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医術にはぐれて

その日、歯科医の態度が違っていた。
診療が、手荒だった。メスのような先の尖った器具で、歯や歯茎を手荒に突いていく。
大口を開けた無防備な態勢で、仰向けになっているのが怖かった。
歯茎がだんだん後退していくのが気がかりで、そのことを尋ねた。
「歯周病ですかね」
歯科医の表情は、マスクに隠れて見えなかったが、「歯を強く磨き過ぎるのよ」その返答は、投げやりのようだった。

この医院には、勤め先に近いこともあって、勤め始めてすぐの頃から虫歯の治療に通っていた。
その後、歯の具合はどうですかという検診を知らせるハガキが、半年ごとにくるようになった。
仕事が忙しい時など、通院するのが面倒なこともあったが、都合をつけて通っていた。
気がつけば、定期検診は私の生活の一部になっていた。

二年ほど前、心臓の手術をした。
健康診断で心電図をとると、心房細動が見つかった。自覚症状はまるでなかったが、心臓が不規則に痙攣している。ほっておくと、心筋梗塞や脳梗塞になる恐れが多分にあるとのことで、医師の強い勧めもあり、専門病院を紹介されて、生まれて初めての手術をした。

術後の経過は、順調であった。
心臓の鼓動を整える薬と血液をサラサラにする薬を処方され、二ヶ月に一度の検診を受けながら経過観察をしていたが、体調は以前にも増して良好で、なんだか大きな仕事を終えたような達成感があった。
手術の一月後には、歯科の定期検診に通っていた。
二十代初めの女子歯科衛生士に、ゴリゴリと歯垢を取ってもらいながら、心臓の手術を受けたことを話した。
「カテーテルの手術と言っても、そんなに大袈裟なものじゃないんですね。四時間くらいだったかな。寝ている内に、終わってしまいましたよ」
私は、気楽な身の上話をするような気持ちで話していた。歯科衛生士は何を尋ねるでもなく、笑って私の話を聞いていた。

年が改まり春が来ると、検診を知らせるハガキが届いた。
私は。いつものように予約を入れ、医院を訪ねた。
医院には、二人の歯科衛生士がいるが、その日は、いつもの衛生士ではなかった。年長の三十過ぎの、しっかり者といった女子衛生士が応対した。私が、予約票と保険証を差し出すと、受付の窓口から刺すような目つきで見上げ、
「お薬手帳は、ないんですか。」
強い口調で問うてきた。
心臓の手術はしたが、歯の検診をするのに何故、「お薬手帳」が必要なのか、私は、皆目分からなかった。
私は、受付の前にぼんやりと立っていたが、歯科衛生士は、それ以上何も訊かなかった。

待合室のソファに座って、自分の名前が呼ばれるまでの十五分が、とても長かった。

治療が終わって、外へ出て歩き出すと、胸の内にある決意が固まっていた。今しがた、次回の予約を取ってきたが、もうこの医院に来るのは止めよう。
体をフワリと包むほの温かな夜気が、心地よかった。

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