車イスで海外移住した理由 2
東京に戻ると、フランス出張の思い出を反芻する暇もなく元の仕事漬け生活が待っていた。
その後もフランスとは何かと縁はあったものの、日々の生活に追われてパリに行く話もそれっきり出ないまま、慌ただしく3年が過ぎた。
それは忘れもしない、2001年1月3日のことだ。
その日、部屋に入って来るなり彼女は、思い詰めた表情でそれまで胸の内に秘めていた決意を、初めてぼくに宣言した。
「わたしはあなたとパリに住みたいので、そのための努力をします。
まずはフランス語学校に通います。
そしてフランス語をマスターして人脈を作ります。」
告白の真剣さ故か、なぜか「です・ます調」になっている。
以前から彼女はフランス語を習いに行きたがっていたのに、ぼくは反対してしまっていた。経験上、語学は現地で習う方が良いと信じていたからだけど、彼女がそこまで思い詰めていたとは…。
それどころか、彼女は一緒にパリに住むという決意を、ぼくにも誰にも語ることなく、この3年間密かに念じ続けてきたのだという。
なぜなら、パリに住みたいなんて口に出して言ったところで日本にはやるべき仕事もあるし、フランスの労働許可を取るのは凄く難しいし、簡単に実現できることではないと理解していたから、とのことだった。
初めて思いの丈を打ち明けられて、内心ぼくはとても驚いていたけれど、努めて平静に聞いた。
「じゃあ、本当にパリに住みたいんだね?」
「はい」
「わかった。そうしよう」
「へっ!?」
即答に、今度は彼女が驚いた。
実はその日の朝、フランスの友人から「ウェブ制作会社を立ち上げたのでデザイナーとして来てくれないか」というオファーのメールを受け取ったばかりだったのだ。
全く同じ日の出来事だったので、鈍いぼくでも気づくことができた。これは運命なんだな、と。
その頃ちょうど暫く前に個人事務所を法人化したばかりで、海外に転職するようなタイミングではなかったかもしれない。けれども必要としてくれる友がいて、愛するパートナーの願いが叶えられる。迷いはなかった。
彼女の方はさんざん思い詰めたあげく、遠大な五カ年計画を口にした途端に実現するスピード展開に拍子抜けしたようだ。
その日のうちに母にフランス移住について報告すると、
「いいんじゃない、行きなさい」
と意外なほどあっさり。
そういえば美大の春休みの旅行で訪れたパリに残ろうかと思うと伝えたときも、母は是非そうしなさいと背中を押してくれたのだった。
それからは移住準備で慌ただしくなった。ビザ取得に備え、これを機に入籍。たくさんの必要書類を集め、担当していた仕事で迷惑をかけないように奔走した。
一般的に言って難しいのは、就労ビザ申請の手続きそのものより、海外での就職先を見つけることだろう。この点、勤める会社が決まっていたおかげで問題なく就労ビザがおりた。
ぼくのような比較的重い障害を持つ者が労働許可を得て海外移住するのはレアケースかもしれないけれど、手続きで障害が問題にされることはなかった。
そうしてようやく準備が整いパリへの引っ越しを目前に控えたところで、あの衝撃的な光景がテレビで流れる。911だ。
それはまるで、そう簡単には行かないよ、と多難な前途を暗示するかのようでもあった。
それでもふたりともフランス行きの決意は少しも揺らがなかった。
海外へ移住することになって、妻は周囲から「勇気あるね」と驚かれたそうだ。
逆にぼくを知る人たちはあまり驚かなかったのは、脚が悪いのに旅行で立ち寄ったパリにそのまま居残ってしまい美大を中退した「前科」があったからかもしれない。勇気があったのはむしろ母の方か?
少なくともぼくたちにとって、海外移住に「勇気」はちっとも必要なかった。それはたぶん「希望」が圧倒したからだ。
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