ありふれた恥辱

 「雨の音が好きなの」と最初の女は言った。「どしゃ降りの日の窓辺で、雨の一粒一粒がアスファルトを叩く音にずっと耳をそばだてていると、それ以外の音がふっと消えてしまう瞬間がある。わたしが嫌なことを忘れられるのは、そういうときだけ。街の輪郭が雨の向こうにぼやけていくと、次第にこの世のすべてが雨に包まれて、自分の存在さえもそこから消えてしまったような気がするから」

 男はラブホテルのベッドに横になったまま、彼女の言葉を思い出していた。雨が降っていた。彼は目を閉じ、外の地面や部屋の窓を勢いよく叩きつけている雨の音に、そっと耳をそばだててみた。音はまぶたの裏を一定のリズムで鳴り続けた。いくら待っても、どんな音楽的な変化も聴き取れはしない。最初に雨の音を音楽に例えたやつは馬鹿だな、と彼は思った。

 二人目の女は、都内の大学でアメリカ文学を専攻していた。しわくちゃになったシーツの上で、彼女はひとりの作家について話した。もう彼女の顔は覚えていない。記憶に残っているのは、背中にデザートフォークで刺したような二つのほくろがあったことと、その作家の小説の短い台詞だけだった。彼女がシャワーを浴びているときに、その荷物のなかに短編集が入っているのを見つけた。ぱらぱらとページをめくってみると、ふいにある一行が目に入った。そこには蛍光ペンで線が引かれていた。

 「恥を知れ」

 それから、立てつづけに彼は数人の女と寝た。全員がツイッターで知り合った女だった。現在、男のアカウントのフォロワー数は25000人を超えていて、「共感度の高い、自虐的な、ちょっとずれた日常の視点」のツイートが人気を博していた。10000人を超えた辺りからは、過去のツイートを再生産し、モノクロの自撮りをたまにアップするだけで、自然とその数は増加していった。彼は俳優のような端正な顔立ちとは言いがたかったが、その憂いを含んだ瞳、無造作に乱れた髪、それらのどことなく陰鬱とした雰囲気が、一部の女からいいねを稼げることを自覚していた。それに、煙草をくわえて口元を隠しておけば、女たちの憧れがそこを理想的に補ってくれた。頻繁にいいねをしてくる女性アカウントにDMを送り——もちろん、向こうから送ってくるやつもしばしばいた——新宿や渋谷で待ち合わせた。要するに、彼女たちは、ツイッターによくいるような、少しだけ精神を病んだ女の一員で、そういう女と寝るのは簡単なことだった。何人かはすでに彼のことをブロックしていたが。

 床に投げ捨てていた無印良品のリュックを拾い上げ、クラフト紙の紙袋を取り出した。彼は日常的に紙袋を持ち歩いていて、ベッドの上で行為に及ぶとき、それを取り出して女の顔にかぶせた。倒錯的な、相手の尊厳を無視するような行為がたまらなかった。最初のうちは、その提案は激しく拒絶されるだろうと思っていたが、女たちの多くはそれを受け入れた。とくにそういう性癖があるようには見えなかったが、インターネットで知り合った初対面の男の言いなりになり、あとで自己嫌悪に陥りながら、鍵アカで恥辱まみれのツイートをするまでがサイクルになってしまっているのだろう。極めてマゾヒスティックなロールプレイを通してでなければ、彼女たちは自分を表現することができない。いばらの鞭で拷問を受けるヒロインに感情移入をしてしまうようなものだ。べつにだれかが悪いわけじゃない。

 今日も、彼はこの部屋で、新たにDMを送ってきた女と会うはずだった。部屋番号を送ってから三十分が経っていた。雨が降っていた。

 部屋は均質の光のなかで、奇妙で幻想的なインテリアにかこまれていて、彼は夢のなかの迷宮に閉じ込められているような感覚に陥った。バロック様式の意匠が施された壁、きらびやかなシャンデリア、鏡張りの広々としたバスルーム。閉鎖的で、遮音性に優れた、絶対的な外部。その場所を訪れたひとびとは、極度に単純で相互依存的な関係として、生物学的に定められた役割を演じることになる。社会上の身分は蒸発し、自律的な行動の余地はいっさい残されない。この点で、ラブホテルは極めて神学的な建築作品である。内装をざっと見渡したあとで、彼は紙袋のざらついた表面を撫で、それをふたたびリュックのなかにしまった。

 ふいに、がちゃりとドアのひらく音がした。ノックの音はしなかったはずだ。そちらに目をやると、2メートルはある長身の老婆が立っていた。ドラクエのスライムファングとまったく同じ髪型をしていた。

 「ユーチューバーのさ」とその老婆は言った。「コーラにメントスを入れる検証動画ってあるだろ」

 男は呆然と老婆を見つめた。口のなかがひどく乾き、声を出すことも、状況を理解することもできなかった。

 「どっちがメントスだと思う?」

 「は?」

 「あたしとあんた、どっちがメントスで、どっちがコーラだと思う?」

 凄まじい恐怖がやってきた。全身が硬直する。狩人の銃口に気づいた獲物のように、もはや逃げ出すことも、助けを呼ぶこともできない。そのあいだに、老婆はストローの先端を初代DSで挟むと、憤怒の表情でそれを勢いよく吸い始めた。そして酸欠を起こす寸前になると、ぱっと口を離し、急に寄り目になって「セワシ」と言った。セワシ? あの?

