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物理的にナナメに見えた夕暮れ

 僕が『ナナメの夕暮れ』(若林正恭)を読んだのは大学2年生の時だった。この本の感想はどう表現しても大袈裟っぽくなりそうなので語らずにおくが、ナイロン袋で防水性のブックカバーを自作して風呂の中でも読んでいた、と言えば僕が受けた衝撃は伝わるだろうか。

 内容とは別に、このタイトルは僕の幼い頃の不思議な記憶を呼び起こした。当時の僕にとっては重大で、それなりに苦労した記憶なのだが、なぜかほとんど思い出したことはなかった。あまりに理解不可能な記憶だから、思い出すきっかけさえ失われていたのかもしれない。とにかく、タイトルにある「ナナメ」という単語が、その引っ掛かりのない記憶を引き上げてきたらしい。

 その記憶とは、幼い頃に「ナナメに見えていた」というものだ。電柱とか、信号機とか、ビルとか、地面とか、真っ直ぐなもの(それは世界のほとんどである)が、斜めに傾いて見えることがあったのだ。ピサの斜塔みたいに。あるいは自分が傾いているようにも感じた。別に転んだりはしないのだが、とにかく傾いて立っているように感じたのだ。テレビを見るのも苦労した。カメラの動きが大きいMステの映像を見たら、一層「まっすぐ」がどこか分からなくなって気持ち悪くなった。「なんでこんなに不快な演出をするのか」とカメラワークに理不尽な憤りを感じていた。

 その症状はずっと起きていたわけではない。頻度など詳しいことは覚えていないが、保育園の年長組の教室で先生に「ナナメに見える」と訴えていた記憶があるので、少なくとも小学校に入るくらいまでは訪れていたことになる。その時、保育園の先生は「でも皆、滑ったり、落ちたりしてないやん」と不思議そうに言った。いや、そうじゃないねん、ナナメなことがしんどいんじゃなくて、ナナメに「見える」のがしんどいねん、と今なら言える気もするけれど、その時はもちろんそんな表現をできるわけがなく、ただただ「ナナメに見える」と繰り返すしか無かった。先生だって困ったはずだ。

 母親は「丸いもの見てたらいいねん、丸には上も下もないから」と数学教師らしい的外れなアドバイスをした。やがて眼科に連れて行かれた(今思うと心療内科とかの方が相応しい気がする)。医者は「子供が注目して欲しくて言っているのだ」と母親に遠回しに伝えた。一向に解決しなかった。大人はあらゆる問題を解決してくれる、という神話が壊れたのはこの時かもしれない。

 だが小学校に入ると、この症状はいつの間にか無くなっていた。以降、物理的にナナメに見えたことはない。

 ネットで調べてもイマイチ該当例らしきものが見つからず、いまだに捉え所がない記憶である。それでも書いたのは、ずっと後になって僕の身に起こったことと共通点があるからだ。


 それが起こったのは大学生の時だった。

 ある日、野球部の同級生に「お前は社会に対して斜に構えている」と言われた。その言葉を理解する気さえ起きなかった。「斜に構えている」という言葉を他人に使う感覚が全く理解できなくて気持ち悪かった。さらに気持ち悪かったのが、僕にそう言い放った彼がコミュニティでは「好青年」として見られていたことだった。そういう周りとの認識のズレは昔からあったが、大学の時いよいよピークになっていた。正直かなり辛くて、僕の眠りを幾度となく妨げていた。怒りとかを共有する方法がなかった。

 解釈として、世界がナナメに見え始めた瞬間だった。というか、ずっとナナメに見えていたのだが、ナナメに見えていることを自覚し始めたのだ。

 

 「斜に構える」という言葉を他人に使う感覚が気持ち悪かったのは、そこには「自分は社会に対して公平な見方をしている」という前提があるからだと思う。「斜に構える」を簡単に定義すると「物事に過剰に批判的・攻撃的な姿勢をとっている」みたいな感じになると思うが、公平さの基準を握っていると思っているから、他人の視点が異常だと言える。誰かの角度が「斜」だと言える。たまに斜に構えようと頑張っている人もいる(大学にたくさんいた。京都大学には色んな人がいるのだ)が、僕は普通に見ようとしているのに、「斜に構えている」と言われたからしんどかった。僕の普通が周りと違うことがあることにはなんとなく気づいているけど、僕は自分が斜に構えているとは思えない。むしろ公平さを欠いているのは「斜に構えている」と言われない人たちだと思う。違和感を感じるべきものをなんとなくで受け取りすぎているように見える。でも僕は「お前は社会に対して媚び諂っている」とは言わない。どっちが基準かという問題である。僕にとってはそっちが斜で、そいつにとっては僕が斜。それが僕にとっての世界の見え方である。この見方は斜に構えているのだろうか?

 

 大学の時は世界がナナメに見えて、色んなものがキモかった。

 「〇人に一人は始めている」というのがマッチングアプリの宣伝になるのがキモかった。皆がやってたらやってもいいという基準がキモかった。

 努力が偉い、のがキモかった。好きなことやってるだけやんけ。努力しないのも、幸せになるための努力だと認めない感じがしてキモかった。

 「彼女が欲しい」という言葉がキモかった。誰でも良い感じがキモかった。大事な人ができて付き合う、という順番が逆になってる気がしてキモかった。

 世界の真っ直ぐなものが、僕にはなぜか悉くキモくて、嫌で、ナナメに見えた。

 僕はまっすぐ見ようとしているのに、世界はどんどんナナメになった。どっちの角度がずれているのか、僕にはやっぱり分からない。そして皆言う。

「でも皆、滑ったり、落ちたりしてないやん」

 皆は大丈夫。だから君は異常。いつだってそれが世界の理屈なのだ。保育園の時から変わっていない。

 

 斜に構えるな、とか、もうちょっと周りの人に心を開けとか、そう言う次元の話ではない。どうしてもナナメに見える。それが全てなのだ。

 ナナメに見える世界で僕に何ができるだろう、と考えるけど、特にないと思う。ナナメな部分を真っ直ぐにするなんて僕にできるわけがないし、それは誰かのナナメを作るのと同じだ。

 とりあえず、僕は自分のために、ナナメという言葉を使わないことから始めようと思う。ナナメがあるから真っ直ぐがあるのだ。ナナメがなければまっすぐもない。丸い形みたいに。あ、数学教師のアドバイスもバカにできない。そして、僕の見える世界をなるべくフラットに書いていきたい。できるだけ誠実に書いていきたい。誠実になることはできない。誠実であろうとすることなら僕にだってできる、多分。

 

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