応して周囲の人々が同じ台詞を唱和する。その統制のとれたシュプレヒコールのなかで、とりわけある一点が、おれをぎょっとさせた。

というのも、そのデモ活動に参加していることごとく全員が、セイキンのお面をかぶっていたのである。誰もが自らの顔をセイキンの下に隠して、年齢を確認できるものは一人もいない。一重のまぶたに彫りの浅い顔。ちょうどムンクの『叫び』に描かれている男のような相貌の集団が、移民排斥を求めて街を練り歩いている姿は異様である。また、街宣車にはセイキンのアスキーアートが塗装されていて、その下の、ユーチューブの自動字幕のような位置に、〈ちょっと待て 移民〉という文字が入っている。

その奇怪な行進を続けながら、彼らは商店街から遠ざかっていった。姿が見えなくなるまで、われわれはその行方を見守っていた。

「なんですか、あれは?」とおれは愕然とした。「どうしてあんな格好を、なにが目的なんです?」

「彼らにとって、セイキンとは移民排斥運動の象徴なんです」と彼は言った。「その偶像化がどのタイミングで始まったのかは分かりません。しかし、ユーチューバーとしてのセイキンは、今となってはただの『元ネタ』と呼ばれるものになりさがってしまいました」

それから、彼はセイキンがネット上で極右やレイシストたちのシンボルに変遷していくまでの、短い歴史を語ってくれた。それはこのようなものだった。

セイキンをゴリゴリの右翼に仕立て上げる、というネタが最初に流行ったのは、二〇一八年頃だというのが通説である。ツイッターに挙げられたコラ画像が無茶苦茶にバズり、そこからそのノリが一人歩きしていったのが発端らしい。しかし、その画像がバズる前から、セイキン=極右の大物というノリはほそぼそと続いていたようで、結局のところ、他のあらゆるインターネット・ミームと同じように、その初出は不明だった。

ただ、たしかに当初は、それはくだらないコラ画像、よくある悪ふざけに過ぎなかった。そもそも、セイキンがアップロードした動画のサムネのポーズが、ナチス式敬礼を彷彿とさせるものだったことに一つの導因がある。もちろん、セイキン本人にはそのような意図などなかったし、それに目をつけて画像を加工した名もなき個人も、事態がこのように大きなものへと発展していくとは、夢にも思わなかっただろう。

ムーブメントが起こった。雑なコラ画像だけでなく、玉石混淆のイラストやアスキーアートなども、ハッシュタグとともに日々量産されることとなった。極右のセイキンボットは、二ヶ月でフォロワーが一万人を突破した。それらは5ちゃんねるにも輸入されて、匿名の掲示板サイトならではの過激さにより、ますます攻撃的な人種差別の意味を強めていった。その頃には、一部の極右の活動家がセイキンの画像を引用するようになっており、右翼団体や個人のウェブサイトに無断転載されている光景もしばしば見受けられた。革命前夜、セイキン・キャンペーンの黎明期である。

政治的人間のネットワークには、目を見張るものがある。老いさらばえた、セイキンを知らない右翼の政治家の何人かが、自身のツイッターアカウントで、〈オタク〉たちが作ったセイキンの過激な画像をリツイートした。それらはこの上ない煽動になった。もはやセイキンは一部のコミュニティを抜け出し、ナショナリズムのシンボルとして、その勢いをいや増していくばかりだった。同じくユーチューバーとしてのセイキンを知らない左翼の政治家が、セイキンを名指しで批判して炎上するという騒動もあり、やがては、国会でもセイキンの名前が挙がるまでに事態は激化した。

セイキン本人は、ユーチューバーの活動を一時休止し、弁護士に依頼して事態の収拾を図ろうと試みた。しかし、一つ一つのサイトに画像や書き込みの削除を請求しようにも、その膨れ上がったキャンペーンにはきりがなかった。警察によって、とくに悪質な何人かが摘発されたが、それも大した打撃にはならなかった。これは単なるネットリンチとは事情が異なり、個人の主義主張に肖像を利用されていることが問題であるため、警察も対処が難しかったのだろう。それに、騒動はすでに人の手で止められるものではなくなっていた。セイキンはやむなくユーチューブチャンネルを非表示にし、ツイッターアカウントは削除、自らUUUMを脱退するに至った。

