日蓮大聖人の言葉『法華取要抄』ほっけしゅようしょう 23

此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。不孝の失に依りて今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは、譬えば天月の清水に浮かぶが如し。

文永11年(1274)5月24日執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』812頁


(訳)
この娑婆世界にいる私たち衆生は、五百億塵点劫というはるか昔から、教主釈尊の愛子であります。その教えにそむいた不孝のとがによって、今日までその愛子であることに気づかなかったのでありますが、他の世界にいる衆生とはまったく関係が異なるのです。五百億塵点劫というはるか昔に、教主釈尊と私たちは縁を結んだのであり、その関係を譬えるに、天の月がおのずと清らかな水に影を宿すようなものであります。

(解説)
本書は、日蓮聖人が、流罪先の佐渡にて草案をなしたといわれています。文永11年3月に、佐渡より鎌倉へ戻られ、5月17日に身延山へ入山されました。身延に入山された直後の日蓮聖人が、本書を檀越(信者)であった富木常忍に宛てたられたのです。

取り上げました部分では、久遠本仏釈尊がましますこの娑婆世界にいる私たちは、はるか昔から、お釈迦さまによって「愛されている子」であることが説示されています。しかしながら、一切衆生の親でもあるお釈迦さまの教えに背いたというあやまち(不孝の科)により、今までは、お釈迦さまの愛子であることに気づいていなかったのです。それでも、娑婆世界以外の世界にいる衆生と比べれば、「親(仏)と子(一切衆生)」の関係性はまったく異なります。それは、はるか昔に、教主釈尊と私たち衆生は縁を結んでいるのであり、その関係は、天の月がおのずと清らかな水に影を宿すようなものであるということが、譬えをもって示されています。

私たちは、はるか昔から、お釈迦さまの「愛子」なのであり、それは、月がおのずと水に影をあらわすように、絶対不離の関係であるという指南です。~みんな仏の子~

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