重力のクロックス

隣の三〇二号室に子どもがいることに気づいたのは先週からだった。このマンションに引っ越してきて三年が経つが、私はいまだ隣人と面識がなかった。

ご近所付き合いを避けること、他人の生活に干渉しないことがここでの不文律となっているので、私の人間関係の希薄さはさして特殊な例ではない。おそらく他の住人も似たようなものだろう。友人を家に招待して、食事会を開いたりするような親密な交際、ビールで乾杯し、赤ら顔で大声を上げながら夢や思い出を語り合うような、むなしい野卑な振る舞いが美徳とされる世界ではないのだ。

彼らはすれ違いざまに相手の表情を盗み見て、だれもかもが同じような鬱屈を抱えていることに安堵しつつ、自らの殻に閉じこもる。空疎な満足感と閉塞感の陶酔が、この空間には満ち満ちている。

それでも、三年間のうち一度も隣人の顔を見たことがないというのは、やはり奇妙なことだった。隣り合わせの部屋で暮らしている以上、否が応でも鉢合わせる瞬間というのは生まれるはずだ。

もちろん、三〇二号室は空室ではない。ポストにチラシが溜まっているのを見たことがあるし、人の気配はしょっちゅう感じていたので、資産をふんだんに持った人嫌いが隠居生活でも送っているのだろうと推察していた。特に、未婚者が親の遺産で余生を送るライフスタイルは、ここ数年で急速に普及しており、さほど珍しいことではない。この地区においては尚更だ。

しかし、先週からたちまち変化が生じた。どたどたと廊下を走り回る音が頻繁に聞こえ、時にはわめくような泣き声が、平穏な静けさの中でとぎれとぎれに響いた。あきらかに契約違反だ。住人の誰かがすぐに通報するだろうと思っていたが、どうやらいまだに事態は収拾していないらしい。先ほども、グラスが割れるような甲高い声が、隣から聞こえてきたところだ。

二十年前、政府による少子化対策が暗礁に乗り上げていることは、火を見るよりも明らかだった。自治体による保育園建設の計画はことごとく頓挫し、反対運動を起こす地元住民との歩み寄りも、一向に進展しなかった。組織というものは本質的に、民衆と対峙した際には、コミュニケーション障害を発症するようにできている。

さらに、先進国に蔓延したリベラリズムは、ゆるやかに子どもを瀕死に追いやった。かつて彼らが有していた、未来への希望、無償の幸福へと向かう力は徐々に弱まっていき、親にとって子どもとは、莫大な負債を負わせて自由を縛り付ける存在、人生を不幸にする重荷でしかなくなってしまった。出生率の低下、未婚率の上昇は、もはや歯止めがかからないものだった。

政府が捨て鉢になりながら選んだ苦肉の策は、二つの層を分断することだった。彼らは「親子のための地域づくり」と銘打って、郊外にニュータウンを開発し、保育園をその場に集中的に建設した。いつの時代にも、子孫を残すこと、わが子を思うように教育することを自身の延命のように考える人種がいる。そのキャンペーンに乗っかり、結婚や妊娠に伴って移住先をそこに決める夫婦は、たしかに数多く現れた。

そしてそのニュータウンとは反対に、十四歳以下は足を踏み入れることができない、チャイルド・フリー地区が新たに開発されることになった。この施策は当初、差別的だとして大規模な反対運動を引き起こすことになったが、それと同じくらいに賛同する声も上がった。実際、この地区の人々が望んでいるのは、静かで平穏な毎日に過ぎなかった。誰に迷惑をかけるでもない。苦しみに満ちた人生を、少しでも波風を立てずに終えていきたいというだけのことなのだ。エイジズムがかねて日本では問題視されていなかったこともあり、この騒動はしだいに沈静化し、他のあらゆるニュースと同じように忘れられていった。

こうして新たに誕生したチャイルド・フリー地区の住民は、主に四つのタイプ──子どもを持たない方が豊かな人生を送れると考える者、反出生主義者、子ども嫌い、地方に浸透している結婚のプレッシャーから逃れてきた者──に分かれている。独身者と夫婦がその多くを占めており、カップルはほとんどいない。なかには不妊手術をした夫婦もいた。そして彼らに共通していることは、多かれ少なかれ、人生に絶望しているという点だった。

