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福田翁随想録(1)

 死とどう向きあうか

 虚弱児がまさかこうした超高齢になろうとは考えてもいなかった。そのために格別な配慮をしてきたとも思えない。
 作家の伊藤桂一氏が七十歳になった時、それまで身についてきた責任や使命といったしがらみから解放され一日一日を丹念に暮らそうという気になった、と述懐しておられた。
 私は八十歳になってからさらに一歩を進め、義理を欠くことを承知で、年賀状はいただいたものから選ぶことにした。なので五十枚も使わなくなった。
 この歳になると口やかましい年長者や上司だった人たちはあの世に逝ってしまっているので、年末にせっせと墨書する繁(はん)もなくなった。
 万事省事が自分勝手に許されるかわり、改めて取り残された孤立感を覚えたりする。
 電話も気後れがして進まない。掛けた先方から楽しくなる話がほとんど出てこないからでもある。
 映画『黄昏』でヘンリー・フォンダが妻のキャサリン・ヘプバーンに 
「おまえはオールドだが、俺はもうエージェントだ」
 と言うセリフに、身につまされた。
 生き長らえ過ぎた、半分は人間でなくなってしまった、化石のようになってしまった、との感懐が籠められていたからである。
 ヘンリー・フォンダの静かな声がずしっと迫るのは、八十という身になったからだろうか。
 五体満足とゆくはずはないが、差しあたり病院通いはしなくてもよいものの、あれを食べたい、この仕事に取り組みたいといった積極的意欲はいつしか消えた。
『銀の座席』で多くの共鳴を得た堀秀彦氏は、八十歳になっての最大のテーマは「死」で、何のために生きているかを聞かれても「死にたくないから」と答えるよりほかはない、と諦めた口ぶりであった。人間は自然の一部として生まれ、生き、朽ちるもの(『人間生物学』アレックス・コンフォート) とあるのに教えられ、救われたという。とはいえ人間から自然に移る境界はむつかしいという心境に、私も同年になって共鳴する。
 時として心臓が重く感じると「苦しんで死ぬのだろうか、どんな形で死が襲うのだろうか」と不安がよぎる。
 死によって精神と肉体が離れるというが、形としてとらえられない精神はどうなるのだろうか。身体と一体になって不離不即になっていたのだから形がないからといって煙のように消滅するとは考えたくない。
 永遠の生命というが、これは肉体と離れても精神の存続を確信しているということなのだろう。
 仏教の本尊たる釈迦は弟子の問いに対してこう答えている。
「滅びてしまった者にはそれを測る基準が存在しない。……あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。死とはそういうものだ」(『歴史と風土』司馬遼太郎)
 司馬はこれに続けて「原始仏教はわれわれ凡俗には苛烈で知的にすさまじい……仏教は本来、死を語らなかったのです」と述べている。
 今日ヒンズー教徒たちのガンジス河で行なう死者との別れの行事にはいささかの悲愴さもないが、われわれ旅人には想像すら許さない生死に対する達観を認識させ、インドの風土、歴史、伝統の重厚さにはただ圧倒されるだけである。
 孔子は生死を人生における最も重要な命題と考えていただけに、弟子(季路)の問いに軽々しく答えていないが、知者、仁者、勇者の身の処し方について生死を見据えたうえで、惑ったり、心配したり、恐れたりしないとした。 
 それはさておき、死の受け止め方は高齢者といっても人それぞれなのは当然である。
 唐突の昇天あらむ 唐突をあはれ希へり 老人われは  (小林慶子)
 なんの前触れもなくコロッと逝きたいとは誰しも希うところだ。詠者はクリスチャンかもしれない。篤信で、天国に召されることをさほど恐れる様子もない。この達観こそ宗教心の厚い人に与えられた福音であろう。
 しかしこのような別な処し方もあるようだ。 
 遂にわれは八十五歳よ かくなりては行きつく涯を 究めても見む  (金窪キミ)
 私より年長だが、私にとてもこの気丈さはない。「死」と対決しようとする冷徹さが読みとれる。
 私の行きつく先は銀河鉄道始発駅だが、軌道は暗闇の宇宙の涯に延びているので見究める気になれない。座席につくのが精いっぱいというところのようだ。

         *

 原稿のおかしな言いまわしを直しつつタイピングしていて、はたと気づかされた。手直しのことではない。文字の変換だ。
 たとえば、原稿では「宇宙の涯に」とあり、変換キーをいくら押しても「涯」の字が出てこない。ワープロの辞書には「果て」しかない。「果て」の字では軽い。「みぎわ・きわみ」であって「おわり・しまい・すえ」ではない。
 自分への注意喚起でもあるので、うるさいがもうひとつ。
 原稿では「究める」とあるところを「極める」と変換してしまう。達するの「極」ではなく、追求する「究」であろう。変換に無頓着になっていると違ったニュアンスになってしまう。
「どっちでもいい」と翁は、いま目の前で破顔一笑してくれてはいるが、充分気を配っていなければと思い定める。
 尚、引用されたものについては、タイトル、著者名は確認しているが、原典には当たっていない。

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