別のアプローチというだけではないのだろうか。

調べものをしているうちに、いつもなら目にしないところへ辿り着く事もある。
女性自身WEB(というものがあることすら知らなかったが)に、こんな記事が出ていた。

松本人志氏と太田光氏の主張は相反するものとして比較され、一方は批判の憂き目にある。

リアルタイムで見聞きしていないのでニュアンスの違いもあるだろう。が、私には、どちらも同じことを言っているように思える。

a).どうしても不良品っていうのは何万個に1個、絶対に。これはしょうがない。
b).すぐ近くにいると思うの。彼のような人は。

まず前提が同じく見えるのだが、どうだろうか。

もちろん言葉の選択が異なるので、彼のような人=不良品と捉えるかどうかの焦点はあるだろう。本質とは異なる気もするが。

a).それを何十万個、何百万個に1つくらいに減らすことはできるのかな、みんなの努力で。
b).いま自分が死んでもいいって思っている人はもうちょっと先に、すぐ近くにいるよってことを知ってほしい。

続いては人称こそ異なるものの、意図は同じに思える。

一方は「不良であるものは総意の努力で減らすことは出来る」と説き、一方は「かつて自分もそうだった。改善の気づきはある」と伝えている。
どちらも「但し付きではあるが可能」という結論だ。
少なくとも全く異なるとは思えない。
が、叩かれる側と賛同される側という両極の扱いを受けている。

本質ではないところで判断し、評価する。
多くが長いものに巻かれて大勢の良し悪しが決まる。
あとは、のっかるだけである。

みんなが叩いている。
みんなに褒められている。

ネットには、この2つしかないのかもしれない。

どちらが不良品か、と思えてくる。