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ひな誕祭①余韻の中で


 日向坂46のデビュー4周記念ライブ「4回目のひな誕祭」に参加して、その余韻に浸りながらパソコンを開いている。ライブを終えて家に帰って、日向坂の番組を見て、寝て起きて、まだ日向坂のことを考えていたくて、そんな自分に少し怖くなったけど、どうしていいか分からない。SNSなんかを見ていると「元気もらったから仕事も余裕」なんて投稿が見つかったけれど、僕はどこに進めばいいのか分からなくなっている。もともとあってないような僕の日常に強烈な刺激が入ると、簡単にすべてが「日向坂」に染められそうになる。日向坂のためだけに生きることもできるんじゃないかと思えてきて、それはもちろん怖いけれど、その人生を否定できるようなカードが僕の手札にはなくて、僕は僕の人生が分からなくなった。自分の意志だけで今日やることを作り出している生活は、簡単に何をすればいいのか分からなくなる。これから僕は日向坂とどうかかわるのか、どういう距離感で生きていくのか、どう考えれば答えが出るのか分からない。
 とりあえず前に進まなきゃいけない。このままじゃさすがにヤバい。二日間で起きた出来事を一つ一つ思いだしてみる。それしかできない。

 そもそも初日はライブ会場には行かない予定だった。一般の席は完売。メインステージが見えないステージバック席のチケットが一般席の半額で販売中だったけれど、二日目の一般のチケットを持っていたので行かなくていいと思っていた。
 当日のSNSでは朝からファンが盛り上がっていた。開演は18:00なのだが、朝からグッズ販売に並んだり、会場に設置されたメンバーがプリントされたのぼりと写真を撮ったり、SNS上で知り合った人と会ってみたり、そんなツイートが流れてくる。見ていると寂しくなってきた。俺、これに参加しなくていいの?お金のために日向坂を見ないのは、なんだか、割と大きな本末転倒になる気がした。今回のライブはコロナ禍以降で初の声出しありのライブだった。その初日は、二日目と全く違う意味があるかもしれない。コロナ禍以降に日向坂を好きになった僕は、ちゃんとコールできるだろうか?周りを気にして全力で声を出すこともできないし、声を出さないのもさすがに変だと思って、考えすぎた結果一番気持ち悪い声量で声を出してライブ自体を楽しめずに終わる、なんていかにもありそうな話だ。一万円の一般席でそんなことになったら悲しすぎるので5千円で保険を掛けておくのもいいかもしれない。
 こんなあれこれを考えているうちに、ステージバック席のチケットを買うことに決めていた。要するにライブに行きたかったのだろう。理由なんてどうにでもなる。
 ライブ会場には17:00ごろに着いた。朝からいたファンは一通り盛り上がった後の様子で、ライブを待つだけという雰囲気をなんとなく感じて乗り遅れたと思った。すぐにライブ会場に入った。
 17:15ぐらいに座席に着いた。入場時間としてはかなり早いが、僕の隣の席には大学生ぐらいの男の子がすでに座っていた。
 僕はどこに座るか迷った。会場の席は狭いから隣に座られるのは嫌だと思う。周りの席がたくさん空いているから彼の隣の隣ぐらいに座っておこうか。それだと、その席に座る人が後から来た時、自分が座るはずの席にいる僕を見て不快に思うかもしれない。でも知り合い意外の人と至近距離で45分間座っているのもきつい。結局、大学生の彼の隣の隣の席に座って、その席に座りそうな人が来たらすぐ自分の本来の席に戻れるように、席のブロックの入口に常に目を向けておくことにした。
 15分後、僕が座っていた席のまた隣(僕の本来の席の二つ隣)の人が来た。どっちみち窮屈な思いをするのならちゃんと自分の席に座っていた方がいいと思って自分の本来の席に戻った。一件落着である。ちなみに僕の隣の席、つまり15分間僕が座っていた席はライブ終焉まで空席だった。危うくライブ中までブロックの入り口を見張らなければならないところだった。
 開演までここから30分。会場内は人が多すぎて電波が繋がりにくいから携帯で時間を潰すのにも限界がある。退屈と言えば退屈なのだが、僕はこの時間も結構好きだ。ライブがとにかく楽しみだけど、SNSに投稿したり、動画を見たりしてその感情を発散することができない。同じようにライブをぼんやりと待っている人とワクワクを熟成させていく。やっとメンバーに会える!ダンスが見れる!そんな思いが居場所をなくして僕の中に充満していく。
 そんなワクワクが溜まっていくのはいつも通りなのだが、この日はこれまでには無かった感情も膨らんでいった。
 「久しぶりのコールはどんな感じになるのだろう?」
 そこには期待だけじゃなく、未知の文化についていけるのかという恐怖も含まれていた。
 
