宇治の雑煮とパラノイア

 関西で育ったので、東京で年を越すのは不思議な感じがする。

 僕の頭の中で、正月の背景はいつも同じ、宇治の景色である。古い住宅街と田んぼが広がり、その間を宇治川が流れる。少し上流に行けば平等院。出身は大阪なのだが、父の実家が宇治にあったのだ。

 毎年初詣は平等院に行っていた。極めて個人的な感覚として、平等院鳳凰堂は僕の成長とともに観光地化が進んだ。幼い頃は素朴な印象の京都の神社だったが、一年ごとに人手が増え、いつの間にか「天下の平等院」になった感じがする。父は世界遺産に登録される以前の姿を知っているので「あの頃は良かった」と毎年のように語っていた。インディーズバンドが売れてしまった感覚に似ているのだろうか。あの10円玉の建物も「まあ、俺ら以外にも貢いでくれる人いっぱいおるからええか」ということで訪れなくなった。「ファンが増えた方が平等院にとってもいいことやろうし」。そう呟く父の背中は寂しげであった。

 雰囲気だけは味わっておこうと、ずっと手前の、なんだかよく分からない(失礼)神社でお参りして御神籤を引いて帰った。それでも人混みは多く、毎年帰る頃にはぐったりしていたのを覚えている。「あの頃は良かった」と比較的近い過去を偲ぶ感想を父の真似をしてこぼしていた。

 大学で京都市内に住んでから分かったことではあるのだが、宇治は京都の中で割に田舎と見られている。しかし幼い僕はそんなこと知る由もない。今でも「京都」と聞くと、僕の頭には古い住宅街と田んぼと穏やかな川の宇治が思い浮かぶ。

 正月の朝はきちんとお雑煮とおせちを食べた。お雑煮は白味噌で、煮込まれてどろっとした餅を汁から出してきなこにつけて食べた。これは奈良県の食べ方らしい。なぜ宇治で奈良の雑煮が作られていたのか、そのルーツはよく分からない。

 家のすぐ裏の土地はうちの田んぼになっていた。その田んぼには今思い出すと不思議なものがあった。それが不思議だと言う感覚は本当に、今思い出すと、という程度で当時は特に違和感を感じたことはなかった。幼い頃の記憶には誰にもそう言うものが一つくらいある気がする。生まれた時からあったから違和感を持たなかったけれど、今思い出すとおかしなもの。それを出発点に世界を理解し始めたから、それ自体については疑いも持たない存在。僕の記憶の中に突然現れるそれ自体は、道からよく見えるところに立てられた「看板みたいなもの」だった。「看板みたいなもの」と持って回った言い方をするのは、そこに書かれていたことから判断すると、そこに立っていたのは看板とは言えなかったからだ。じゃあ何だったのかと聞かれてもよく分からない。1メートル四方くらいの白い板で、そこには小さい字で何やら文章が書かれていた。それが家の裏の田んぼの前に、人目につくように立っていた。

 それを僕の祖父が書いたことはなんとなく理解しているが、その内容はよく覚えていない。考えてみれば、それも不思議なことだ。祖父が死んだのは僕が小学校六年生の時で、その頃には読めない漢字もそれほどなかっただろうし、まさか汚すぎて読めなかったということでもないだろう。一度くらいその文章を読もうとしてもいいはずだ。でも、僕は祖父の書いた文章を一語たりとも覚えていない。

 そもそも、それがそこにあった頃、その存在に違和感を持ったことさえなかったのだ。違和感どころではない。他の田んぼには存在しないそれがうちの田んぼにだけあること、僕はそれを意識することさえなかった。まるでそれが存在しないみたいに振る舞っていた。僕だけではない。家族全員が。

 全て祖父母が他界する前の話である。その田んぼは今はもうなく、そこには今、誰かの家が立っている。

 初詣に行って、お雑煮を食べて、それが立った田んぼで凧揚げやキャッチボールをした。小学校低学年の頃、キャッチボールに夢中だったのだ。ところが野球チームに入れてもらえず、野球好きの友達も小2の夏までできなかったので、キャッチボールの相手は父親に限られていた。父親とキャッチボールをするのはもちろん土日に限られていた。その土日も、父親は何かのデモみたいなのに出かけていることが多かった。デモというのは、憲法改正とかなんとか、多分そういうやつだ。政治的なことに熱心な父親なのだ。そう言えば、バラエティ番組で芸人が「西暦じゃなくて天皇歴を使う」というボケをした時、よく分からないけど突然怒り出したことがある。天皇という言葉に敏感だったのだ。とにかく、正月は父親と思う存分キャッチボールができる貴重な時間だった。正月の思い出はそれだけだ。

 母親は正月のチラシを見て、福袋の目星をつけてジャスコに行く。僕も何か買ってもらったのだろうが今となっては覚えていない。覚えているのはいつもより活気のある、おめでたいジャスコの風景だけだ。

 祖父は亡くなる数年前からほとんど寝たきりになっていた。なんだか体が悪いというより、やることもないから部屋にいるという雰囲気だった。それがただ何年も続いているだけなのだというような気がした。一度、正月の朝に居間の座敷に出てきたことがある。何をするのかと思うと、田んぼの前にあったそれを出して話し始めた。少し話したところで叔母が「まあそのへんで」とやんわりとやめさせた。その時何を話していたのかも、全く覚えていない。

 祖父が亡くなった時、姉が父に「おじいちゃんは認知症になったん?」と尋ねたことがある。姉は屈託のない性格なのだ。父は「ずっと認知症みたいなもんやったからなぁ」と答えた。なんだか含みのある言い方である。姉が「どういうこと?」と尋ねると、父は「誇大妄想癖って言ってな、自分が天皇の子孫やとか言い出すんや」と答えた。僕の中で、田んぼの前に立っていたそれと祖父が繋がった瞬間だった。

 祖父母が亡くなってからも、僕が大学生になって家を出るまで毎年正月は宇治で過ごした。それがうちの家族の習慣のようになっていたのだ。別に何をするわけでもないのだが、京都でゆっくりと年を越す。京都でなければ正月ではないという感覚は今でもある。地元でなくても、宇治が自分のルーツだという感覚は消えないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?