私自身は、その四つのタイプのどれからも外れる。自室にこもりきりになることが仕事柄多いので、この強迫的なほど物静かなマンションに惹かれたのだ。そのため、ここ最近の騒音には大変悩まされていた。

かたかたと無心でキーボードを打ち、ようやく記事を一つ書き終えたところで、ふたたび甲高い声が隣から聞こえてきた。私は愛用しているマックを閉じると、残っていたコーヒーを飲み干し、重い足取りで玄関に向かった。

外廊下に出る。快晴だった。私は雲一つないのどかな空をぼんやりと眺め、それからその下にある街並みを観察した。人々は実に単調な移動を繰り返している。しばらく逡巡した後で、三〇二号室の前に立ち、インターフォンを押した。

呼吸を整え、ドアの前で相手をじっと待ち受けたが、まるきり反応はなかった。居留守だ。バレないと思っているのだろうか。私はもう一度インターフォンを押した。かなり苛々していた。いったいどんな奴が住んでるんだ? インターフォンを駄目押しし、矢継ぎ早に強いノックを三回繰り返す。すると、部屋の中からこちらに近づいてくる足音が聞こえた。私はふたたび身構えた。開錠の音がして、ようやくドアが開いた。

槇原敬之だった。

信じられなかった。

呆然としている私を、槇原敬之はきょとんとした顔で見つめながら首を傾げた。なんだその反応は。この状況でお前が困惑するのはおかしいだろ。色々と文句を述べたかったが、こういうやつ(槇原敬之なのだが)はどこで逆上するか分からない。私は彼に対して終始、懇切丁寧な対応を心がけることに決めた。

「あの……、今しがたこちらから、泣き声? みたいな、ちょっと変な音が聞こえてきて、というか、先週あたりからずっと聞こえてるんですが……、差し支えなければ、もうちょっとボリュームを、下げてもらえないかなー、と思った次第なんでありますが……」

私が話を進めるにつれて、どことなく怯えているようにさえ見えた彼の困惑の表情は、だんだんと落ち着きを取り戻していった。そして私が話し終えたとき、もう限界だというふうに、突如として抱腹絶倒の発作を起こした。苦しそうに腹を抱えながら、首を上に向けて甲高い笑い声を上げる。それは永遠に続くような哄笑だった。人間の感情がこれほど激しい力を伴って決壊する瞬間を、私はついぞ見たことがない。やがて、後悔と恐怖に苛まれた私の顔に気づいたのか、彼はふいに真顔になって、ぴたっとこちらに焦点を合わせた。

「いやあ、どうやら勘違いさせてしまったようですな」と槇原敬之は言った。「貴殿の推測は、このわたくしめでも十分に斟酌できますよ。私が違反を犯して、この部屋で赤ゴロ(初耳の単語だったが、文脈的に赤ん坊のことだと思う)を育てていると思われたのでしょう? 早とちりなお方だ! しかし、そう考えるのも無理はない。ここ最近の騒音は、私の研究にとって余儀なく生まれる障害のようなものです。ご近所様に迷惑をかけるのは大変心苦しいのですが、とはいえこの期に及んで研究を断念することはできません。そうだ、あなたを私の〈ラボ〉に招待しましょう。私の偉大なる仕事、学びへのとめどない追求によるライフワークを見学すれば、きっと私のやむを得ない立場に共感、納得してくれるに違いありませんから!」

私は今すぐにでも逃げ出したかった。しかし、彼はそんなことお構いなしに話を進めていき、颯爽と玄関の上がり口から廊下に退くと、ほれぼれするほどの礼儀正しい所作で客人に入室を促した。

「あ、土足で結構ですので」

足元に目をやると、彼は紺色のクロックスを履いており、そのすべての穴に『中井正広のブラックバラエティ』のあの手袋のキャラクターのバッチが取り付けられていた。変に歯向かわない方が良い。とりあえずここは穏便に事を済ませ、後ほど安全な場所に避難してから通報することにしよう。私は観念して、土足のまま槇原敬之の部屋に上がった。

嬉しそうに〈ラボ〉へと案内する彼についていく。なにかしら違反行為の証拠があるのでは、と私は視界に入るものを隅々まで注視した。廊下の両脇には、ポケモンのハンサムの等身大ポスターが貼られていた。マジでどういうこと? 私の視線に気づいた彼がこう言った。