「見てください」と歴史を語り合えた彼は、ツイッターの画面をすっとこちらに見せてきた。
そこには、先ほどの話に出てきたようなセイキンのコラ画像が並んでおり、アイコン自体をセイキンにしているアカウントも散見された。そのなかの何人かは、ツイートの文章に読点と絵文字を乱用することで、薄気味悪い不自然な文体を生み出している。彼らはユーチューバーとしてのセイキンを知っているのだろうか。おれは今までにないほどの世代の断絶を感じた。また、有名人でもこの運動に熱心なものがいて、百田尚樹も自分のアイコンをセイキンに変えていた。多分こいつはセイキンを知らない。

「セイキンの身にそんなことが起こっていたなんて……」とおれは言った。「セイキン・キャンペーンというものは、寡聞にして、これまでに聞いたこともありませんでした」

「興味があるなら、駅前の方へ行ってみたらどうですか」と彼は言った。「彼らはデモ行進を終えると、そのまま街頭演説に移行するのが常なんです。この商店街を出て、右にまっすぐ進んでいったら見られると思いますよ」

おれはその演説の場面をどうしても見たいと思った。しかし、それはやじ馬根性でもなければ、恐いもの見たさでもない。ただ、この運動の実態を自分の目でしっかりと確かめておきたい、という抑えがたい欲求があった。

「そうですね。せっかくなので、ちょっと見物してこようと思います。色々とありがとうございました」と言って、おれは駅前へ向かった。

お気をつけて、と彼は微笑んだ。

その道すがら、思いがけないことが起こったのである。シャッター街はずいぶんと長かった。ポケモンだったらタマゴを孵化させるときに使えそうですね、なんて考えながら外の世界を目指す。いくつかのシャッターには、描いてから数年は経過しているようなタギングがあり、その下に錆びた自転車が倒れている。そのような風化した光景を通り過ぎていき、ようやくアーケードの出口にたどりつくと、その角を右に曲がった。

次の瞬間、おれは飛び出してきた何かに衝突した。あばっ、と声を上げて尻餅をつく。頭が一瞬真っ白になる。痛みはヒーローのように遅れてやってくる。それでもなお、飛び出してきたものの正体を見定めようとして、おれは視線を前方に合わせた。だが、正面にぶつかるようなものは何もなく、後ろを振り向いてみても、ここから過ぎ去っていくものは見当たらない。これは一体どういうことか。

すみません、という慌てた声が聞こえ、おれはびくっとしながら視線を戻した。誰もいない。がらんとした真っ直ぐな道が、駅前の方へと続いているだけだ。空耳にしてはやけにはっきりとした声だったが、わたくしは錯乱してしまったのかしら。そう思ったとき、目の前からふたたび同じ声が聞こえた。

「すみません、僕の不注意で……。怪我はないですか?」

にわかには信じがたいが、その声は何もないはずの空間から発せられていた。喋り慣れているような男の声だ。つまり、おれはこの地方のシャッター街の出口で、いわゆる透明人間というやつに遭遇したのである。そして、さらに信じがたいことに、おれはその声に聞き覚えがあった。

「あの……、間違っていたら申し訳ないのですが、もしかしてあなたは、セイキンさんではありませんか?」

おれがそう言うと、男は虚をつかれたように沈黙した。だが、こちらに敵意がないことを注意深く確認すると、(その動作自体は見えなかったが)警戒を解いたようにゆっくりと口を開いた。

「ユーチューバーを知らない世代の方々は、僕のことを得体の知れない極右の大物だと勘違いしています」と彼は言った。「しかし、僕の声が分かるということは、あなたはセイキンという元・ユーチューバーの、大切な視聴者の一人だったのでしょう。ありがたいことです」

「というと、あなたは本当に……」

「そういうことになりますね」とセイキンは言った。

「ど、どうしてそんな透明な姿に?」とおれは言った。「なんかそういう類いの薬でもあるんですか? というか、どうしてこんな辺鄙な土地で全力疾走を? 有名人と同じ苗字の人をからかうユーモアをいい歳した大人がやってたらうわってなりません?」

