日蓮大聖人の言葉『四条金吾殿御返事』しじょうきんごどのごへんじ 20

在世の法華経は釈迦如来の御志を書き顕はして、此の音声を文字と成し給ふ。仏の御心はこの文字に備はれり。たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども、心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。

文永9年(1272)執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』666頁



(訳)
法華経は、お釈迦さまの御志が書き顕されており、それは声として発せられたものを文字としたのです。仏さまの御心は、この法華経の文字に備わっています。たとえば、種子と苗と草と稲は形が変わっていても、その心に違いはありません。このように、お釈迦さまと法華経の文字とは、形が異なってはいますが、その心は同じものです。したがって、法華経の文字を拝見するときには、生身(生まれたままの姿)の釈迦如来にお会いしているのと同じであると思わなければならないのです。

(解説)
このお手紙は、鎌倉に住まわれていた檀越(信者)の四条金吾が、亡き母の三回忌にあたり、追善のため、佐渡にいらっしゃった日蓮聖人に供養の品を捧げたことに対する返書であります。


(思うところ)
冒頭に挙げた一節では、釈尊のみ声(梵音声)が法華経の文字となり、それゆえに法華経は生身の釈迦如来であるという教示があることから、「梵音声御書」とも呼ばれます。
法華経の経文を拝するときには、お釈迦さまにお会いしていると思いなさいと指南されています。種子・苗・草・稲が喩えとして挙げられており、それらの状態が異なっているものの、心に相違はないと教示され、法華経の文字と釈尊もまた同じであるというのです。
私たちが、法華経の経文を拝することは、同時に、お釈迦さまにお会いしているということでありましょう。

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