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『葬送のフリーレン』を観ながら涙を流すことについて考える

最後に、人前で涙を流したのはいつだろうか。

軽音サークルに所属していた大学生のころ、卒業ライブでラストの曲を演奏するときに、今までの記憶が走馬灯のように駆けめぐって、不意に涙が溢れそうになった。それが、最後かもしれない。

もちろん、人前以外だといくらでもある。

人間と動物とのハートフルな物語やスポーツ名場面に対して、涙腺はなすすべないほど無抵抗で、毎年、M-1グランプリのアナザーストーリーを観ては性懲りもなく涙を流している。

それでも、人前ではなぜか涙を流すことができないのは、単純な気恥ずかしさもあるけれど、隠しようもないほど感情が露わになって、あまりにも自身の想いが筒抜けになってしまうからだろうか。

ときに、最近『葬送のフリーレン』というアニメを見はじめた。

勇者が魔王を倒した後の世界を舞台に、魔法使いのフリーレンが新たな旅路のなかで出会う人々とのささやかな交流が描かれるファンタジー物語。

「冒険の終わり」が「物語の始まり」という斬新な設定のなかで、とても印象的だったのは、1000年以上を生きる魔法使いであるフリーレンが人目もはばからず涙を流すシーン。

フリーレンが涙を流す理由はアニメを観てもらうとして、自分は彼女が泣く姿を目にしたとき、あまりにまっすぐで綺麗な涙に、一瞬で惹きこまれてしまった。

涙に優劣などないのかもしれないけれど、その涙に込められた「記憶」と「感情」は、視聴者にはとうてい分かちあうことのできない、あの場にいた本人にしか分からないもので、だからこそ、客観的に綺麗だと感じたのかもしれない。

涙には様々な感情が内包されている。
悲しみ、喜び、悔しさ、寂しさ、楽しさ、可笑おかしさ。

揺さぶられた感情が涙にカタチを変えて、泣いている本人さえも、どんな感情が込められているか分からないまま、とめどなく目から溢れていく。

そして、『葬送のフリーレン』を観ながら
そんな涙に感情を込めるため
記憶は存在するのかもしれないなと、ふと思った。

ともに生きて過ごした日々が、今まで体験してきた様々な思い出が、その場で起きた出来事と一瞬で共鳴したとき、心では制御できずに涙がこぼれ落ちていく。

生きていくことは記憶することであり、記憶されることなのだとしたら、生きて歳を重ねるごとに、共鳴する記憶も、それにともなって涙を流すことも増えていくのかもしれない。

でも、このさき流した涙が、人前で流れることもいとわないほど、まっすぐに感情的で、深く心に刻まれた記憶と共鳴するものだと、なんとなく嬉しいし、少しだけ誇らしいなと思った。

それよりも、まだシリーズの途中なので早く続きを観ないと。
フリーレンほど寿命の余裕はないので。


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