「僕が透明になったのは、UUUMを脱退してこれまでの仕事から離れ始めた頃のことでした」とセイキンは言った。「セイキンという役割が身の回りから剥がれていくにつれて、自分という存在が希薄になっていくのが分かりました。すでに僕はユーチューバーとしての活動をやめていて、元・ユーチューバーという肩書きさえも、少しずつ極右のシンボルという肩書きに塗り替えられていきました。僕が知っているはずの自分というものを、どこかから勝手に生み出された自分が上書きしていくんです。僕はそれから逃れようとして、新しい役割をいくつも自分に当てはめようとしました。しかし、結局、後には何も残らなかった。僕の本当の姿は、もはや誰にも見えなくなっていました。

透明は良いですよ。僕を追いやったのはネットの匿名による影響力でしたが、透明は匿名をはるかに凌駕しています。匿名である彼らでも、パソコンの向こうには実体があるんですから。今となっては、ネットでの瑣末事はもれなく僕を透過していくばかりとなりました。セイキンというハンドルネームに新しい意味を与えることはできても、僕自身を認識することは誰にもできません。

とはいえ、あの人種差別的な運動には、こちらにも責任があると思うんです。もちろん、僕は過去一度も特定のイデオロギーに染まったことはありません。しかし、誰かが勝手に始めたことで、僕自身は参加していなかろうとも、あそこには確かにセイキンという名前の力が働いています。それに対して素知らぬふりをするわけにはいけません。そこで、僕はこの透明の身体を活かして、彼らの活動を暗々裡に観察することにしたんです。これまでに何度もデモ行進を尾行して、事件が持ち上がりそうになったり、一般市民に危険が迫ったときには、すぐにそれを阻止するよう努めてきました。騒動の核にいる人物を様々な手段で抑えて、市民をその場から避難させるといったふうに。

ですが、今日は僕一人の力ではどうにもなりませんでした。駅前でデモ行進を待ち構えていた、カウンター活動を行っているある団体が、彼らと大規模な衝突を起こしたのです。そのカウンターの団体というのは、はっきり言って、あの僕のお面を被った排外主義者たちと同じくらいに過激な活動家の集まりです。毎回、激しい罵倒で相手の演説を妨害し、強引に活動を封殺しようとするあのイデオロギーには、どこか不穏な空気、暴力の気配とでも言うべきものがありました。ですので、僕は双方どちらの団体にも警戒していたのですが、ついに今回のような暴動に発展してしまった。どちらが最初に手を出したのかは分かりませんが、あれはもうしばらく沈静化しそうにありません。一部は暴徒化し、最前線はほとんど革命のような様相を呈しています。警察官が近くに数人いましたが、あの程度の人数ではどうしようもない。恐らくいくらかの血が流れることになるでしょう。この場にとどまっているのは危険だと判断して、急いでここまで逃げてきたわけです。有名人と同じ苗字の人をからかうユーモアをいい歳した大人がやってたら僕もうわってなります」

おれは黙ってセイキンの話を聞いていた。これがユーチューバーの顛末なのだろうか。この、悪ノリでハンドルネームを一時の慰みものにされたあげく、今になってネットでのツケを払わされているこれが? ちょうど、高額を課金したソシャゲのデータが、わずかな手順で綺麗さっぱりと削除されてしまうように、セイキンはネットでの活動から退いた途端、ぽんと馴染みのない未知の現実に放り出されてしまった。彼の場合はいささか特殊な例とはいえ、他のユーチューバーなどの著名人にとっても、過去を失うことは現在を失うことであり、己の姿が見えなくなってしまうのも他人事ではないのではないか?

また、彼が例の団体をたえず観察していたということにも驚かされる。そしてその報告によると、駅前ではまさにいま暴動が発生しているのだ。しかし、まだ現場には距離があるとはいえ、群衆の興奮した声がここまで一切聞こえてこないのは奇妙だった。道は死体のように静かである。この先にそのような惨状が広がっているとは想像できない。

「今、駅前に行くのは危険です」とセイキンは言った。「もしも見物に行くつもりだったのなら、それは諦めてすぐに引き返した方が賢明でしょう。どんな火の粉が飛んでくるか分かりませんから」

