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大きな自動車

中村さんが山口へ帰り、しばらく空き家になっていた家に、ある家族が越してきた。
その家の駐車場に、黒塗りの高級外車が停まっていた。車は、堂々とした存在感を辺りに放っていたが、中流のサラリーマン家庭が殆んどのこの街では、ちょっと場違いな収まりの悪さがあった。
どんな人が越してきたのだろう、住民は、その家の前を通るたび、外車を見た。

ある日、その家の前を通ると、高級外車の横に男が立っていた。
強面の、がっしりした体格で、車のオーナーにはとても見えなかったが、車の直ぐ横に立ってるのだからその家の主人なのだろう。
「こんにちわ」気軽に挨拶したが、男に返答はなかった。
男は暫く私を見返して、おもむろに「ちわ」重たく、小さく返答した。
何やら、品定めでもされたようであった。

それからまた、しばらくして、玄関口を降りて来る妙齢の女性に出会った。
面差しに何処となく翳りがあったが、目鼻立ちのくっきりした美形で、それゆえちょっと近寄り難くもあったが、
「こんにちわ」私を見るなり、柔らかな声で挨拶した。
「こんにちわ」返す私の声は、大きくなっていた。

丘陵の中腹にあるその家の庭には、いつも何かが落ちていた。
ジュースの空き缶、お菓子の空箱、丸まったティッシュ。庭にものが落ちているのは、一つ二つでも、案外、目につくものである。
それらは、雨に打たれ、風に飛ばされて、何時とはなしに消えていたが、程なくするとまた、階段下にアイスクリームのカップが転がっていたりした。
その直ぐ横で、黒塗りの高級外車が、寡黙に泰然と控えていた。

丘陵へ登る小道で、スケートボードを抱えた小学四年生くらいの男の子とすれ違ったことがある。目鼻立ちがくっきりとして、あの家の子であることが、直ぐ分かった。

桜の咲く頃になると、この町では花見の催しがある。
その日の夕方、あのお宅へ催しの景品を届けに行った。
駐車場の前を通るとき、視線は、自然、高級外車へいく。黒いボディは、重厚感に溢れていた。大きなフロントグラスには、華やぎがあった。
太いタイヤを見る。大きな円周に、微か白い汚れが付着していた。
意外であった。
シルバーに光るタイヤホイールを見ると、
奥に、赤黒い錆のような汚れが、沈んでいるのが、見えた。
高級外車にあってはならないものを見たような思いがあった。

チャイムを鳴らし、玄関口に出てきた婦人に花見の手土産を渡すと、「ちょっと待ってくださいね」そう言って奥へ引っ込んだ婦人から持っていった手土産の数倍はある大きな紙袋を渡された。ズシリと重い花柄の紙袋の中には、丸々としたバナナが一房入っていた。

その年の桜もそろそろ見納めという頃、階段を降りて来るフォーマルを着た婦人に会った。
私を見ると、婦人は、いつものように「おはようございます」明るい声で挨拶した。後から4、5歳の女の子がついてきて婦人と同じような調子で「おはようございます」と可愛らしく挨拶した。

2人は高級外車に乗り込んだ。大きなドアが閉まると、重々しく柔らかな音が、ボワンと辺りにこだました。どうやら、女の子を保育園へ送って行くらしい。車が、静かに動き出した。
黒い車体が、ゆっくりと坂を登っていく。
今日は、入園式なのだろう。
2人を乗せた車が、滑らかにカーブを曲がっていくのを、丘の中腹に立って見送っていると、エールを送りたいような気持ちになっていた。

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