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行為論

(随時更新)

わたしは、行為の根源に愛情があると最近思う。すべての行為は「好き」「大切」というような愛情に近い感情に基づいて発生する。愛情がわたしの行為の原動力だと思う。

逆に言えば、愛情を感じられないものに対しての興味、関心、意欲がとてつもなく低い。どうでもいいもの、と言ったら冷たく感じられるかもしれないけど、「そこまで楽しみじゃないな」「あんま好きじゃないな」「別にこれは大切にしなくてもいいな」と思うものは、行為の原動力が足りないから行けなかったりやめちゃったり寝ちゃったりする。

定言命法に近いものがある。価値合理的行為に近いものがある。カントやウェーバーが行為について考え、いくつかの類型に分類したように、行為は、人によって、時と場合によって、その原動力が異なるのだということの理解が必要だと気づいた。社会的行為論は、学問の世界の話ではなく、わたしが生きているこの社会、わたしの生活、あなたの生活の話なのだと思う。

他人の行為について理解できなかったとき、怒りを感じたとき、疑問を持ったとき、そこで行為論、行為の原動力について考える必要がある。自分と同じ原動力で動いていると思ってはいけない。それは偏見であり思い込みである。


わたしという恋人がいるにも関わらず、異性と遊んだり、ライブに行きまくったり、わたしより他の人、もの、ことを優先しているのが全く理解ができなかった。
彼は、感情的行為の代表例といっても過言ではないような存在だった。ということにやっと最近気づいてしまった。
だから、彼が異性と遊びにいくことや、飲みに行くことや、ライブに行くことは、感情や興味の赴くままに少ないエネルギーでできる行為なのだと思う。

わたしの原動力は愛情なので、無意識のうちに、彼の原動力も愛情であると思い込んでいた。異性と会うといったことは、愛情がないとできないことなので、それは浮気ということ?と思ってしまっていた。彼はただ、興味関心で「なんか楽しそう!」というかなりポップな感情を原動力としていたのであり、決してそれが恋人を蔑ろにする行為だとも思っていなかったわけである。


本来わたしに向けてもらえると思っていた愛情を、わたし以外のたくさんの人、もの、ことに振り撒かれて、「蔑ろにされた」「もうわたしのことなど好きではないのかもしれない」と勘違いし、落ち込み、過度の嫉妬で狂ってしまった女と、
わたしがこんなに愛情深い人間だとは知らずに、自分の純粋な興味関心で行動したことについて、わたしがなぜこんなに執念深く気にするのかが理解できなかった彼

そりゃあこんなのうまくいくわけがないのです。
お互いの行為類型があまり理解できていないまま、喧嘩したり我慢したりすることは、ほんとうに苦しかったと思う。

こんなに深く、個人の行為類型、行為の原動力なんて、簡単にわかるものではない。まず、この視点を人間関係に持ち込むということはかなり難しいのではないかと思う。でも、集団凝集性の高い集団や、恋愛関係、家族関係などの相互の十分な理解が必要な集団では、社会生活を営んだり、安定した関係を維持させていくために、この視点を取り入れることが必要になってくるのだと思う。

ウェーバーの行為の4類型にとどまらず、人間の行為にはそれぞれの原動力があり、それぞれの信念がある。
それの違いを理解し、尊重することが、人間関係の面白いところでもあり、難しいところでもあり、重要なところであると、ここ2、3日で考えていた。

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