「左がダイヤモンドのハンサム、右がパールのハンサムです」

両者にさしたる差異があるとは思えなかったし、そもそもハンサムが登場したのはプラチナからなので、彼の注釈は明らかに誤りである。私を騙そうとしているのか、彼自身の知識があやふやなのか。そんなことはどちらでもいいが、少なくともこいつが信頼に足る人物でないことは確かだ。

この不審者は廊下をぐんぐんと進んでいき、突き当たりにある簡素なドアを開けた。そこは至って普通の部屋のように見えたが、彼はこの場所を〈ラボ〉と呼び、照明スイッチの下にあるものを私に指し示した。そこには大きなレバーがしっかりと固定されており、現在は斜め上に把手が上げられて、オフの状態になっているようだった。

「これはこの部屋の重力を管理しているのです」と彼は言った。「このレバーを下げて機能をオンに切り替えると、一瞬のうちにこの部屋は無重力状態に陥ります。騒音の原因は、その際に機械を制御しようとすることで生じる膨大なエネルギーにあるのです」

えっ、と私は驚いた。にわかには信じがたい話だ。

「それは……、非常に興味深い話です」と私は言った。「実際に機械を動かしてもらうことってできますか?」

「どどどどどどどどうしてですか? 今はちょっと……、なんかぁ、エネルギーにもぉ、上限があるしぃ? 立て続けに稼働するのはさすがに近所迷惑にもほどがあるかなぁ、みたいなぁ? てかオモコロのARuFaさんって知ってます? 彼めちゃくちゃ面白いんですよぉ。ユーモアの切り口が鋭敏で、常人にはない発想力を遺憾なく発揮して数多のおもしろ記事をネットの海に放流しています。ああいう形で若者から支持を得た人物は、どの時代を探しても見受けられませんね。彼は新しい価値観から生まれた一億総ネット時代のカリスマですよ。ここまで理解できてます? いや全然聞いてなくて草。ということでこの装置は一旦置いておくということでFA?」

なんなんだこいつは。文字化けしている個人サイトを見ているときと同じ不安感があるな。

「そ、そんなことよりも、この蔵書をご覧になってくださいませ。こちらが私の研究の成果とその資料、そして私が一生を賭けて蒐集してきた書物のすべてになります。どうです、圧巻でしょう?」

彼が指し示す本棚には、たしかに浩瀚な書物が所狭しと並んでいた。その中には先ほど聞いた研究の分野に関係のありそうな専門書があり、その奥には哲学書や文学全集、高価そうな稀覯本なども完備されている。この男は教養がないわけではない、おそらく長きに渡る隠居生活の果てに気が狂ってしまったのだろうと私は合点した。時代の波に翻弄されたインテリの無残な成れの果てだ。

「どうぞ、お好きな本を手に取ってください」と槇原敬之は微笑んだ。「私立図書館みたいなものだと思って、一冊の本と共にこの正午の休日をくつろぎましょう」

一刻も早く帰りたかったが、歯向かってもろくなことにならないことが予見される。私はとりあえず適当な本を一冊見繕って、それに手を伸ばした。そのとき、私が選んだ本へと彼の手もすっと伸びてきて、お互いの手と手が触れ合ってしまった。あっ、とわれわれは同時に声を上げ、相手を気遣い、自分の手を引き戻しながら一歩後ろに退くと、恥ずかしげに目を合わせた。つかの間、二人の空間を沈黙が支配する。なにこれ。凄い気まずい感じになってる。

「す、すみません……」と彼は頬を紅潮させて言った。「イキそうです」

「えっ、何で?」

「本当に申し訳ございません。お客人の手前ではありますが、ただちにシコらせていただきます」

そう早口で喋り立てると、彼はせわしなく別の部屋へ消えていった。

嵐が去ったような静けさの中、私は〈ラボ〉に一人になる。思いがけない脱出の機会を手に入れた、今のうちにとっととここを抜け出して、この案件は警察に対処してもらおう。そう考えて忍び足でドアへ向かったとき、部屋の端に備えられているキッチンの方から物音がした。