おれは頷いたが、運動の実態を見たいという欲求はまだ残っていた。それに対抗するカウンターの団体というのにも、猛然と興味が湧いている。彼の警告をなおざりにするのも気が引けるが、よほど前線に近づかなければ大丈夫だろうとおれは高を括った。

「色々と身の上話を聞かせていただきありがとうございました。忠告もしっかりと受け取りましたが、せっかくここまで来たのだから、もうほんの少しだけ先に進んでみようと思います。なあに、遠くから現場を眺めたらすぐに退散しますよ」

こちらの楽観的な口ぶりに対して、セイキンがどんな反応を示したのかは、おれの視覚器官では識別できなかった。だが、彼はとくに反対しているような様子もなくこう言った。

「こちらこそ、長々と話し込んでしまってすみません。個人の判断ですからむりに引き止めはしませんが、十分に気をつけてくださいね。それでは、僕はこれで」

そして、彼は音もなく立ち去っていった。立ち去っていったのだと思う。だが、身を潜めているだけでまだそこにいるのかもしれないし、そもそも最初からいなかったのかもしれない。強い風が吹いて、先ほどまで彼がいたと推測される座標に、使い捨てのレジ袋が飛ばされてきた。

サイン貰うの忘れてた、と思いつつ、おれは慎重な足取りで前線へと向かった。

はたして、セイキンの言う通りだった。駅前へ近づくにつれて、荒れた光景を目にすることが増えていき、コンビニや不動産屋などの窓ガラスが割られ、歩道に散乱した破片がきらきらと輝いていたりした。とくに驚いたのは、車道の真ん中にひっくり返ったダイハツ・ミライースが放置されていたことだ。この様子だと、たしかに中心地はかなり酷い有様になっているかもしれない。しかし、実際に暴動に参加している者は、現時点では一人も確認できていなかった。呆然とあちらこちらで佇んでいるのは、せっかくの安らかな休暇を滅茶苦茶にされた、ただの一般市民のようだ。

危険は覚悟の上でさらに前へ進む。とはいえ実際のところ、今の自分には危機感が決定的に欠落しているということを、おれははっきりと自覚していた。この街に来てからというもの、次々と予想だにしない展開が現れて、抜き差しならぬ欲求が自分を見知らぬ場へ運んでいく。その偶然の奔流のなかで、世界を揺るがす強大な力に触れながらも、意識の奥底はたえず冷めているのが分かる。そして、それはあからさまな暴力の一端が目の前に飛び込んできたときにも変わらなかった。離れたところに男が一人倒れている。近づくと、その男は血みどろで息も絶え絶えになっており、飛び散った赤い血は空の雲にまでこびりついている。

その光景は突然現れた。瀕死の男を慮りながら視線を上げると、道の先にのたりのたりと暗い波のようなものが蠢いていた。それは圧倒的な人の群れだった。ひたすらに肩と肩をぶつけ合い、背中と背中を押し付ける様子は、二つの勢力が争っているようには見えない。それは、なにか一個の凶暴なエネルギーが奔出して、地上を恣に跳躍している印象をこちらに与える。セイキンが撤退したのも無理はない、と思った。通り過ぎる場所を根こそぎ破壊しながら、目的もなくどこかへ移動していく一団に、鎮圧の兆しは微塵も感じられなかった。

その人々の塊の一部が切り離され、道路脇に駐車されているトヨタ・レクサスに向かっていく。そして、彼らは持っていたプラカードや金属バットを容赦なく車体に振り下ろした。寄ってたかって窓ガラスを粉砕し、ボンネットがへこまされていく暴虐なるリンチのさまは、子どもの頃に本で見た、原始人が大勢でマンモスを狩ろうとしている絵を思い起こさせた。

やりたい放題に暴れているこの集団のなかに、セイキンのお面を被った者が一人もいないことに気づいたのはこのときだった。辺りを見回してみると、セイキン・キャンペーンの支持者はちらほらと単独で動いており、この無法地帯を支配しているのは、ナマの顔を晒した素性の知れない人々のようだ。もちろん、この騒乱の中でどさくさ紛れにお面を外した者も数多くいるのだろうが、今となっては、セイキンを運動の象徴とする排外主義者、それに対抗しようとするカウンター運動の参加者、そしてノンポリの小市民との区別がまったくつかない状態となっている。

