ky.o9

映画鑑賞、旅、読書、芸術などなど。日々触れたもの、感じたことを綴ります。

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最近の記事

思い出す事など ― 夏の暮れに ―

台風が過ぎ去ったあとの冷気。肌寒いさえある。夏の終わりを告げられたような、そんな気がする。季節の終わりに何を思うか。「あっという間」でもなければ「やっと終わった」でもない。どこからが夏だったのだろう。「暑い」という至極単純な感覚によってのみ、私はこの夏を知覚していたのか。そんな空虚なこの夏よ。 夏来にけらし ———— 風鈴の音に誘われ、本堂へと歩みを進めたあの時、夏は始まったのだろう。一鈴の風鈴が心地よい音を奏でるそれではなく、幾多もの風鈴がこれ見よがしに喚き散らすかのよ

    • 翠雨の高雄巡り~雨と私と杉と~

      以前嵐山の古書店にて購入した東山魁夷の小さな画集。彼が変幻自在に描き出す緑に、時を忘れて魅入ってしまう。ページを捲る手が止まらない。 特に目を惹くのが北山杉の杉木立を描いた『青い峡』という作品。四角形の世界に立ち篭める翠嵐に息を飲む。神秘的であるとともに、人間を寄せつけない刺すような畏れを纏った空気。この風景を作り出したのは他でもない人間であるということに面白さを感じる。 私が通っていた大学とこの杉木立とは位置的に近く、北へ向かう車窓から何度か目にしたことがある。上へと向

      • 王朝人の夢の跡 ~嵯峨嵐山を歩く~

        上司に「鞄の中にあるのはどんな本なの?見シテ?」と言われ、取り出した本の題名は『ブルシット・ジョブと現代思想』であった。副題として表紙に踊る文字は《「クソどうでもいい仕事」から抜け出すための勉強論》である。洒落にならん。気まず過ぎやしないか… 「千葉さんって人と大澤さんって人が大好きで…」なんて聞かれてもいないのに弁明をする。届いたばかりのこの本、合間を縫ってどんどん読み進めたかっただけなのに… 休日、京都に足を運ぶ。行き先は嵯峨嵐山である。大学生の二回時、嵐山のハイエンド

        • 友人との待ち合わせ時間までの

          部活以外で知り合った大学の友人と会うのは会社勤めになってからは初めてである。夜明けまで地面を打った雨の冷気が未だ残るは京都、学生時代に足繫く通ったカフェにて彼を待つ。18時までアパレルショップでお仕事だそう。 彼と出会ったのは二回生の夏、下宿先からほど近い場所にオープンした古着屋。アルバイトの同期としてであった。「△◇大?」「△◇大、何回?」「二回」「一緒やん」。それが彼と私のファーストコンタクトでありワーストコンタクトでもあった。二人はいわゆるオープニングスタッフなるもの

        思い出す事など ― 夏の暮れに ―

          新社会人として過ごしております(おります)。

          社会人となってから10日間が経過しようとしています。現在は8時過ぎに出社したのち、新入社員研修なるものを18時まで受けてから帰宅するといった生活を送っております。 勤務中の楽しみは研修日報を執筆することであります。内容をひたすらに尖らせたい、いや、この角度で尖らせるのは適切ではない、などと葛藤しつつ、当たり障りの無い、然しながら矢張り強めの言葉遣いの文章を書いたりしております。 私生活に関してましては、19時前に帰宅し、22時頃までテレビの前で黄色いチームを応援、行き場の

          新社会人として過ごしております(おります)。

          「感覚の領域」 ― 芸術の春、読書の春 ―

          朝から三回目のワクチン接種を終え、会場から徒歩20分と少しの国立国際美術館へ。心地よい日差しを浴びながら、中之島の建造物の間を抜ける。多くの桜の木も、その花びらを精一杯に広げている。これはもう春といっていいだろう(何回目だ)。 この日のお目当ては先月頭から開催されている特別展『感覚の領域 今、「経験する」ということ』である。実験的な創作活動を行う7名のアーティストに焦点を当てた本展は非常に刺激的なものだった。 飯川雄大氏の言葉である。この言葉通りの仕掛けが施されていたのが

          「感覚の領域」 ― 芸術の春、読書の春 ―

          新作二本『ベルファスト』『ニトラム』を観てきた

          先ずは25日に公開された映画『二トラム』を鑑賞。同日公開の『ナイトメア・アリー』『ベルファスト』の方が個人的な優先順位は高かったものの、時間が合わなかった故、本作を先に。 オーストラリアで実際に起こった無差別銃乱射事件、「ポート・アーサー事件」の犯人を描いたこの映画。 息をのむとはこのこと。劇場が静まり返る、そんな映画だった。ただひたすらに不穏で陰鬱。そして不快な音響。それらはと対照的な劇中の美しい景色の数々。主人公の行動と内面の対比の象徴ともとれる。か? ストーリーは

          新作二本『ベルファスト』『ニトラム』を観てきた

          溜息しかでない。 ー 大学卒業にあたり ー

          同じ学部の卒業生らが一堂に会したあの時間、空間に、これまでに感じたことのないもの懐かしさを感じた。 四年前。地方から出てきて友達など誰一人も居ない私は、卒業式の日と同じ教室、同じような席でよそよそしく周りの席の学生とコミュニケーションを図っていた。中高一貫校で六年を過ごした私にとって、すこぶる居心地の悪い空間、時間だったのを覚えている。 学部内における少人数授業でよく目にした男の子、同じ話の輪に入ったこともあるが一度も言葉を交わさなかったアイツ。入学試験の面接で同じグルー