私はひやりとしてその方向を振り返った。なんの変哲も無い、ただのありふれたキッチンだ。物音を立てるような何かはどこにも見当たらない。先ほどの不可解な音の出どころ、その正体を見極めようと、おそるおそるそちらに近づいた。冷や汗がだらりと流れた。そしてそれが視界に入ったとき、私は思わず悲鳴を上げそうになった。

新品のように清潔なシンクのなかに、小さな赤ん坊が寝かされていた。狭い空間に合わせて手足を縮め、ほんのかすかに寝息を立てている。寝顔はしわくちゃで初々しく、柔らかな肌はこれまでに一度も外の光を浴びていないかのように白い。どことなく晩年のトルーマン・カポーティに似ている。戸惑いを隠せずその場に立ち尽くしていると、背後に人の気配がした。

「見てしまいましたね」

これまでになく冷たい声と表情で、槇原敬之はそこに立っていた。そして、いつのまにか右手に持っていたスイッチを押すと、私と彼のあいだの床に小さな穴が出現し、そこから一本のナイフが垂直に噴出された。ちょうどトースターから食パンが飛び出すような感じだ。彼は敏捷な動作でナイフを中空から掴み取った。それと同時に四方から小さな花火が打ち上がり始め、その炎は天井のそばで急激に停滞すると、そこから糸屑のようにぐちゃぐちゃになっていき、みるみるうちに椎名林檎の『無罪モラトリアム』のジャケットの画像に変化した。

「な、何をするつもりですか」 と私は後ずさりしながら言った。

「それを見られたからには、このまま生かしておくわけにはいきません。あなたは間違いなく私の違反行為を密告するでしょう。長年の計画をここで台無しにするわけにはいかない。お気の毒なことですが、誰にも邪魔されずこの偉業を成し遂げるため、あなたは私の研究の犠牲になってもらいます」

この部屋に連れ込んだのはお前だろ、と異議を唱えたかったが、もはや声が出なかった。

「しかし、私も鬼ではありません」と彼は優しげな声で言うと、静かに膝を上げて、片方のクロックスを私の目の前に持ち出した。「こうしましょう。あした天気になあれの下駄の要領で、 このクロックスを天井へと蹴り上げます。これが落下したときに表向きだった場合、あなたは口封じのために抹殺されます。対して、裏向きだった場合には、あなたが本日中に別の場所へ引っ越し、以後だれにも本件を口外しないことを条件に、今回は見逃しましょう」

「それクロックスで代用したら限りなく表になるんじゃないですか?」

早鐘を打つ心臓を抑え、私はなんとか声を出した。だが、槇原敬之はこの必死の反論をふつうに無視して、へぇんっ、という奇怪な声とともにクロックスを天井へ蹴り上げた。

次の瞬間には私の命運が決定されてしまう。一か八か、私は部屋の出口の近くまで駆け寄り、照明スイッチの下にあるレバーを思いきり引き下げた。途端に壁の裏側から耳をつんざくような轟音が響き、〈ラボ〉にあるすべてのものが浮遊し始めた。私の足裏がゆっくりと床から離れていく。槇原敬之は平静さを失なったように空中でじたばたしている。おびただしい書物がページを羽のように開いて部屋中に漂流し、赤ん坊はなおも寝静まったまま天井にへばりつき、クロックスはどうにか上空で静止した。

無重力を解除しようと、槇原敬之は顔を怒張させながら、ばた足で空中を遊泳してこちらに向かってきた。部屋を漂っていた古いラジカセが彼の足に撃墜され、壊れたように『やわらか戦車』のテーマ・ソングを流し始める。

やがて、彼は辛うじてレバーに手が届く距離まで接近し、それを引き上げようと手をかけた。させるわけにはいかない。私はレバーを握る手のひらに渾身の力を込めて、機能をオフにしようとする彼の力に抵抗した。両者の力は互角である。重力の秩序を巡る、神聖なるつばぜり合いだ。

折から、真昼の最も高い位置にある太陽の光が窓に届いた。一瞬、視界が真っ白になる。重力の聖戦によって頭に血を上らせ続けている私の瞳に、天上より降り注いだこの陽だまりは、霊験あらたかな神光のように見えた。その神々しい光を浴びた赤ん坊は、ふと眠りから眼を覚ますと、目の前に静止していたクロックスを手ではじいた。

そして今、光に満たされた部屋の中で、取っ組み合うわれわれの頭上を、クロックスは凄まじい勢いで回転している。

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