小説 ペンタブレットを持ったことがある男(Pさん)

 何度も自問自答した挙句に、男は、決まって同じ結論に至るのだった。俺は、と、カクテルグラスを両手に三つずつ持ってそれぞれチョイチョイ飲みながら、呟くのだった、俺はペンタブレットを持ったことがある。
 それが、一度なのか、二度なのか、それとも、それ以上になるのか、確かなことは言えない。人間は、よく人口に膾炙する話ではあるが、一度に沢山のことは覚えられないから、いくつかのものをグループ分けして覚える傾向があるらしい。最大で七つである、という話もある。八個を超えると、人は、そのうちのどれかをまとめて、どうにかして七つに、あるいはそれ以下の数にするということを、無意識のうちに行っているというのだ。
 男の周りには、私と、私の親友であり貴重な弟でもあるルイージと、名も知らない大勢の女しかいなかった、その全員が、次に男が呟くであろう単語を、一言も聞き漏らすまいと、腕をシンプルに十字形に振りながら、熱のこもった視線を遣っていたのであった。
 一人、ルイージだけが、自分の弾いているピアノの音色に、まるで陶酔しているかのように、目を細めていた。しかし、自分のピアノの音に、そういうポーズではなく、それほど聞き惚れるということがあるだろうか。彼のことは、トキワ荘にいた時代から、謎に包まれている。次に弾くのはレだ、と反射的に私は思った。果たして、弟であるルイージが弾いたのは、レの音だった。なぜわかったのかといえば、この曲は、スーパーの鮮魚売り場で、繰返し聞いたものだったからだ。グルグル回る電飾の光を浴びて、マグロとイワシ、それぞれの刺身が立ち上がり、全身をとても丁寧な十字形に震わせ、踊っていた。
 マグロとイワシはいわば私の女だった。どうしてそれが咎められることがあるだろうか。神様は、何も禁止なんかしてない。私は、マグロとイワシのどちらを選ぶか、慎重に値踏みをしていた。いわば、マグロの方は、いつも柵でパックされていて、398円であるところを、時間的なセール価格で、198円になっていた。一方イワシはといえば、それは丁寧に大根のツマの上に乗せられ、小さいワサビまでついている、そのまま刺身として頂くことに何の躊躇も要らないものだった。こちらは300円台の後半だったが、詳しい値段は覚えていない。そんな過去のことを、思い出せという方が残酷だというものだ。
 祭りとパーティーが無言のうちに物凄いスピードで両方開催されているかのような熱気と沈黙が、あたりを包んでいた。私とはいったい、誰なのだろうか?
 男が、もう一度、同じ言葉を呟く。俺は、確かに、ペンタブレットを持ったことがあった。
 だから何だと言うのだろう。その言葉に合わせるようにして、会場全体が、十字の形に、どんどん震え出した。

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