 アイドルファンの間で「単騎」「連番」という言葉が使われることがある。「単騎」は一人で、「連番」は知り合いと隣の席で二人でライブに参加することを意味する。僕はこの春に東京に出てきてから日向坂ファンの友達がいないので今回のライブは「単騎」での参加だった。というか、東京に出てくる前も日向坂のファンの友達はいなかったので、ずっと「単騎」で参加している。というか、東京に出てきてから日向坂ファンに限定しなくても友達がいない。話がそれるので元に戻す。
 隣の大学生の彼の席は列の端だったので、僕と通路に挟まれた彼も「単騎」での参加だと分かった。僕は迷った。話しかけようか。ライブまでの退屈な時間でワクワクを熟成させていくのもいいけれど、日向坂の話を思いっきりできる人なんて普段はいないのだ。日向坂の話をしながら待って、ライブ中も「推し来ましたよ!」「最高のセトリですね」なんて言いながら見られたら絶対楽しい。実を言うと、これまでのライブでも隣の人に話しかけようかと思ったことはあったけど、そもそも隣が「連番」だと二人の会話を壊すことになるので話しかけられないし、隣が「単騎」での参加でも一言目がかなり難しい。「推しメン誰ですか?」とかが一番無難だとは思うけれど、質問として汎用性が高すぎて「話そうと思って話しかけました」感が出過ぎる。話しかけようとした雰囲気はなるべく消したい。そのためには質問に必然性が必要なのだ。答えに困らせるような内容でもいけない。今聞く必要があって、なおかつ答えやすい質問。それがなかなか見つからない。悩んでいるうちに、もう「推しメン誰ですか?」で良い気がしてくる。だとしても席について時間が経ってしまうと「意を決して質問した」感じが出る。挨拶ぐらいの気持ちで聞きましたよ、という気軽さが欲しい。時間とともに状況はどんどん悪くなる。そして結局話しかけずに終わる。
 それがいつものパターンなのだが、その日はちょうどいい質問を思いついた。
 「今日の席、いつ取りました?」
 これはいい。ステージバック席と一言で言っても、会場の見え方は席によって結構違う。良く見える席から埋まっていくのだとは思うが、隣の人も僕と同じように今日チケットを取ったのだろうか?間違いなく必然性があるし、答えやすい質問だ。しかも席についてみた感想、今日チケットを突然とった理由、いくらでも話は広がる。これはいける。
 ところが、問題はまだある。というかこれが一番重要なのだが、彼の方が「話しかけられたくないタイプ」だったら申し訳ない。ライブ前のワクワクを貯める時間を大事にしていたら、本当に失礼になる。僕みたいな人間に話しかけられてライブの楽しさが半減したらどうしよう。完璧な質問もぶしつけな質問もそもそも話したくない人にとっては等しく害悪だ。諦めようと思った。
 彼の携帯の画面が見えた。同じ会場に来ている知り合いと連絡を取り合っているみたいだった。
 隣の彼の知り合い「そっちどう?」
 隣の彼「一人で暇。同担も全然おらん」
 「同担」というのは同じメンバーを推しているファンを意味する。ライブ会場では「同担」で会って話したり、集合写真を撮ったり、いろいろな交流がある。そんな交流がある「同担」が周囲にいないことを嘆いているし、そもそも「暇」と言っている。話しかけてもいいタイプか?
 ライブ開演まで10分に迫っていた。大丈夫、今なら万が一会話が盛り上がらなくても何とかなる。「単騎」での参加。ちょうどいい質問もある。相手の性格も大丈夫。滑走路を走り始める直前のパイロットのように確認事項を全て確認して話しかけた。
 会話の出来は中の中。会話が楽しい、というところまではいけなかったけど、いい感じでコミュニケーションは取れた。
 ライブ開演5分前にメンバーが注意事項を読み上げる「影ナレ」が始まる。上村ひなのが担当していた。隣の彼の推しだった。「やりましたね」と声をかける。こういうジャブが全体的な雰囲気作りに効いてくる。いい感じ、いい感じ。