 典型的な精神の防衛策のひとつに、解離というものがある。精神医学において、精神とは複数の機能によって編成された列車であり、あまりに激しい衝撃に晒されたとき、一部の車両が切り離され、周囲の出来事を現実のものとして受け止められなくなる症状が現れる。男は少しずつ麻痺の感覚に沈んでいった。老婆が発作的にじたばたと手足を動かして叫ぶ。

 「回文が! 回文が出る!」

 「えっ、えっ?」

 「回文出していい!? 回文出していい!?」

 「あっ、は、はい」

 「セワシ」と老婆は寄り目になって言った。

 沈黙。老婆は「あーあ」みたいな目で男を見つめていた。だが、しばらくして、何か思いついたようにぽんと手を叩くと、携えていたボストンバッグから鷹の死骸を取り出し、「何が出るかな、何が出るかな♪」とそれをさいころのように投げ捨てた。ぼとり、と大理石の床に落ちる。そしてその潰れたような姿を確認すると、「恋の話、略して、ウディPE歯ペは〜!」と快活な調子で言い、ウッディのPEZペッツで歯磨きをし始めた。

 ウッディのPEZと老婆の歯のぶつかり合う音が部屋を満たしていた。時間の感覚がなかった。我を忘れたように猛然と歯磨きを続けているため、老婆の歯茎からは血が滲み出している。そのとき、男は老婆がしずかに涙を流していることに気づいた。

 「なでこないことせなあきまへんのや……」

 老婆は冬の蝶のように小さな声でそう呟き、萌え袖でゆっくりと涙を拭った。ふたたび顔を上げたとき、その瞳はすでに決意の光を宿している。強靭な意志に突き動かされたような動作で、ポケットから一枚のカードを取り出し、それを相手に見える位置に掲げる。スペードの8だった。

 「今から、あんたのことを8切やぎる」

 殺される、と彼は思った。思わず、ベッドに座ったままの体勢で後ずさるが、すぐに背後の壁にぶつかった。老婆がにじり寄ってくる。その眉毛がざわざわとうごめく。そばで見ると、それは眉毛ではなく、蝟集した蟻の大群であることが男には分かった。その黒々とした軍隊が、きらびやかな隊列を組んで大移動を始める。老婆の身体を素早く這い降りていき、床へとたどり着くと、そのまま一糸乱れぬ動きで部屋の壁を登っていく。そうして一匹一匹が統制された配置につくと、壁には、「にえ」という文字が一面を覆うように現れた。生きた心地がしない。老婆が男の目の前で立ち止まる。

 そして、彼は完膚なきまでに8切られた。具体的に言うと、まず下腹部を二回8切られた。たまらずにうずくまると、髪を掴まれ、両頬を往復で何度も8切られた。それから両腕と両足、脇腹、爪、思い当たるすべての関節。その蹂躙の途中で一度、西郷隆盛がドアを開けて部屋に入ってきたが、男と老婆を見るとすぐに、「すみません、部屋と時代を間違えました」と言って出ていった。老婆は気にせずに続けた。すべてが終わったとき、男の身体に、8切ることのできる部位はもはや残っていないほどだった。

 老婆はベッドに倒れた男を満足げに見下ろすと、「ほっほ〜い!」とめちゃくちゃ似てるクレヨンしんちゃんの声真似をしながら部屋を出ていった。残された男は、仰向けに倒れたまま、しばらく放心状態で天井を見つめていた。雨の音は聞こえなくなっていたが、それは天候が回復したのではなく、激しい音の重なりが互いを飲み込んで消滅させてしまったためのような気がした。

 どれくらい時間が経ったのか分からない。ふいに、あの小説の短い台詞を思い出した。彼女の荷物のなかにあった一冊の短編集、その作家の名前はなんだっただろうか。思い出したい、と男は思う。もう顔も覚えていない女が、ベッドの上で自分に聞かせた、アルコール中毒だったというその作家の名前を。今すぐにでも。

 スマホの通知音が鳴った。だれかが彼の過去のツイートにいいねをしたのだろう。それはあまりにもどうでもいいことだった。たまにツイートがバズると、スマホがたえまなく振動し、いいねとリツイートの通知が画面に堆く積み上がっていく。そこには確かに高揚感がある。シェア文化のなかで自分が認められていく感覚がやみつきになる。二日後にはすべてが忘れ去られる。女性蔑視的なポスターの炎上とか、更新されたウェブ漫画の感想とかが、タイムラインの話題の中心になる。男はぐったりとベッドに身体を横たえていた。しばらくして、力の出ない腕をなんとか伸ばし、床のリュックを拾い上げる。紙袋を取り出す。それを自分の頭にかぶせる。

 紙袋は、軽く、かびのような匂いがした。すぐに目が慣れてくる。照明の光がうっすらと透けた、薄暗い紙袋の内側を、男はじっと見つめていた。それはあの女たちが見ていたのと同じ光景のはずだった。何かが起こらなければならない。劇的な変化、彼の致命的な死角に光が差し、その後の人生を急変させるエピックな何かが。

 数分経つ。何も起こらない。そんなはずがない。あれほど突拍子もない出来事に襲われたというのに、翌日からはまた、フォロワーを増やし、女にDMを送り、ホテルの部屋でその顔に紙袋をかぶせるだけの、これまでと同じような人生が続いていくなんてことがあってはならない。そんなはずがない。そうだ、何かが起こらなければならない。

 何も起こらない。

 彼はそれを受け入れられない。

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