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スケボー・ディダル選手が見せてくれたスポーツの本質

東京2020オリンピック、スケートボード女子ストリート。13歳と16歳の日本人選手が金と銅を獲得し、中継では瀬尻稜氏の“ウェーイな”解説も話題になったが、もうひとつとても印象深いシーンがあった。

フィリピンのマージリン・ディダル選手は、最後の「トリック」のチャレンジに失敗。転んで尻もちをついた後、両手を突き上げて「アイムオーケーイ!」と無事をアピールし、「アリガトー!」とお辞儀をして競技を終えた。

このディダル選手、最初から最後までまるで太陽のようだった。自らが紹介されると陽気にダンスを踊り、技が成功すれば喜びを爆発させ、失敗しても笑顔。そしてライバルたちが大技を決めるとまるで自分のことのようにガッツポーズで大喜びし、失敗したライバルの元に駆け寄ってハグをして励ます。一体何なんだ?この天性のムードメーカーは……!?

※ディダル選手についての記事はこちら
・オリンピック フィリピン初の「金」逃すも 笑顔絶やさず【NHK】
・フィリピンを変えたガールズスケーター、マージリン・ディダル【RedBull】

新鮮で眩しい世界

採点競技、特に個別に試技を行う種目では、ライバルのミスが自分の順位には有利に動く。なので勝利に最大の価値を置くならば、自分(自国)以外の失敗を願うことは別段浅ましいことではない。競技によっては、相手にプレッシャーを与えて追い込むことも「駆け引き」としてひとつのスキルに数えられるかもしれない。なぜなら、勝利に至上の価値がある世界だから。

ところが、ディダル選手(と他のスケボーの選手たち)は違った。ライバル達のベストパフォーマンスを喜び、ミスを一緒に悔しがる。多かれ少なかれ勝利至上主義に慣れっこになっていた自分には、あまりにも新鮮で眩しい世界だった。極端な話、自分以外全員ミスをすれば上位に浮上できるのだが、そんなことは毛頭願っていないのだ。全員がベストなパフォーマンスを出して、その上で競いたいという空気が有明アーバンスポーツパークには流れていた。そこに、スポーツの本質があると思った。

スポーツの本質とは?

スポーツの本質とは何か?については、大河ドラマ『いだてん』で描かれた大きな主題であった。明治期の日本には心身を鍛錬するための体育はあっても、スポーツという概念がなかった。紆余曲折を経て、第一部のラスト関東大震災の後の復興運動会のシーンでスポーツの本質が提示される。物語の最終話では1964年の東京五輪が描かれ、入場行進や運営、国旗掲揚、スピーチ、ブルーインパルスの飛行なども含めてすべてが「スポーツ」をかたちづくる一部であることまで描かれた。ドラマでも史実でも、ハイライトは国も民族も関係なく楽しそうにバラバラに入場した閉会式のシーンだった。

もう少し身近な例としては、東日本大震災のわずか半月後に行われた日本代表vsJリーグ選抜の復興チャリティマッチがある。あの日のキングカズのゴールとカズダンスのパフォーマンスは、日本サッカー史で語り継がれるだろうベストゴールのひとつだ。真剣勝負ではないものの、「見る者を勇気づける」というスポーツの真髄があのゴールに詰まっていたからだ。ゴールを決められた側のザッケローニ監督はこうコメントしている。「わたしはゴールを決められるのは嫌いだが、わたしのキャリアの中で相手に決められてうれしかったのは今日が初めてだ

髙田明氏の言葉

スポーツの本質についてて最も端的に言い当てたのは、V・ファーレン長崎の髙田明社長(当時)だろう。

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来た人が次から頑張ろうと、これがスポーツの果たしている役割

勝てばそれでいい、結果こそ全てという勝利至上主義とは、目線が違う。勝利至上主義の根底には「争い」があり、ときに「擬似戦争」として国際紛争のような高揚感を生む例はいくつもある。それはそれで凄まじいバトルが生まれたりするのだが、一方で争いが生み出す敵対心の醜怪さは目を覆うものがある。戦争の悲惨さを記憶する街のプロスポーツチームの社長(当時)として髙田明氏が発信したのは、勝ち負けにとらわれないスポーツの価値だった。勝った・敗けたを超えて、みんなが楽しめること、一生懸命プレーするアスリートを通じて勇気づけられること、それこそがスポーツの持つ力である、と。

対戦相手を敵視しがちだが…

とはいえ、サッカーのように対戦相手がいる競技の場合、相手との駆け引きは避けては通れぬもの。むしろ相手を罠にかけること、妨害することこそが戦術の基本である訳で、対戦相手を敵視する対抗心を生みやすい。「敵視」が行き過ぎて歪んだ感情表現につながるシーンに遭遇するのは、気分がいいものではない。ピッチ上で繰り広げられる激しいバトル、高度な戦術(騙し合い)の応酬は、お互いのその実力を認めあっているからこそ。観客として「相手チームはウチにひどいプレーをする!」と息巻く前に、「それはウチの強さを認めているからだ」と思ってみてはどうだろう。ひとたび試合終了の笛が鳴れば、互いの健闘を称え合う拍手が場内を包む。そんな雰囲気でありたいものだ。

スケボーに気付かされたこと

今回のスケートボードのストリート競技では、「失敗を馬鹿にする空気」も「ライバルのミスを喜ぶ空気」も微塵もなく、「チャレンジする者を称える空気」「成功の喜びを分かち合う空気」が流れていた。最終的に金・銀・銅が13歳・13歳・16歳という驚異の低年齢だったのも、若い選手が臆することなくプレーを楽しむ空気があったからかもしれない(経験がモノを言うヒリヒリする心理戦がある競技もそれはそれで面白いのだが)。3位に終わった中山楓奈選手は最終トリックで、難易度の低い技でスコアを積めば銀は十分取れただろうが、「(西矢)椛に勝ってやる」と金メダルのスコアにチャレンジした結果、失敗に終わっての銅だった。清々しい。

「そうそう。スポーツって本来はこうだったよな」
大事なことに気付かされた。プレーすることとは、楽しむことだ。

アリガトー!を胸に

ところでフィリピンのディダル選手が最後の演技の後に発した「アリガトー!」は、一体誰に向けてのものだったのだろうか。ご存知の通り、会場は無観客。運営スタッフや関係者に向けて?…それもあるだろうが、わざわざホスト国の言葉を覚えてきたのは、開催国・日本に対する挨拶(とリスペクト)だったと考えるのが自然だろう。上記リンクの記事を読めば、彼女がスポーツによって貧困の境遇から這い上がった選手であることがわかる。スポーツの持つ力を誰よりも知っているアスリートだ。最後の「アリガトー!」は、オリンピックという舞台でスケボーが新競技として採用されたこと、様々な困難な状況であっても開催できたことへの万感を込めた「アリガトー!」だったのではないか、と思ってしまう。ディダル選手が見せてくれた真っ直ぐな感謝や、成功も失敗も全力で楽しむ姿勢を、一人でも多くのアスリートや観客が胸に刻むきっかけになればいいと思った。

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