 メンバーの登場曲が流れてライブがいよいよ始まる。初めて生で聞くファンの歓声。嵐の中にいるみたいだった。
 自分の声が聞こえないほどの歓声と音楽の中、たまりに溜まったワクワクが溢れ出す。メンバーが煽り、ファンが答える。その関係はしばしば入れ替わり、やがてシステム自体が失われる。演者と観客の区別がなくなる。声なしのライブでどうしようもなく出来上がっていた壁が簡単に壊れる。見たことのない景色だった。ライブはメンバーが「楽しい」を作りだすだけの場所じゃないことに気付く。ファンも含めて全員で「楽しい」を作る空間だと知る。全力で「楽しい」を叫ぶ。もう誰の声かも分からないけど、声とともに「楽しい」という気持ちがメンバーに伝わればいいと思う。「楽しい」が伝わって、会場が「楽しい」で溢れればいいと思った。
 隣の彼とそれぞれの推しがモニターに映るたびにはしゃいだ。彼はコールにも慣れているようで、おかげで思う存分声を出せた。二人の推しが近くに来た後にはグータッチした。話しかけて良かったと思った。話しかける前は、僕みたいな人間に話しかけられたくないだろうとか、隣の人が邪魔だとか思われていると思っていた。想像上の悪意に負けなくて良かった。
 想像上の悪意。日向坂が僕を変えたのはそこかもしれない。登場シーンから最強の幸せを作り出して、僕を完璧に変えてしまった。この世界は基本的に善意で作られている。そう思うことができた。世界には愛しかないと思えた。日向坂は「想像上の善意」をエネルギーに動いているのかもしれない。
 皆が皆の幸せを祈っているのだと思った。この雰囲気が日向坂だと思った。僕にとっての日向坂はいつもそうだったと気付いた。他者との間に悪意を前提していた僕に、皆幸せを奪い合っていると思っていた僕に、幸せになるのは凄く難しいと思っていた僕に、日向坂は皆が幸せになるのは簡単なことだと思わせてくれた。口で言うのは簡単でも本当に信じるのは難しくて、それでも、彼女たちがいたから、まっすぐにその思いを伝えてくれる彼女たちがいたから、簡単に幸せを想像できた。彼女たちはシンプルで、幸せを作りたいから幸せな曲を歌う。本当の幸せは、もしかしたらこの世にないのかもしれない。でも、だからこそ歌う必要があると思った。幻想かも知れない幸せを、日向坂は本当に作ろうとしているのだと思った。まっすぐに現在地と目的地を繋ごうとしているのだと思った。
 皆幸せになれるよ、ほら、今がそうでしょ?
 ひたすら楽しい曲なのに、涙が止まらなかった。
 自分の声量も、ちょうどいい質問も、「やりましたね」のジャブも、想像上の悪意も、想像上の善意さえも、すべてがどうでも良かった。幸せに過ごしたい時間があって、隣の彼とも幸せな時間を作ろうとしていて、同じように幸せに過ごしたいと思っている人が37000+32人いる、その奇跡が色んなものを帳消しにした。
 悪意を想像するのが人間なら、善意を想像するのもまた人間だった。僕たちは幸せを奪い合うことは望んでいないのだと気付いた。
 『JOYFUL LOVE』を歌い終えたメンバーが舞台を去るとき、心の底からありがとうと叫んだ。隣の彼も叫んでいた。想像上の善意で人は繋がれるのだと思った。

 一日目の話はここで終わりなのだが、恐ろしいことに、これだけの経験をした次の日にもライブがあった。初日だけならぎりぎり「エンタメ」として捉えられたのだが、二日目にはもうそこにとどまっていなかった。エンタメじゃないなら何なのかまだ分からない。とにかく日向坂は二日かけて僕の内部をぐちゃぐちゃにした。
(ひな誕祭①終)

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