書く媒体(Pさん)

 僕は前にも書いたかもしれないけれども例えばキーボードとか、変換ソフトとか、エディタとか、手書きでいうとノートとかペンとか、そういうのに拘っていて拘っている時間も長く、それこそ本末転倒の様相を帯びている。まるで具体的に書く内容が見つからないから時間稼ぎをしているようで、いわゆる自分自身との会議の中で「果たして書くことの言い訳として長いこと手段を選んでいるんではないか?」という議題が上がったことが何度あったかしれない。
 それで小説の方も小説を書いている時間と量よりも何倍も、日常の茶飯にかかわる出来事やなぐさみのように書いていること、自分から頭をひねらずとも勝手に進む、本を読んで抜き書きとか感想とかを書いていることの方が多く、その点でも本末転倒が起きている。
 二重の本末転倒があるからして、原点に戻るとかいったような綺麗な幾何学的なことは起きず、泥のように「書けない……書けない……」と呻吟するばかりである。
 今もげんに、書くことについて書いていて、具体的になんも考えていないことの証左のようにも、思える。
 どうしたものかね。

 明後日、名古屋で読書会があり、サミュエル・ベケットの『モロイ』が課題図書となっている。
 知らない人は知らないかもしれないけど現代小説というか技巧がいくところまでいってしまった小説としては有名な部類である。
 他の人はどうか知らないけれども僕は小説を書く上で最終目標はベケットみたいに書くことであり、なんというか、ついに中心に戻ってきたのか、というか、書評で夏目漱石を取り上げるといったような、ついに来たか感とベタだからどうしよう感の間をさまよっているような感じである。
 僕は何かを通してベケットを読むというより、ベケットを中心として考えてきたので、やっぱり、中心に戻って来るということになる。
 場合によっては、実はぜんぜん中心ではなかったのではないか、という心配もあり、それが当惑じみた感の中心をなしているのだと思う。
 そんな時は音楽を聞く。

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