見出し画像

オタクの線引き

 〇〇って言ったら殺してな、と口にすることがある。ゾンビ映画でよく聞くセリフである。よく聞くというか、それ以外で聞いたことがない。

 僕の「殺してな」は、アイドルに関することで発動する。好きならそれでいいとは言え、アイドルに関わる中でどうしても恥ずかしい部分がある。自分なりに、ここまではセーフ、ここからはアウトの線引きをする必要が出てくる。

 

 最初に「殺してな」を発動したのは、写真に関することだった。オタクの中には旅行先の風景や料理の写真を撮る時、そこに好きなアイドルの生写真やフィギュアを映り込ませる文化がある。僕は理解ができなかった。

 ラーメンと日向坂は関係ないやん。

 富士山と日向坂は関係ないやん。

 人は理解できないものが怖い。自分とは違う生き物だと思うようになる。その方が楽なのだ。

 理解できないものの存在は怖いけれど、理解できないものに自分がなるのはもっと怖い。理解できないものが怖くて、理解できないものになるのはもっと怖くて、人は線引きをする。ここまでは人間、セーフ。ここからはやばい生き物、アウト。

 僕は友人に言った。

「俺がいつか、メンバーの生写真を風景とか料理とかと一緒に撮るようになったら殺してな」

 友人は答えた。

「うん、すぐに殺すわ」

 僕は「ちょっとは迷えよ」と笑いながら返した。その時はまだ、笑うことができた。「生写真と風景の写真を撮る」行為は自分の中でも禁忌だったのだ。線のあちら側にあったのだ。

 これが一つ目の「殺してな」の発動だった。

 

 初めてライブに行った時、二つ目の「殺してな」を発動した。

 日向坂を好きになった年のクリスマス、人生で初めてライブに参加した。アイドルのライブなんて理解できないことだらけなのだが、その中でも一番理解できなかったのが「オタクの集合写真」だった。ライブ当日、会場の近辺で同じメンバーのファンが集合写真を撮る文化がある。運営が関わっているわけではなく、ファンがSNSなどで勝手に企画し、時間や場所を指定して人を集める。時にはかなり大掛かりな三脚、カメラが用意されていることもある。

 もう全く意味が分からなかった。

 同じ女の子を好きな男子が集まって写真を撮るってこと?

 仲間意識?

 すごく気持ち悪く感じてしまった。僕にとって日向坂を好きと言うのはあくまで個人的なものだったから、その思いを誰かと共有する意味が分からなかった。集合を呼びかける声さえも、そういうことに慣れていないオタクが頑張っている感じがしてムズムズした。

 僕は友人に言った。

 「俺がオタクの集合写真に写ってたら殺してくれ」

 友人は、今度は

 「お前、自分の首絞めてないか?」

 と聞いた。僕は大丈夫だと言った。キッパリと。そうしなければ自分が変わっていくようで怖かった。


 半年後の7月、富士急で行われるライブに再び参加することになった。せっかく山梨まで行くので一泊して観光することにした。荷物を整理している時に、CDの特典でついてきた生写真が目に入った。

(日向坂のグッズはライブとかのためにあるんやでな?じゃあ一応、持って行っとくか)

 そう思って鞄の底に入れた。一番取り出しにくいけど、一番傷つかないところに。


 真夏の富士急、1日目のライブは、夏が似合う日向坂らしいライブで、心の底から楽しかった。

 翌朝、起きてもその余韻はなかなか抜けていなかった。疲労感と万能感が混じり合った不思議な感覚。ライブが終わって日常に戻ってきたのではなく、「ライブ後」という時間が続いている感じがした。ライブによって時間が定義されていると思った。ずっとその時間の中にいたいと思った。それが良くなかった。

 山中湖の湖畔に果物の直売所があった。傷がついている訳ありの桃が一個100円で売られていたので3個買った。富士山の見えるベンチに座って丸齧りした。夏の景色が、日向坂のパフォーマンスを思い出させた。富士山の写真を取ろうと思った。スマホを構えた。

 何かが足りない気がした。

 富士山だけを撮っても、その時間を残すことはできない。

 僕は鞄の底から生写真(金村美玖『僕なんか』衣装、ヨリ)を取り出した。

 富士山と生写真のツーショットを撮った。

 その時間を残すためにはそうするのが一番だったのだ。ライブ後の余韻の中に富士山は存在したのだ。
 そうして僕は一つ目の線を飛び越えた。


 京都に帰ると、友人に旅行の感想を聞かれた。一瞬迷って、「楽しかった」と言った。写真のことは言えなかった。説明すれば分かってくれるはずなのだが、全てをわかってもらうためにはライブ前の荷物の準備から話さなければならない。話し終える前に殺される可能性がある。

 自分が線のどちら側にいるのか分からなくなった。


 翌年の4月、3度目のライブに参加した。横浜スタジアムでの二日間にわたる『4回目のひな誕祭』。

 久しぶりのライブは、コロナ禍以降で初めてのコール(『超絶可愛い、〇〇!』みたいなやつ)ありのライブだった。僕は2日とも参加することができた。

 1日目、初めて体感するコールに圧倒された。それまで当然のものだった演者と観客の境目がしばしば失われた。観客同士の境目も失われた。そこにいる全員で楽しい時間が作られているのだと思った。それが良くなかった。いや、もう良かったのかもしれない。

 翌日、ライブ前に僕はオタクに囲まれて集合写真を撮った。当然のことだった。僕たちは同じ時間を共有した仲間なのだ。今日もよろしくな。そんな気分だった。
 僕は二つ目の線も飛び越えてしまった。

 このことも友人には言わなかった。言うのが恥ずかしいわけではない。アイドルを理解するのは彼にはまだ早い。


 線を飛び越える感覚はクセになる。自分が違う自分に生まれ変わっている気分になるのだ。開かずの扉を開ける興奮がある。見たこともないものが待っている。こんなものは大人になるとなかなか無い。そして今回開けた二つの扉の先には、偶然、かなり美しいものがあった。

 二つも自分の引いた線を飛び越えたから、今後はもう「〇〇って言ったら殺してな」は発動しないつもりだ。発動はしないけど、やっぱり、理解できないものはある。それでも、理解できないものを怖がるのはもったいない。だからと言って、理解せずに飛び込むのも違うと思う。開かずの扉を開ける興奮、線を飛び越える興奮だけを味わうのも勿体無い。それでは、その先にあるものの美しさを本当に楽しむことはできない気がする。

 開かずの扉の前に立って、その中身を理解しようとして、考えて、考えて、開けざるを得なくなった時に、飛び越えてもいいと思えた時に扉を開いて飛び込む。そこで初めて何かを知ることができるのだと思う。僕にはまだまだ扉があり、線がある。それは偏見とか、固定観念とかに由来している。仕方ないし、そう言うものだと思う。開いていない扉があることを悲観するんじゃなくて、扉を一つ一つ開いて、美しいものと出会うことを楽しみたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?