後悔したので、言葉の精査もせず、深堀もせず、ただただ吐露したかった。

久しぶりにこんなに感じた罪悪感。


自分で決めたはずなのに、それでいいと、その方が自分の後悔が少ないと決めた選択だったのに、スッキリするハズだった10分後にふと降ってきた言葉は、それってただの自己満じゃない?一体誰が幸せになるの?って。



私は来月仕事先を変えるのだけど、児童養護施設の常勤で一回どっぷり浸かってみるのか、会計年度職員として一年間経験としてやっていくのかでえらく悩んだ。(場所も違う)結果決めたところは県立の会計年度職員なのだけど、常勤を勧められていた場所を断る選択を自分の中で受け入れようとしたとき、とても心苦しかった。どちらを選んでも痛みを伴う事は分かっていて、後悔が少ない方にしようって、そうやって決めた。ハズだったのに。


大切にしていく事は同じ。子どもを見て、寄り添って、気持ちを汲んで、健やかに育っていけるようにお手伝いをすること。だから、目の前のことに取り組んで頑張ろう。そう思って決断したハズだったのに。


わたしは昨年進学しようと思って失敗した。お世話になっている大学の教授がいて、その方の勧めもあり、常勤で一回3年くらいどっぷり浸かってみたら?と。やっぱり進学したいとなったら辞めるくらいに思っていたけど、実習に行ってその考え方は速攻で脳のごみ箱に捨てた。子どもたちは繊細で、複雑な家庭環境が背景にあって、自分で行きたい!と思って来た子なんて一人もいないと思う。出たくても出られない子どもたちを見る私が、進学の気持ちがあって入る前から出ることを考えてるのは、なんだか道理が通らなくて気持ちよくない。だから、その施設へお断りの連絡をした。これで良いと思っていたけど、けど、けど。(けどがつくと言い訳だってよく中学で怒られた。今存分にけどを使いたいきぶん。)



お世話になった人たち(大学の先生、実習を受け入れてくれて、必要だと言ってくれていた暖かい施設の方々)の気持ちに沿えない形を取ったことを申し訳なく思って。


わたしの夢って、勉強したいことって、その人たちの気持ちを無碍にしてまで叶える必要あるの?

目の前の子どもたちよりも自分の事しか見てなくて、それを突き通すほどのものって、そんなに立派なものなの?

それってなんだか、ただの自己満なんじゃないの?


ヘンな感覚かもしれないけれど、ごめんなさいと電話をした後、”失った”そんな気分にもなった。


別の道を目指すよりも、今の自分を必要としてくれるところで一生懸命やることが誰かのためのような気もした。


家族で夕飯を囲んでいた時、お父さんが言った一言が刺さった。「お前今、工場勤務って嫌だなって言ったけど、日本を支えているのはその工場産業だぞ。はき違えたらいけないのは、工場で働く人が無能だという思い違いをすることだ。決してそんなんじゃない」



私はなんて卑下したもの言いで、バカなことを言ったのかな、と思った。自分がやりたくない、やりたい事よりも、必要とされている力がある。そこで一生懸命誰かの役に立っている人たちがいる。だから生きていける。


なんかもう、それでいいんじゃないかと思ってしまって。自分のやりたいことがあるから、途中で投げ出すのが嫌だから、とりあえず経験として1年。その間に受験して受かったらいいなと本気で思っていた自分自身の思考をまた疑った。最近自分のことを疑ってばかりいる。


自分のために下した決断で、果たして幸せになれるのだろうか。人のために出した答えを、自分の道と信じて進む方が幸せなのではないか。



海外に住んだり、お金をまわしたり、うまく生きていくようなビジョンを提示している本が溢れて、読めば読むほどわからなくなってくる。


わたしは誰のために生きていくのか。


決断の最中ブレて後悔する羽目になったのは、自分の夢が捨てきれなかったからの他ならないと思っていて。夢って、なんだ。必要か?


こんなに、自分の出した決断に後悔するとは思っていなかった。


くるしいなぁ。



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