          溜息しかでない。 ー 大学卒業にあたり ー

          『THE BATMAN』/ 恐怖・暴力・正義の三位一体。

          昨日、和歌山市加太と淡路島のちょうど中間あたりに浮かぶ無人島、友ヶ島に足を運んだ。 この島一番の見所でもある戦前の砲台跡。内部は暗くなっているため、スマホのライトで闇を照らしつつ前へ進む。白く照らし出される壁に点在する掌大の黒い塊。 群生するカマドウマだ。凄まじい嫌悪感。そして恐怖。 もしも彼が幼き頃にこの光景を観たならば… 恐らくバットマンなど居なかっただろう。 ゴッサムの秩序のために暗躍する彼の名は。そう… 「カマドウマン」 ・・・ はい、すみませんでした

          『THE BATMAN』/ 恐怖・暴力・正義の三位一体。

          「狭苦しい鼻の先がつかえるような所」に行ってみたおはなし。

          私の出身は島根県松江市。少年時代、県庁所在地を覚えたときに、自身の住むまちと同様、県名と県庁所在地名が異なるまちに一種の親近感を覚えたりした。 その中の一つ、「松山」は「松」という漢字まで一緒ときた。そんなまちに情を持たずにいられるはずもない。加えて生粋の野球少年でもあった私。「野球王国」という響きの心地よさも深く心に刻まれている。松山商業の奇跡のバックホームなんて何度見たことか… というわけで本記事の趣旨を。先日、初めて松山を訪れたのでその際の記録と感想を綴っていければ

          「狭苦しい鼻の先がつかえるような所」に行ってみたおはなし。

          邯鄲一炊の夢

          人の世の儚さ、馬鹿々々しさ。滑稽さ。 青二才の私にそんなことは到底理解できないし、できるはずもない。 邯鄲の夢。 唐王朝の時代の伝奇小説、沈既済の『枕中記』より生まれた言葉である。 世俗の栄達の儚さをあらわしたこの言葉にどこか惹かれる。 この人生なんて。人の世なんて一瞬だ。 あらゆる分野で、自分より優れた他者で溢れかえる私の世界。 その中で正気を保つために、幾多の個人的鬱憤を、人生の儚さ、或いはそれを気にも留めない自然の雄大さにおいて―。 そう思い込まなければ

          邯鄲一炊の夢

          印象派の光を感じてきた。

          昨日、あべのハルカス美術館特別展『イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜』に行ってまいりました。美術ミーハーな私でも、知っている画家の名前が連なる本展覧会。開幕から約一カ月、やっと行けた。嬉しさのあまり、行の電車では手元から遠ざかっていた現代芸術に関する本をウキウキで読む。 「現実の芸術」「反イリュージョン」… 私の趣味としての芸術鑑賞の領域を遥かに超えてはしまったが、予想外の面白さでのめり込んでしまった。所属学部で哲学をはじめとする思想領域を専攻していた私にとって、一気に

          印象派の光を感じてきた。

          邂逅 ― 奈良・室生寺にて ―

          2022年2月、私は奈良・室生口大野駅に降り立った。周りが山に囲まれているからか、斑に、そしてゆっくりと落ちる淡い雪が、私の視界に強く焼き付く。この地に悠悠閑閑と流れる時間を可視化させたかのような雪の粒。風に吹かれてゆらゆらと空中を揺られるさまは、往古来今、渺渺たる「時」の本質が透けているようにも。脈絡なく集落に鳴り響く学校のチャイム。私は進んでゆく、10年ほど昔、中学生だったころに。 ”山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば” 百人一首の28番、源

          邂逅 ― 奈良・室生寺にて ―

          秋風切って。

          久し振りにscrapboxを覗きに行って、過去の日記を見直す。そう、去年の秋。私は岡崎公園によく通っていた。あの場所が大好きだった。友人らと大学で会うことも少なくなり、かといって街に出て飲み歩くのも気が引ける。更にバイトもフェードアウト的な形で出勤数も減らしており… というような状態であった時期。必然的に一人の時間が多くなる。 そんな不慣れな孤独なる日々を埋めてくれたのが岡崎公園だった。愛すべき場所での愛すべき時間。知らない子供と遊び、知らない人の犬と戯れ、知らないご老人の

          秋風切って。

          本の出だし、魅力的と言わずして何と言う

          昨日のこと。祖父母と叔母のお買い物の送迎係を務めるという形で、普段は足を運ばないエリアに。私はそのお買い物について特に興味があったわけでもないので、近くの古本屋さんへ。 いろんな本を手にとっては棚に戻す、或いは手に据えるという動作を繰り返し、結局見出しの画像に映っている八冊を購入。帰ってから一通り出だし、冒頭だけ読んで行く。 夏目漱石の『草枕』である。読んだことが無かったので、という点からの購入だったが。出だしを読んで思わず口元が緩む。これがかの有名な一文か。成程、リズム

          本の出だし、魅力的と言わずして何と言う

          あなたも丹波篠山という焼き釜に入ってみませんか?

          先日の投稿で丹波篠山へ日帰り観光に行くという旨とともに、下調べしてみたよ、なんてことも書かせては頂いていたのですが、百聞は一見に如かずを実感しました。こんなにも素敵な場所だなんて。場所の歴史、空気感。まさに場所性の権化のような。凄まじいよ。 ちょっとよく分からないタイトルだとは思いますが、言いたいことは<おわりに>に記させて頂きました。目次から飛べるようにはしております。 地元が島根県松江市の私ですが、松江市は城下町だった歴史を持つ、といった認識。丹波篠山に関しては今も城

          あなたも丹波篠山という焼き釜に入ってみませんか?