見出し画像

いつかなくなる、きみたちと

中学へ上がるより早くに父が亡くなった。
高校にあがる前に、かわいがってくれた祖父を亡くした。
三十路を過ぎて母も亡くした。

生きとし生けるものは、いつかなくなる。
そう成熟もしないうちから、近い身内でそれを知った。

40半ばにしては、亡くすことに耐性があるほうだとは思うのだ。

なのに、それも人様のうちのことで。
だばだば涙がとまらず、1コマ目の”ちょっとメルヘンなやつかもしれない”と思った自分の浅はかさを恨みつつ、職場で読んだことを大いに後悔した。
※Twitterは【ご注意、猫が死にます】の喚起が..これマジ親切な!

以前もnoteで紹介させて頂いた、イシデ電さんのおうちの猫が亡くなった。

いつか、そのことを描かれるだろうと思ってはいたが、まさかの1コマ目にまんまとやられた。在宅推奨で出社率3割かつ大雪予報に救われた。
衆人環視なら、うつ認定されかねなかっただろう。

--

いっしょに暮らしていた動物を亡くして「虹の橋を渡った」と表現する方が多くいる。元は作者不明の散文詩で、こんな書き出しだ。

There is a bridge connecting Heaven and Earth.
It is called the Rainbow Bridge because of all its beautiful colors.
Just this side of the Rainbow Bridge there is a land of meadows, hills and valleys with lush green grass.
When a beloved pet dies, the pet goes to this place.

私は、これがどうにも好きになれない。
わざわざ美化して誤魔化すようで、気にいらない。

べとべとで汚くて飾りっけない純粋なものだ。
それをそのまま我が事として描くのは、なかなかしんどかったろう。

作中で、ふり絞ってトイレへ向かうポッケくんの姿を「習性というより理性で、矜持だ」と後にマンガにするためTwitterに残したというイシデ電さんの姿勢がある。この正直な描きようもまた、マンガ描きの矜持に思えた。
そしてきっと、この作品はふり絞って描かれたのだ。
誠実に向き合われ、いまもポッケくんと向き合っているのが伝わってくる。

僕はマンガ描きどころか、そもそも絵心がない。
そういった仕事に就いているでもない。
それとは別に、ここまで生業に真摯でいるかの自信もない。

そんな僕にも、できるだろうか。
痙攣を始めたうちの子を抱え、どれだけの幸せをくれたのかを伝えながら、寂しくないように怖くないようにと声をかけ続けられるだろうか。
ただ悲しみに吞まれて泣くばかりで終わらずに、ぐしゃぐしゃだろうと汚かろうと、飾りもせず純粋に自分そっちのけで考えてあげられるだろうか。

もし、それができたなら。
ポッケくんみたいに、僕にもアディショナルタイムをくれるだろうか。

作中で「亡くなったとおもったら、まだだった」という方たちがいると紹介されていて、愛し愛された猫からの最後の贈りものなのだと思えた。
見たこともない、いるかどうかも知れない、神の御業なんて軽薄なものじゃない、いまにも終わりそうな目の前にある命からの心ばかり。

だからポッケくんは、いつものイシデ電さんと安心できて、脚が曲がるほど寄り添って亡くなったんだろう。
ほかの方たちも”いつもの自分”に立ち戻って看取れたんじゃないだろうか。

どこまでもかしこく、どこまでもやさしい。
ねことは、そんな生きものだ。

--

我が家にも、2匹の猫がいる。
べっ甲のレヴィは元野良で、窓から飛び込んできてくれた勇気の塊。
茶白のコタは保護猫サイトからの良縁で、すくすく育つ食欲の権化。
いまのところ、おだやかに居ついてくれている。

いつかレヴィとコタは、僕と妻にアディショナルタイムをくれるだろうか。

そうなるように、後悔しないように。
せっかく我が家に居ついてくれた、いつかなくなるきみたちと。
いまは愉しく過ごして、おかしく暮らそう。

きょうは寒いから、コタの好きな”ぶりしゃぶ”でもしようか。



この記事が参加している募集

猫のいるしあわせ