文化・芸術は人類が生き残る手段

音は空気の振動である
そして、この音がある一定の感覚の中で連続する時
あるいはある一定の感覚の中にある音の中に規則性を見出した時、人はそれをリズムと呼ぶ
そして、この音と音との感覚が狭くなり、ほぼ連続した音の集合体になった状態を人は音程と呼ぶ

リズムを感じることができる生物、あるいは音程を認識する生物は多く存在するが、それらを組み合わせて「音楽」として理解することができる生物は人間以外で発見されていない
また、人間の集団においてそのほとんどが何かしらの音楽的な文化を必ず持っているとも言われている
人類の生活の中に音楽はなぜか存在しているのである

音楽に限らず、演劇や絵といった現在における様々な文化・芸術の根元を探る時、それは生活に密着していたものが始まりではないか?と言われることが多い
演劇はその日に起こった出来事を仲間たちに共有するために
音楽は一つの作業を共同で行う時の手助けを
絵は現在の文字のように記録、あるいは身体に模様としていれることによってどのコミュニティに属しているのかを示していたというように
ある一定の役割を担っていた部分がある

つまり、コミュニティの繋がりや意識を結ぶための役割があった
人間は生物の進化の過程において信じる力を得てきた生き物である
つまり、実際にそれを目にしなくとも他人の言葉を信じ、そのことによってコミュニティを維持することができるのである
このコミュニティの維持において現在役割を果たしている「法律」の代わりになっていたのが「宗教」だったのではないか?とも考えられている
そして、人間はこの目に見えないものを信じる力を持っているからこそ発展することができてきた生き物なのではないだろうか?

私たちは現在でも目には見えないもの、実態のないものを信じることができる
「法律」「貨幣」なんかはその良い例ではないだろうか?
そしてこれらは全てが「コミュニティの存続に役立つ」ことを前提に機能しているように思う

つまり、法律は「これをしてしまうと集団が分断され、生物としての生存可能性が低くなるものを封じる」
あるいは貨幣は「集団における価値のやりとりに一定の基準を設ける」ものとして多くの人に信用され、存在しているわけである
もしも、集団における一部の人間が法律を信じなければ自身の利益のために他人を殺してしまうだろう
それはそうした方が自分が生き残れると判断するからである

現在の私たちは技術の飛躍的な進歩によって個人の限界を超えうるような範囲の他者と交流することができる
これはつまり、これまで異常に集団が大きく広がっていることを意味している
確かに今でも人間同士の争いは絶えないが、それでも昔に比べれば圧倒的に平和的に人類は共存している
全く違う言語を持っていたとしても、お互いにそれを理解しようと努力することができるようになってきたのである

そして、今まで以上に他人とつながることができやすくなったことによって人と人とのつながりは多様化してきている
小さな集団の中で正しいとされることが大きな集団になった時に正しいこととは限らないことがわかってきた
それを一つに正そう、統一しようとしてきた国が何度となく現れてきては争い、被害を与えたり受けたりしてきた結果として
私たちは「他人は自分とは必ずしも同じではないが共存することができる」ことを発見したわけだ
つまり、「人権」だ

そして、それぞれの違いの中で生まれる文化は言葉以上に自分たちを伝えるために大きな役割を果たす
先ほども述べたように音楽が存在しない民族はほとんどいないように
そのやり方、あり方が西洋のルールと違っていたとしても文化として存在する集団の方が圧倒的に多い
そして、その文化のあり方は使う言葉や生活の環境、習慣の中で生まれるわけだから、その国における文化・芸術はまさにその国そのものを表すための役割を持っていると言えるのではないだろうか?

つまり、文化・芸術は自分の考えや発想を発信すると同時に、今の自分が知らないこと、わからないことを知る
自分とは違う他者を知ることができる方法の一つなのではないだろうか?

文化・芸術を経済という側面から見る場合においてはそれは多くの人が共感する文化である必要がある
だが、だからと言って多くの人が理解できない文化・芸術が役割を失うわけではない
いわゆる、マイノリティを知るために文化・芸術は一つの共通言語的な役割を持つ
ここでいうマイノリティとは単純な意味での少数派ではなく、社会が認識できていない、あるいは社会が取りこぼしてしまっている存在のことである

例えば、自動販売機で飲み物を買おうと思った時に十円玉が何度入れても出てきてしまうという体験をしたことはないだろうか?
つまり、自動販売機がそれを十円玉と認識することができない十円玉であるということだ
この十円玉は自動販売機においてはその価値を持つことができない、つまり取りこぼされてしまっているのである
では、この十円玉は価値がないのか?というとそうではない
ただ、自動販売機というルールにおいてその存在が認識されていない、つまり本来は価値があるにも関わらずその価値を使うことができない状態だと言える
文化・芸術の役割の一つにその十円玉の存在を知らせることがある

自動販売機に認識してもらえる硬貨は認識されない十円玉のことを知らない
なぜなら彼らは自動販売機の中で出会わないからである
だから、取りこぼされている存在がいるということに気づけないのである
問題はその取りこぼされてしまう十円玉の存在に気付いた時にどうするか?である
十円玉を使えるように自動販売機のシステム、つまりルールを変えるか
あるいはその十円玉を放置するのか?である
そして、非常に残念ながら弾かれた十円玉だけではルールを変えることができない
弾かれない十円玉の方が多いからである
彼らは自分たちは認識してもらえるから問題はないとし、それどころか認識してもらえない十円玉は価値がないとか偽物だとかいうわけである
自分も同じ十円玉なのに
そして何よりも彼らは十円玉が取りこぼされてしまうことによって長期的な目で見た時に自分たちも含めて全員が損失を被っていることに気づかないのである

文化・芸術の役割は集団をできるだけたくさん救うために存在するシステムである
だが、歴史を紐解いた時、人間を選別する、排除する時、文化・芸術は排除される
あるいは逆に利用される時、本来の役割や面白さを失った表面的なものとしてだけ存在を許される

人間は歴史の中において生命の危機にさらされる時、多くは同じ人間の手によって晒される
だからこそ人間同士の違いを知り、受け入れ、共存することが重要なのではないだろうか?
現在、人間が信じているもの
それが法律であろうが経済であろうが科学であろうが
それらは全て自分とは違う人という存在があって初めて成立しうるもののはずだ
そして、同じ人間という種類であっても違う人だからこそお互いに違うことを知り、共存していくためにも文化・芸術は役割を持っているはずだ
いつの日か、人間は人間ではない存在とも共存していかなくてはならないかも知れないのだから

いただいたサポートは活動費に充てさせていただきます ありがとうございます