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事業報告書03:調布のドリブラー

またこの季節がやってきた。俺が公園にサッカーボールを放流する季節だ。

四年前だ。上京してすぐ、俺は自由を謳歌していた。コロナが猛威を振るっていた時だから、比較的人の往来が激しい昼間は家にいる。ようやく自由になれるのは日付が変わってから日が上るまで、上京前の俺なら家に閉じ込められていた時間だ。別に派手な夜遊びをするわけじゃない。ただ街を散歩したり、朝日に向かってチャリを漕ぐだけだ。何をしても無駄な時間にどうしようもなく無駄なことをするのは、打算的なそれまでの俺にとって、唯一損得勘定から解放される行為だった。意味があることをしないように、ただ無人の街を移動していた。

ただ唯一、唯一やっていたことがある。それは近所の公園にサッカーボールを放流することだ。

四年前の夏、俺は道端でサッカーボールと出会った。確か日付を跨いだくらいの時で、今では考えられないけど、あの時は到底人間の出歩いていない時間帯だった。

自由を謳歌しているティーンエイジャーに、サッカーボールを渡すとどうなるか。サッカーをする。誰もいない道路をドリブルで駆け上がって、ホームセンターの壁を使ってパス練習をする。別にサッカーが好きなわけじゃない。なんとなく、小野伸二だと思った。パスをするのは小野伸二だからだ。そういう伝記を小学生の時に読んだ。

グングン進み、近所の公園に着いた。そこは駅の近くで、高級スーパーの半分敷地内みたいな場所にあって、昼間は街中の子供がそこに集まって遊ぶ。夜になると大学生の酒盛りが始まるのだが、当時はいなかった。

俺がやることは一つしかない。俺は昼間公園を利用する小学生たちに向かって、ベルベットパスを授けた。遊具で遊ぶだけでも十分楽しいだろうに、そこにサッカーボールが出現したらどうなるだろう。俺はその可能性にパスを出した。

俺の出したパスはクリティカルそのものだった。次の日から、めちゃくちゃ子供たちがサッカーボールで遊び出した。こっちに上京してきて、初めて人とのコミュニケーションが生で取れたような気がした。人間の承認欲は、別にこのくらいのことで満たされる。


あとはまぁ、一般的な話だ。そのサッカーボールが公園から消えるのに、一週間もかからなかった。元の持ち主が持って帰ったのか、公園のドンが引き取ったのか、俺にはわからない。思えば俺は、人のいない田舎ではあり得なかった、顔の知らない人間同士のコミュニケーションに、ロマンを抱きすぎていたのかもしれない。本当にショックだった。

だから俺は、さっき壁をぶつけてたホームセンターで、フニフニのサッカーボールを買った。ダイソーで買える、チープなゴム玉だ。俺はそれを昼間に買って、夜中の誰もいない公園にそれを放つ。子供達はそれで遊ぶ。そしてサッカーボールは、また姿を消す。気づいた頃に、俺はダイソーへ向かう。

思えば俺は、人のいない田舎ではあり得なかった、顔の知らない人間同士のコミュニケーションに、ロマンを抱きすぎているのかもしれない。そういう季節が、また来た。

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