サラリーマンと血みどろと私(Pさん)

 1970年代くらいの、昔の文芸誌を読み直してみると、当時の空気が伝わってくる独特の面白さがあった。
 1970年代は、自分の中で、文学の黄金期みたいな印象があった。
 黄金期を担っていたのは、今考えれば何人かの作家であり、その他の人はそれほど興味が無かったりするけれども、そう言って敬遠していたのがそのよくわからない(けれどももしかしたら有名なのかもしれない)作家の、平らで特に注目するところのない文章を追っていくと、時代性みたいのがよけいにしみ出してくるような感じがあった。
 最近は僕は本を読む以外はYouTube動画を見るなり、BGMの為に作られたような音楽を聞くくらいしか受容するものがなくて、完全に弛緩していた。
 弛緩の一端としては現代という時代に無自覚に「そのまま受け取る」ということしかやっておらず、それが本当はどういうものなのか? ということを考えずにただ聞いたり見たりするだけだったり、実際に無自覚に作られた物なのでそういうことを考える余地のないものだったりして、そういう物を受容し続けていると、時代性なんかについては何も考えずにただ純粋に受け取るみたいなことにすっかり慣れてしまう。
 この「純粋に受け取っている」「何のバイアスも無く自分は物事を知って、考えている」というものほどあやしいものはない。
 1970年代の小説の大きなテーマになっていたのは、いわゆるサラリーマンという職業形態をどう受け取り、その社会問題に対してどう向かっていくか、みたいなところがある。
 現代においてはサラリーマン的な職業形態が立ちゆかなくなって、非正規雇用みたいな人が増えていってそれをどうしたら良いのかみたいな話がメインになっているので、のんきな事を言っていると思うところも無い事は無いけれども、当時、今よりもよっぽど集団的に画一的に労働者というものが処理されている時代にはそれなりの問題意識みたいなものがあるのだろう。その一方で今よりは裕福な時代だったと思うところも無くはない、どちらにしたところで現代とは通約不能なある問題に向かっていて、それをそのまま現代に持ち越す事は出来ないと思わせるなにものかがある。
 とここまで書いたけれども、自問するに、そのサラリーマンの一点はそれほど重要な事か? また時代にそれほど特有の事か? と思う節がないでもないけれどもこれはあくまで一例であり、そういう時代特有の要素を現在進行形で探っているところなのでそれがどこですという事は非常に言いにくく、わかったら教えて下さいと言いたいところでもある。
 サラリーマンという部分は、自殺と過労と言い換えた方が良いかもしれない。それでも同じ事かもしれない。

 昨日は朝九時から夕方四時まで仕事をして、一旦帰って、そのまま夜勤の仕事に入った為、更新が出来ませんでした。それから朝方に夜勤が終わって一旦帰って、十時頃にまた職場に戻って仕事をして十二時頃にやっと解放された。
 家に帰って酒を飲んでから寝て、起きたら夜の八時だった。七時間は寝ている計算になる。それほど途切れなく寝たのは久しぶりかもしれない。自殺と過労の問題が覆い被さっているのはまさに自分の身なのかもしれない。

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