とにかく、目的の光景を目にすることはできたのだから、これ以上ここにいる理由はない。さっさと退散しようと踵を返しかけた瞬間、首筋に衝撃が走った。鈍い痛みとともに目の前がぱちんと弾けて、氾濫する光のなかに全身を突き落とされたような錯覚を覚える。独りでに倒れていく身体を背後にひねると、手刀の構えを取った長身の男がおぼろげに見えた。それって悪役よりも仲間がやる技やありまへんの、とぼんやり思いながら、少しずつ意識は遠のいていった。

頭から冷水を浴びせられて目が覚めた。咄嗟にずぶ濡れの身体を動かそうとするも、地べたに正座させられたまま、後ろ手をきつく縛られており、逃げ出すことが困難な状況にあることをすぐに悟った。場所は野外ではあるが、武将の陣地のような簡易な築城が施されており、ぐるりに張り巡らされた幔幕によって、外の様子や現在地は確かめられない。バケツをぶら下げてこちらの目の前に立っている人物は、意識を失う寸前に姿を捉えたのと同じ手刀の男だ。セイキンのお面は被っていないが、実際のイデオロギーは判然としない。まあ、なにかしら厄介な理念を掲げて行動していることは間違いないだろう。その後ろにもうひとり男が立っていて、そちらはセイキンのお面を被っていたが、下半分が強引にちぎれて、だらしのない口元が剥き出しになっている。こいつは移民排斥運動のデモに参加していた一人なのだろうか。秩序の崩壊した今となっては、暴動の混乱に乗じて、素性を偽るためにお面をつけているという可能性も十分ありうる。そう考えていると、沈黙を続けていた後ろの彼がこちらに近づいてきて、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「いいか、余計なことは喋らずに、俺たちの言葉にだけ従うんだ。分かったか?」

「はい」とおれはひとまず素直に頷いた。

男も同じように頷くと、胸ポケットからメビウスを取り出し、その一本にライターで火をつけて、まずそうに一口吸った。それから、煙をゆっくりと吐き出してこう言った。

「ドリカムの代表曲を一つずつ言ってけ」

「えっ?」

かなり意外な要求だった。おれはぽかんとした顔で相手を見た。

「何をぼさっとしてんだ! いいから早く言え!」と男が怒鳴った。

「そうだそうだ!」と手刀の男が言った。

不意を突かれてしばらく思考停止に陥っていたが、二人に迫られて、何か言わないとまずいことに気づいた。幸いドリカムには代表曲がいくつもある。どうにか頭を働かせて、そのうちの一曲におれは思い至った。

「大阪LOVER」

そう口にした瞬間、右の頬に拳が飛んできて、バランスを崩したおれの身体は地面に激しく叩きつけられた。何が起こったのか理解できなかった。殴られた箇所にはずきずきとした痛みが残り、拘束されているため自力で起き上がることもできない。横倒しの視界で、煙草をくわえた男がこちらを見下ろすように近づいてくる。

「どうした、早く次の曲を言え」

言ったところで穏便に済むわけがなかったが、こちらに拒否権はない。おれが今できるのは、ドリカムの往年の名曲たちを思いつくだけ挙げていき、この理不尽な打擲を耐えしのぐことだけなのだ。

「決戦は金曜日」

男の靴の先が、下腹部に力強くめり込むのを感じた。一瞬、身体が浮き上がったような感覚になり、叫び声が喉の奥から勝手に出てきたのでびっくりした。地面をごみのように転がって、うずくまったままで激しく咳き込む。呼吸がうまくできない。倒れ込んだ低い目線を二人の方に向けると、手刀の男が長財布の中身を確認していた。それはおれの財布だった。こいつらは一体何者なのだろうか。政治理念の坩堝であるこの暴動のなかに紛れ込んだチンピラが、人生に刺激を求めて悪趣味な拷問を楽しんでいるとしか思えない。

「おい、いつやめてもいいと言った? ちょっとでも曲名が滞ったら、もっと酷いことになるからな」

男はふたたびこちらに近づいてくると、懐からナイフを取り出してくるくると楽しげに回した。

「未来予想図II」とおれは言った。

バキッと男はおれを殴った。

「何度でも」とおれは言った。

バキッと男はおれを殴った。

「LOVE LOVE LOVE」とおれは言った。

バキッ バキッ バキッと男はこちらが「LOVE」と言うごとに、つまり立て続けに計三回おれを殴った。

なされるがままの殴打に意識は朦朧とし、おれはほとんど夢見心地で次の曲を探し当てようとしていた。てか、これ夢じゃなかったっけ。口の中ではひどく生々しい血の味がする。痛みの感覚が驚くほど薄い。塩をかけられたなめくじみたいに、全身がどろどろと溶けてきているような気がする。

とうとうストックが枯渇して、おれはドリカムの代表曲を言い淀んでしまった。もはやこれまでかと覚悟したが、男はこちらを一顧だにせずに、苛々した口調で手刀の男と会話を交わしている。どうやら煙草を切らしたようだった。

「休憩がてら、コンビニにでも行ってくるわ」と男は言った。「煙草と、あと弁当も買ってくる。俺が戻ってくるまでしっかりと見張っておけよ」

「了解です」と手刀の男は言った。

男がコンビニに出かけると、もう一人の男は暇そうにスマホを取り出した。こちらからは少し距離を置いた場所に立って、頭の中に脳じゃなくてマシュマロが詰まってんじゃないのかという締まりのない顔のまま、その愛機の画面をぼんやりと眺めている。相手は彼一人なのだから、ふいを突けば一気に逃げ出すこともできるのではないか、とおれは考えた。しかし、身体はもはや一ミリも動きそうにない。観念して意識を失いかけたそのとき、耳の後ろに息が当たるのを感じて、思わず変な声を上げそうになった。

「大きな声は出さないようにしてください」とどこかで聞き覚えのある声がした。「助けにきました。本当はもっと早く助けるべきだったのですが、あの乱暴狼藉な男が拷問を中断するまでは、そばに近づくことが難しかったのです」

「セイキンさんですか?」とおれは小声で言った。「信じられない、どうしてここに?」

「あなたと別れたあとでやはり心配になって、急いで後を追いかけたんです。そして、やっとあなたの背中が見えたそのとき、洗練された素早い手刀によって気絶させられる場面に遭遇しました。これは大変だと思い、私は隠密にあなたを運ぶ二人組を追跡しました。そのあいだ、たえず救出の機会をうかがい、ようやくそれが巡ってきたわけです。さあ、ここから逃げ出しましょう」

「そうだったんですか……。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」とおれは心から反省してそう言った。「でも、僕がここから逃げ出すのはほとんど不可能だと思います。もう身体は少しも動かせそうにないし、監視の目もありますから」

「大丈夫です。彼にバレることなく脱出する方法がちゃんとあります」とセイキンは得意げに言った。

「バレることなく脱出する方法?」とおれは彼の言葉を反芻した。見当もつかない。この元・ユーチューバーは一体何をする気なのだろう、と一瞬不安がよぎった。その動揺を察知したのか、セイキンがこちらを勇気づけるような口調で語ったのは、ついぞ考えもしなかったことだった。

「あなたも透明になればいいんです」とセイキンは言った。「私と同じように不可視の存在となれば、監視者の目を楽々と掻い潜りつつ、身体を休ませながら逃げおおせますよ!」

おれはその提案に手放しに乗ることができなかった。まず透明になる方法が分からないし、よしんばなれたとしても、ちゃんと元の身体に戻れるのかという懸念がある。かてて加えて、相手がマジで何をする気なのか分からないという恐怖心によって、おれとセイキンの心の距離はぐっと遠ざかった。街の中心部と山奥の閉鎖病棟くらいの隔たりである。

「心配ご無用です。すべて私に任せて、あなたはそのままじっとしていてください」

そう言うと、セイキンが背後で立ち上がる気配がした。「あの……」とおれは呼び止めようとしたが、彼はこちらの狼狽をつゆほども気にせずに、どこかへと移動していった。まったく先行きが見えない。ふいに、セイキンとの接触を勘付かれてはいないかが心配になり、ちらと監視の男の様子をうかがった。男は相変わらずスマホを弄り続けていて、にやにやとした口角が輪郭をはみ出して斜めに突き進み、眉の横の辺りでピントがずれてクリスマス・ツリーのモールみたいになっている。その奇怪な状態にぎょっとしたとき、すぐ目の前で土を踏みしだく音がした。セイキンがこちらの真正面に立ったのだ。おれは息を飲んだ。そして、彼は押し黙ったままで透明の遊脚を持ち上げて、足元の地面を勢いよく蹴り上げた。

それから何が起こったか。

ジグソーパズルが砕け散るみたいに、足元の地面がばらばらと崩れ始めた。足の踏み場を失ったおれはなすすべなく転落し、暗闇の広がる奈落の底へとたえまなく落ちていく。やがて、どこからかシガーロスの荘厳な演奏が鳴り響き、ヨンシーがあの澄明なファルセットでらららららららららと歌い始める。少し離れた場所から空気を震わせて届くその音楽は、気のせいか、セットの裏側で演奏しているみたいに聴こえる。遠くの方では月が吊るされたみたいに浮かんでいて、まさに今、アポロ十一号がその月面へと着陸し、一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍である一歩を踏み出そうとしているところだ。その神聖な光景に見惚れていると、がこん、と後頭部をぶつけた。振り返ると、島根県くらいの大きさの本棚が雄大にそびえ立っていて、とんでもない数の岩波文庫が、作家別、五十音順に整然と並べられている。と思ったら、タ行辺りからはもうめっちゃくっちゃ・くっちゃくっちゃという感じで、こういうやつは何をさせても上手くいかないだろう。心底呆れていると、足元のずっと下の方から白熱した雄叫びが聞こえてくる。身体の均衡を保ちながら真下に目を凝らすと、やる夫とやらない夫が腕相撲をしているのが分かった。これは胸熱。やる夫がんばれー、と思ったところで、やばい。このまま落下を続けると、試合に熱狂している二人のちょうど頭上が着地点となり、激しい衝突は避けられない。まずい。が、良い手立ても思い浮かばず、二人のアスキーアート・キャラクターは急速にこちらへ近づいてくる。ぶつかる。ぶつかる。ぶつかる。

衝撃はなかった。

いつのまにか、舞台は最初の木造アパートの一室に切り替わっている。中央に布団が敷かれていて、机や収納ボックスが壁際に配置されている。床は不要のペットボトルやカップ麺の容器などでひどく散らかっていて、辛うじて足の踏み場がある程度だ。

部屋に人影はない。無人である。そのひっそりとした空間を、一匹の色鮮やかな蝶がたおやかに飛び回っていた。となると、ここに至るまでの時間は蝶が見ている夢、夢と現実の狭間が曖昧になり、人生の儚さを曝け出す寓話の如きものだったのだろうか。否。だって、今まさにここで語ってるじゃないですか。一見、部屋には人っ子一人いないように見受けられるが、それは透明になっているから致し方ないのであって、現在は布団の上にあぐらをかいているのである。たとえ実体を視認できなかろうと、この意識と蝶が同時に存在しているからには、夢と現実の境界が危ぶまれることはない。ざまあみろ。

ふたたび舞台が切り替わる。というより、不可視の領域がさらに拡大して、四方の壁が透明になることで、その後ろに隠れていた街並みが一気に広がった。部屋自体が消失し、その透明の侵食はさらに進んでいく。じわじわと他の部屋も飲み込まれていき、アパートがその姿を失うまでに大した時間はかからない。やがて、アパートが喪失してぽっかりと空いてしまった空間は、その透明の範囲をさらに広げようと、道路を越えて市街地へとにじり寄っていく。横断歩道や踏切、電柱や信号機にガードレールなどがなし崩しに消えていく。その速度は徐々に増して、建築物や地面がみるみるうちに見えなくなる。透明が四方八方へと駆け巡る。遠くのビルや丘陵までもが凄まじい速度で消滅していき、ついにそれは空にも及ぶ。地上、そして空からすべての色と輪郭が無くなり、遥か彼方まで、眼に映るものは一つも見当たらない。ただ、透明の水平線がだらりと横たわっている。

一切は不可視となる。見渡す限り、そこには何も存在しない。ただ一匹の蝶だけが、がらんどうに溢れた空無の世界を、ひらひらと羽ばたき続けている。

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